Vol.5 結いが育む郷土の原風景 ~岩手県編~

分割再生&解説ハンドブック Part 2 胆沢の稲作と用水

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胆沢区に豊かな米の実りをもたらす胆沢川・徳水園について、また、失われゆく農文化の継承のために行っている「ふれあい農業交流事業」の春の作業についてご紹介しています。

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胆沢の稲作と用水

・胆沢扇状地の歴史は人と水の歴史

古く続日本紀に水と土地(陸)が豊かな「水陸万頃」の地として記載され、早くから人々が耕作を行ってきたことがうかがえる「胆沢」の地。たしかに、扇を形成する一辺の長さが約20km、面積が約20,000haという日本最大級の扇状地は、山間地が多い東北という地域の中で、もっとも稲作に適した場所の一つだったに違いありません。
しかし、一見平坦に見える扇状地は、現在一番北側に流れる、胆沢川の流れから南に向かって、6段階で高くなっていく河岸段丘。このため、場所によってはかなりの高低差があり、すべての土地に充分水が行き渡るわけではありません。また胆沢川も、天候によって水量や水位の変動が激しく、安定した水を確保することが、この土地で稲作を行う人々にとって、ひじょうに重要な課題となっていました。
そのため、この地では早くから用水の開発を中心に、さまざまな灌漑治水事業が行われてきました。
現在までに胆沢平野に開削された用水は4本。平安時代末期に栄えた豪族、奥州藤原氏の三代目、藤原秀衡の家臣、照井三郎により開削されたとされる「穴山用水堰」、室町時代から江戸時代初期にかけて作られた「茂井羅堰」「寿安堰」「葦名堰」、そして昭和に入って作られた我が国初のロックヒルダム「石淵ダム」、そしてさらに、現在この「石淵ダム」に変わる「胆沢ダム」が作られ、今なお増え続ける水需要を満たす努力が続けられているのです。

・離縁された女性の名前のついた用水とクリスチャンネームの用水

用水の中で、今も重要な役割を担っているのが、映像でも紹介している「茂井羅堰」と「寿安堰」。
この二つの用水には、ともにその用水の開削を始めた人の名前がついていますが、その二人の謂われがユニークなのでご紹介しましょう。
まず「茂井羅堰」が作られたのは、元亀年間(1570〜72)といわれています。じつは「茂井羅」(シゲイラ)は、女性の名前。この用水はその女性「北郷茂井羅」によって生まれたというのです。(安永2年(1773)『胆沢風土聞誌』による)
彼女はこの地方に住む北郷氏の娘。その後とある氏族へ嫁いで妻となるのですが、あまり器量が良くないということで離縁され、生まれた村に帰ることになってしまいます。折しも帰った村は干ばつで水不足のまっただ中。そこで「茂井羅」は、村人たちに、胆沢川から水を引くことを提案。それだけでなく、自ら人夫を率いて工事を行い、2年間でこの用水を作り上げました。こうした彼女の働きに、村人たちは「男でもおよばない」と感心し、この用水に「茂井羅堰」と言う名前をつけたそうです。
時代は戦国の世。胆沢の地でも、領主、柏山氏の家督相続を巡り、争っていました。おそらく、こうした用水などの事業にまで治世が及ばない時代だったのでしょう。あるいは、多くの男たちはこうした争いに駆り出されていたのかもしれません。だからこそ、生きるために立ち上がった女性が数多くいた・・・そんな想像もできそうです。そんな女性たちの代表として、人々の記憶に強く刻まれた女性。それがきっと「茂井羅」なのです。

さて、もう一つのユニークな名前を持つ用水が「寿安堰」です。この用水は「茂井羅堰」から約半世紀後の1618年に着工されました。
1618年と言えば、関ヶ原や大坂夏の陣(1615年)も終わり、徳川幕府がその体制を固め終えた時期。そのころには、この周辺は伊達政宗の所領となっていました。
この伊達政宗の家臣として、この地を開拓したのが、後藤寿安でした。
ところで伊達政宗が、それまでのオランダやスペインが主体の南蛮貿易ではなく、日本人が主体となっての貿易、それも太平洋を越えたメキシコとの貿易を、さらに大西洋を越えた、スペインとの外交や協力関係の樹立という非常にスケールの大きい外交貿易を夢見ていたことをご存じでしょうか。
彼はこの夢を実現させるために、徳川家康から外交の許可をもらい、スペインの冒険家セバスティアン・ビスカイノの協力のもと、ガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造。実際にこの船で1613年スペインの宣教師ルイス・ソテロを正使に、家臣の支倉常長を副使とした慶長遣欧使節団を作り、太平洋を横断。メキシコを経由し、さらにスペイン・ローマへの派遣を成功させています。(ちなみに彼らは、日本で初めて太平洋を横断した人々になります)
つまり伊達政宗は、当時の大名には珍しく、ひじょうに革新的で開明的な大名であり、国際感覚にあふれた人物でした。当然こうした人物の下には、多くの外国人や宣教師などが集まり、また、こうした人々の教えを受けた、開明的な日本人が数多く集まっていたのです。後藤寿安もその一人でした。
彼はもともと、茂井羅堰が開削された当時、この地を柏山氏と争っていた葛西氏の家臣と言われています。その後、葛西氏は伊達家に亡ぼされ、彼はこの地を逃亡、諸国を放浪中にキリスト教と出会い、洗礼をうけキリシタンに。さらにキリスト教の宣教師などから、様々な西洋の技術を学んだと言われています。
彼は、こうした当時の最先端知識を買われ、伊達政宗の配下となり、その後もさまざまな場面で重用されていくことになっていくのです。
そして、最後に伊達政宗から命じられたのが、この胆沢の開発だと言われています。
胆沢は「茂井羅堰」等ができたおかげで、かなりの土地に水が行き渡るようになりましたが、まだまだ足りず、砂漠のような荒涼な土地も多く広がっていました。
ここを開拓するためには、なんとしても新しい用水が必要です。
そこで彼は、学んだ西洋の土木技術などを生かし、一説にはクレーンのような土木機械を自ら考案して、新たな用水を作っていきました。これが後に彼の名前がつけられた「寿安堰」です。
さてこの「寿安」という名前は、彼のクリスチャンネームJohannesの漢字表記。カタカナで表すと、「ヨハネ」です。この用水は、日本で唯一、キリスト教の聖人の名前を持つ用水となったのです。
しかし、後藤寿安にはその後、過酷な運命が待ち受けていました。
ちょうどこの頃、徳川幕府は、農民など民衆を組織化していくキリスト教に脅威を感じ、「慶長の禁教令」を発布。その禁止令は海外文化に寛容で、キリスト教を積極的に保護してきた伊達政宗にも、否応なく迫ります。それでも伊達政宗は、迫害的なことは一切せず、キリスト教の家臣には誠実に改宗を諭していました。
特に後藤寿安には、その知識や才能を惜しみ、何度も説得を繰り返したといいますが、深くキリスト教の教えに帰依していた寿安は、これを聞き入れません。いよいよ幕府側の弾圧の手が迫った時、後藤寿安は何人かの同行者を連れ、この地からどこへともなく消え去りました。
しかし、「ヨハネ」の名前がついた用水は、このあとさらにキリスト教への弾圧や迫害が激しくなっていく時代を生き残り、今もこの地を潤しているのです。

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収録時間 7分1秒
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