Vol.3 人と蚕がつむぐ営み ~群馬県編~

分割再生&解説ハンドブック Part 1 群馬県の絹と絹遺産群

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プロローグ~群馬県の絹産業および産業遺産群をご紹介します。

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群馬県と絹遺産

絹の生産業である養蚕は、古代中国で始まったといわれ、日本にも弥生時代にはすでにその技術が伝わっていたといいます。しかし、実際に各地の農家が生業として蚕を飼い始めるようになったのは江戸時代。それまで大量に輸入されていた中国の絹製品を幕府が輸入禁止としたために、国内での絹需要が増加したためでした。これにともない、全国各地で養蚕が奨励され、発展していったのです。

群馬県(当時の上州)で養蚕が盛んになったのも、この時代。前橋藩が積極的に養蚕を奨励したこともあり、江戸時代中期にはすでに全国でも指折りの養蚕地帯になっていました。県内の各地域で「絹市」が立つようになったのもこの頃のことです。

こうした江戸時代の養蚕業の様子を今に伝えているのが、映像でも紹介されている「絹遺産群」の一つ、中之条町の「旧富沢家住宅」です。この住居は、江戸時代から続く豪農の住まいで、農業だけでなく養蚕、運輸、金融業までも営んでいました。寛政2年(1790年)に建てられた木造2階建てで、入母屋の建物は桁行13間、梁間7間という、当時としては非常に大きな建物で、その時代の農業の養蚕業の隆盛ぶりがうかがえます。

また、国の天然記念物である「蓮根の大桑」(沼田市)は、樹齢1500年とも言われる桑の巨木。この木が、地元で「養蚕の神様」として、長らく信仰の対象となっていたこともまた、この地に養蚕が深く根付いていたことの証かもしれません。

こうして全国有数の養蚕・絹の生産地帯となった群馬県(当時の前橋藩)は、やがて江戸末期、鎖国が解かれて海外との貿易が開始されると、日本の主要輸出品となった生糸の一大供給地となりました。外国では、その優秀な品質の生糸を称して「マエバシ」と呼ばれるほどのブランドを確立していたともいわれています。

こうしたことを背景に、明治維新以降、すでに日本最大の輸出品となった生糸を、明治政府も日本の主要産業として位置づけました。その生産量を飛躍的に高めるために、それまでの手工業的な形態から、ヨーロッパの技術を導入して、高度に工業化された製糸産業への近代化を進めることになります。

その工業化の第一歩が、明治5年(1872年)に完成した、明治政府最初の官営器械製糸工場となる「富岡製糸場」です。当時、世界最大の規模を誇る壮大な製糸場で、最先端の技術をもつフランス人技術者の指導のもと、生糸生産が始まりました。のちに世界の様々な分野をリードする、日本の工業力の第一歩が、ここから踏み出されたといっても過言ではありません。

その後、富岡製糸場は民間に払い下げられ、100年以上にも渡って生糸を生産し、近代日本を牽引し続けてきましたが、1987年に操業を停止。現在は、主要建物を国の指定重要文化財として、操業時のままの状態で良好に保存されており、見学することができます。

日本の近代化を象徴する一大産業だった群馬県の養蚕業と絹・製糸産業。現在は「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、世界遺産暫定一覧表の追加物件として選定され、正式な認定を待っています。

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収録時間 3分42秒
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