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Vol.18 日本一の味を支える薩摩隼人 ―鹿児島県―

桜島をはじめ数多くの活火山を持つ鹿児島県では、大地の恵みの桜島大根、海の恵みの本枯れ節、そして薩摩富士こと開聞岳の麓ではオクラやソラマメと、自然の噴火で作られた土や環境に合わせた生産が盛ん。「今年もうまいものを作りたい」という思いが薩摩隼人の情熱となって、美味しさの源を受け継いでいます。

Part 1 プロローグ~日本一の味を支える薩摩隼人~ 鹿児島県編(2分15秒)
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0:00~2:15 プロローグ~日本一の味を支える薩摩隼人~ 鹿児島県編
プロローグ~日本一の味を支える薩摩隼人~ 鹿児島県編

●農業県鹿児島とは

鹿児島県の農業生産額は、平成26年、4,263億円。これは「北海道」「茨城県」に続く第3位。「肉用牛」「養豚」「養鶏」という3部門で全国1位の生産量を誇る畜産業を中心に、サツマイモ、そらまめ、さやえんどう、球根の生産量も全国第1位。そのほかにも、さとうきび、茶(荒茶)、かぼちゃ等も全国第2位と、野菜や果樹の生産も盛んな日本有数の農業県です。
しかし、鹿児島は昔からこのように豊かな農業を営むことができる土地ではありませんでした。実際、昭和45年の県別農業生産額順位は全国第19位。さらに、戦前や江戸時代までさかのぼると、むしろ豊かな農業が営まれていた土地とはいえない状況が続いていたことがわかります。
ここでは、こうした鹿児島の農業が置かれてきた環境と歴史を解説しながら、その躍進の鍵となったものを見ていきたいと思います。

プロローグ~日本一の味を支える薩摩隼人~ 鹿児島県編

●温暖で日本有数の多雨域地

鹿児島県の面積は、約9,189km2。全国第10位。東西は約270km、南北は熊本県天草に隣接する八代海に浮かぶ長島列島から、沖縄までわずか22㎞の与論島まで、約590Kmにわたり、九州の中では一番面積の広い県です。

南北に長いという特徴から、その気候は温帯から亜熱帯にまたがる3つに区分されます。
熊本県に隣接する北西部は、年平均気温16~17℃、年間降水量はほとんどの地域で2000mm以上、冬季は暖かく夏は比較的涼しい海洋性気候の「西海型気候」。
大隅半島や薩摩半島、宮崎県寄りの地域は、年平均気温17℃、年間降水量は2400~3000mm、温暖多雨な「南海型気候」。
種子島、屋久島、奄美諸島は、年平均気温17℃以上、年間降水量は2000~4000mm、月平均気温20℃以上の期間が年に6~8ヶ月続く「亜熱帯気候」。

このように、全体的に鹿児島は温暖で多雨という気候の特徴があります。
全体的に温暖であることは、鹿児島の農業に恩恵を与えてきました。しかし、近年は地球温暖化が進み、気温が上がりすぎてしまう「高温化」が問題に。その悪影響が、畜産・野菜や果樹に出始めています。
そして、全体的に多雨という特徴もまた、農業に大きな影響をもたらします。もともと梅雨時期の雨量が多いことに重ね、日本有数の台風常襲地域である鹿児島。鹿児島には過去にも、多くの台風が上陸・接近し、その都度、大きな農業被害を出してきました。年平均降水量は、日本の平均降水量1718㎜を大きく越える2200㎜。このため水害による農業災害が多く、鹿児島県の農業は、常にこうした自然災害の脅威にされされてきたのです。

プロローグ~日本一の味を支える薩摩隼人~ 鹿児島県編

●農業に不向きな火山性土壌 シラス台地に覆われて

鹿児島県には、さらに農業に不利な条件があります。
それは、火山列島といわれる日本の中でも、特に活火山が多い地域であること。このような地域では、太古から巨大な噴火が何度もくり返され、その度噴出された火山灰や軽石などが堆積していきます。代表的なものが「シラス」といわれる地層。その厚みは100m 以上に達する場所もあり、これが蓄積することで「シラス台地」を形成しています。鹿児島は九州でもっとも面積の大きい県ですが、このシラス台地がなんと全体の50%以上を占めているのです。
シラス台地は、比較的平坦なため、一見農業に利用しやすいように見えますが、土の養分が乏しく痩せています。さらに、土粒子の間隔が大きいため水を通しやすい上、地下の水位も低いことから、全国有数の多雨地域であるにも関わらず、作物の成長に十分な水分を貯めることが出来ません。くわえて、水にもろいという性質もあるため、台風が多く多雨地域であることから、土砂崩れなどがおきやすい等、非常に不安定な土壌でした。

当然こうした土地は、農業にはあまり適していません。そのため、鹿児島の農業は、長らく台地の下に作られた狭い湿地などで限定的に行われていたのです。
江戸時代には薩摩藩の方針で、半強制的にこうした土地の開拓が進められましたが、サツマイモなどの荒れ地に強い作物が限定的に作られただけ。こうした状況は、灌漑事業によって豊富な水が得られるようになるなど、土壌の改良が可能となった昭和40~50年代頃まで続いたのです。

Part2 せっぺとベ(2分15秒)
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2:16~4:30 6月 お田植え祭り「せっぺとべ」
せっぺとベ

●日置八幡神社「御田植祭り」は「せっぺとベ」だけじゃない

若者たちが泥の中で大暴れをする「せっぺとベ」。
迫力があり、見ていても楽しいこの祭事は、見物客たちも大変人気があるため、お祭り自体が「せっぺとベ祭り」のように呼ばれるようになりました。
しかし、実際には日置八幡神社の「御田植祭り」というお祭りの一部。さらに、「せっぺとベ」が脚光をあびるようになったのは最近のことで、それまではどちらかというと付属的な祭事と思われていました。
この「せっぺとベ」、なぜ「御田植祭り」に行われているのでしょうか?わからない部分が非常に多い、不思議な祭事の一つでもあるのです。

そもそも「御田植祭り」とは何でしょう。
日本の代表的な民俗学者折口信夫氏によると、日本では春のはじまりに、豊作になるようにという願いを込め、その年1年の米作りの様子を予行演習のように再現し神様に見せておく『田遊び』が、多くの土地で古から行われていたと述べられています。
その中で、新旧の正月あたりに行われる祭事を「春田打ち」あるいは「打植え祭り」、5月の田植のときに行われるものを「御田植祭り」と呼ぶことが多いようです。
日置八幡神社の「御田植祭り」もこうした「田遊び」の流れを引くお祭りの一つ。かつては、ちょうど田植の直前となる旧暦の5月6日に行われ、明治41年からは新暦の6月6日に移りました。そして、昭和46年からは祭りに人びとが参加しやすいよう、6月第1日曜日に移され、現在もこの日取りで実施されています。

せっぺとベ

日置八幡神社の「御田植祭り」は、「せっぺとべ」を含む数々の祭事の組み合わせで構成されています。
その一つは、神をもてなすために奉納される数々の踊り。例えば、神の依り代とされる6尺ないし3尺の棒を振ったり、打ち合わせたりして踊る「棒踊り」があり、これは鹿児島のさまざまな地域に残っています。
また、「デオドン(大王殿)」と呼ばれる天狗の仮面をつけた3メートルほどの像を、「せっぺとベ」を行う御神田に運ぶ祭事もあります。
さらに、10m程度のもの長い竹の先に、松の木を削って作った薄板を赤く染めふさのようにまとめたものを付けた「しべ竿」という竿を、御神田で垂直に立つように持ち、先ほどのデオドンの所まで運ぶ祭事もあります。
このような、田の神を迎え、豊作を祈る祭事の一つとして、「せっぺとベ」も行われているのです。

せっぺとベ

●「せっぺとベ」の意味とは…?

ところで、人びとが田で跳ね回る「せっぺとベ」がなぜ始まったのか?そして何を意味しているのか?その由来はよくわかっていません。というのも、通常「田遊び」といわれる祭事の中で、このように御神田で人びとが泥だらけになるという例は、あまり多くないのです。
実際に鹿児島県にも霧島神宮や鹿児島神宮など多くのところで「御田植祭り」は実施されていますが、このような祭事は行われていません。
似たような祭事として、伊勢志摩の「伊雑宮 御田植祭」で行われる「竹取り神事」はありますが、これは御神田に神を迎えるために立てた竹の竿を奪い合うというもので、歌を歌って踊り跳ね回るという「せっぺとベ」は少し違うようです。

そこで、様々な説が民俗学者によってたてられています。
そのもっとも有力なのが「踏耕(足耕)」説です。
「踏耕(足耕)」とは、文字通り足で耕すこと。通常田植前には田植がしやすいよう、馬や牛を使って耕します。馬や牛がいなかった時代に人びとが足で耕したことを、この「せっぺとベ」が表しているという説です。
もともと「御田植祭り」のような田遊びは、前述のように、米作りの様子をあらかじめ神に見せておくという目的があります。実際、多くの「御田植祭り」「春田打ち」では、牛の格好をした人が出て田を耕す真似をする行為や、早乙女が出て田植をしてみせるような祭事を中心に、こうした祭りを行います。
日置八幡神社の「御田植祭り」では「せっぺとベ」が、こうした米作りの所作をなぞる祭事を担っているのかもしれません。

しかし、ここには一つ謎が残ります。
というのも、地元では、この祭事は「虫送り」のために行われているという言い伝えが残っているのです。
実際に映像でも、祭事に参加する若者が、「せっぺとベ」は田から稲を食べる害虫を追い出す行為だと言っています。通常「虫送り」は初夏から秋にかけて行われる風俗であり、祭事です。当然、田植前には虫はいませんから「御田植祭り」ということからいうと、ちょっと時期がずれているのです。
しかし、こちらの説を裏付ける記載が、江戸後期に薩摩藩が作った「三国名勝図会」に残っています。
当時、薩摩藩内各地の名所を解説したこの書物には、日置八幡神社では旧暦9月と旧暦5月に祭りのあったことが書かれています。
また、「9月15日を正祭とし、竹偶人をつくり、面をかぶせて童に曳かせる」という意の文章も書かれていることから、現在の「デオドン」を引き出す祭事は、「御田植祭り」が行われている旧暦の5月ではなく、旧暦の9月に行われていたようなのです。
通常、八幡神社の旧暦9月の祭りというと「放生会」鹿児島県では「ホゼ」といわれる秋祭りをさすことが多いようです。
「放生会」はもともと生き物の殺生を戒める宗教儀式ですが、これが転じて鹿児島の地方では「虫送り」としても行われています。
日置市伊集院町大田・神明神社と徳重神社で行われる「大田太鼓踊り」、同じく伊集院町徳重・徳重神社で行われる「大バラ太鼓踊り」など「虫送り」のための踊りも数多くあります。
こうしたことから、「せっぺとベ」はもともと旧暦9月に行われていた「虫送り」のための踊りで、それが何かしらの理由で旧暦5月の祭りに統合され、泥の中で跳ね回る今の形態になったとも考えられるのです。

Part3 鹿児島県農業の歴史1(3分9秒)
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4:31~7:39 7月 指宿市 開聞岳のオクラ
鹿児島県農業の歴史1

農業県鹿児島の歴史その1:農民を苦しめた薩摩藩

●武士も農業を 薩摩藩の外城制度

長州藩とともに明治維新において中心的な役割を果たした薩摩藩。
江戸時代、その石高は加賀藩の約120万石に続く約73万石を誇り、大藩として名を馳せていましたが、特に江戸時代初期は酷い困窮に苦しんでいました。

その理由の一つが、多すぎる武士の問題。
もともと薩摩を納める藩主島津氏は、戦国時代末期には九州の戦国大名としてほぼ九州全土を配下に納めるまでになりましたが、豊臣秀吉の九州征伐に破れた結果、今の鹿児島県と宮崎県の一部にまで領土を縮小せざるをえませんでした。
こうした場合、特に困ったのが家臣団の存在。
戦国時代、戦乱の時代を生き抜き、さらに広大な領地を治めるためには、非常に多くの武士たちが必要だったのです。しかし、一度領地が小さくなると、当然経済力も生産力も縮小されますから、同じ数の家臣団を維持することは非常に困難を極めました。
さらに、他藩の武士比率が全人口の大体1割程度である中、薩摩藩は全人口の4分の1以上が武士。他藩は少なくとも10人程度で1人の武士を養っていける計算に対して、薩摩藩は3人程度で1人の武士を養わなければならない計算になります。これではさすがに石高約73万石を誇る大藩でも、財政は破綻してしまいます。
そこで考え出されたのが「外城制度(とじょうせいど)」。武士を分散させて、それぞれの地域で自活させる仕組みです。

江戸時代、多くの藩では、家臣が藩主から所領を得ることで給与の代わりとする「地方知行」という戦国時代まで続いていた方式をやめ、藩主が住む城の近くに家臣を住まわせ、そこで様々な勤めを果たすことにより、それぞれ給料である「蔵米」を与える、サラリーマン的な「俸禄制」へと移行していました。

しかし、薩摩では藩内を110あまりの行政区画に分け、そこを藩主が住む城である鹿児島城「内城」に対しする「外城」(のちの「郷」)と称して、武士たちを分散配置しました。 これが「外城制度」です。 薩摩藩では、この「外城制度」のもと、藩主のいる城下の武士8千名程度に対して、10倍の8万人程度を各地域に居住させています。

鹿児島県農業の歴史1

もちろん彼らの主な役目は、藩内へ進行してくる敵を防ぐ防衛拠点としての役割を果たすこと。しかし、それだけでなく地域に居住させることで、その地域の生産活動に直接参加させ、自立させることも目的の1つでした。このため、そこに住む下級武士は自分たちも農業を営み、いざという時には武士として戦う屯田兵として、地域で生活することになったのです。
屯田兵というと、明治になって北海道の警備や農地などの開拓という両方の任に当たる「屯田兵制」を思い浮かべる方も多いかもしれません。実は明治の「屯田兵制」も、薩摩藩出身の西郷隆盛や黒田清隆がこうした薩摩の外城制度をもとに、政府に提案したものだといわれているのです。

また、彼らにはその居住地域の農民や町民を管理し年貢を徴収するといった、地方自治を執り行うという役目もありました。
通常他藩では、役人である代官の下に各地域に「庄屋」「名主」といった農民や町人がおり、彼らがその地域の行政や年貢の徴収などの管理を行っていました。しかし、「外城制度」では、こうした地域のとりまとめ役である「庄屋」も、外城に居住することになった武士が担うこととなり、非常に細かく自分の地域、特に農民を管理していました。このため薩摩藩は、江戸時代を通じてほとんど一揆などによる治安の悪化が起こらなかった、非常に珍しい藩だったのです。

鹿児島県農業の歴史1

●「土地を持たない」薩摩農民の農地制度

そしてもう一つ、薩摩藩が困窮することとなった原因は、台風などの水害が多く、災害多発地域であったことでした。

そこで考えられたのが「門割制度」という農地制度。これは、地域の農民で組織された生産共同体を中心にした生産管理制度でした。
実は薩摩の農民は、自分だけの固定的な耕作地を持っていません。通常他藩では、自作農にしろ、土地を持たない小作人にしろ、自分の耕作する土地は決まっています。しかし、薩摩では頻繁に災害が起こるため、その被害を個人の力で乗り切ることが非常に難しかったのです。そこで農業を集団で行うことで、個人のリスクを回避しようという発想が生まれました。

こうして成立した「門割制度」のもと、まずその地域の村をいくつかの区域に分け、そこに何組かの農家で生産協同グループ「門」を作ります。この「門」では、地域の耕地をほぼ均等に分割し、各農家に振り分けていきます。農家はその振り分けられた農地を耕作していくのですが、担当する農地が1カ所に固まらないように分散配置されるだけでなく、ある一定期間でローテションされます。こうして災害の被害を、地域全体で公平に補うことが出来るよう工夫していたのです。さらに、年貢も個々の農家が納めるのではなく、「門」全体で年貢の量が決められており、担当する農地条件によって負担量を割り振る仕組みでした。
このように「門割制度」は災害や不作のリスクを分散させ、同じ地域の農民間で不公平感や貧富の差が生じにくいといった点で非常に合理的で、農民にとってもメリットのある制度でした。

その一方で、「門割制度」は農民とって非常に過酷な制度でもありました。困窮した藩財政を補うため、その年貢量が非常に過酷なものだったからです。
例えば、全国的な年貢の取り分は天領と呼ばれる幕府直轄領の平均が3割弱、悪くても四公六民あるいは五公五民というように農民の支払が5割以下の年貢制度でした。それに対して、薩摩藩ではなんと8割か9割を藩に納めるという高税率。薩摩はただでさえ生産性の高くない地域です。これではいくら「門割制度」があり、個人の納税負担感が少ないといえども、そもそも農民は生きていくことさえ難しい状況だったのです。
さらに他藩の場合、こうした過剰な年貢などに対して、農民でもある「庄屋」が代官との間に立つことで、ある程度農民たちの声を御上に届けることが出来ました。
しかし、薩摩の農民たちは「外城制度」によって、「庄屋」などの役職も武士たちに厳重に管理・運用されており、こうした声も届きにくい状況。このために、薩摩藩領の農民は常に食うや食わずの状態で、非常に苦しんだといいます。

Part4 桜島大根はいつから太いのか (2分56秒)
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7:40~10:35 8月 鹿児島市 桜島 桜島大根の種まき
桜島大根はいつから太いのか

●桜島大根はいつから太いのか

世界最大ともいわれる桜島大根。この大根には多くの謎があります。
桜島大根はなぜこれほど大きくなったのか?そしていつから桜島で採れるようになったのか?わからないことが非常に多いのです。

まず、いつからこのように大きな桜島大根が確認されたのでしょうか?

桜島大根の由来で良く引用されるのが、江戸時代、1709年に貝原益軒が編纂した『大和本草』。中国の『本草綱目』にみられる分類法に準じつつ、日本や中国などの動・植・鉱物を独自の立場で分類しました。
この中に「薩摩大根は常のより大なり」という記録があります。桜島大根を解説したものには、この文を引き合いに出して、この時代から桜島大根があったのではないかと説明する説もあります。
しかしこれは、「桜島大根」ではなく「薩摩大根」。どうも現在の桜島大根のことではないようです。
その証拠に、享和2(1802年)、薩摩藩の第8代藩主 島津 重豪(しまづ しげひで)の命により編纂が始まった江戸時代の代表的な農書の一つ『成形図説』に、桜島大根の絵が掲載されているのですが、そこに描かれているのは、なんと細長い普通の大根。この年代に確認されている薩摩大根(桜島大根)は、大きな球形をした大根ではありませんでした。

実際に、現在のような形の桜島大根が記録されるのが、江戸時代後期・天保14年(1843年)、島津 重豪の孫である10代藩主 島津 斉興(しまづ なりおき)の命によりまとめられた『三国名勝図会』。
薩摩藩内の地誌や名所を記したこの文書の中には『その大なるものは径り1尺なるあり、世に桜島大根と称してこれを賞玩す。天下に大きな大根多しといえども、いまだ島産に及ぶものあるをきかず』と言う記載があります。
ここではじめて、桜島大根は現在の形である1尺=30㎝の大根として、認知されていることがわかります。

もしこうした記載に間違いがないとすると、桜島大根は1800年から1840年の間に、普通の細長い大根から、何かしらの原因で今の形に変異し、それが現代まで引き継がれているということになるでしょう。

桜島大根はいつから太いのか

それでは、何が桜島大根をこのような形にしたのでしょうか?

実はこの疑問はまだ解かれていません。ただし、推測の糸口はあります。それは日本の大根の遺伝的な多様性です。
日本には200種類ともいわれるほど、多様な大根があります。その原因は、大根が持つ「自家不和合性」という性質にあります。
「自家不和合性」の植物とは、自分の花粉では受精しない種類の植物のこと。自分の花粉で受粉できる「自家和合性」の植物とは違い、必ず別の個体の花粉がなければ受粉できません。また、「自家不和合性」の植物には、両親となる二つの遺伝子の相違が多いほど、その子どもの代に限り、両親のどちらよりも優れた性質を示す「雑種強勢」という現象があります。

江戸時代は、ちょうど野菜の栽培も盛んになり、様々な大根の種類が開発され、その種が全国的に流通。多種多様な遺伝子の大根が各地に広く拡散しました。また、日本には野生種として自生している「野大根」も各地に存在していました。
こうしたあらゆる種の大根が各地で交雑することで、さらに新しい種類の固体が生まれます。そのため、中にはもとの形からは想像もできないような、優れた性質を持つ大根になるものも、各地で誕生しました。
桜島大根が誕生した時代も、尾張あたりの優秀な大根の種が、薩摩にもたらされた頃。こうした新しい品種と桜島にもとからあった在来種の品種が交雑して、巨大化という性質を持つ大根が、新たに作り出されたと考えるのが、自然なのではないでしょうか。

桜島大根はいつから太いのか

●実は2種類ある桜島大根

大根は、先程お話した「雑種強勢」の逆ともいえる「近交弱勢」という性質も強く持っています。

これは、遺伝的に近いもの同士が交雑をくり返すことで、それまで隠れていた「劣勢遺伝子」の発現する可能性が高くなる性質。 植物にはイネ科やマメ類のように、比較的「近交弱勢」の影響が少ないものもありますが、大根は「親」「子」「孫」の3代程度でその影響が強く出てくることで知られています。

こうした「劣勢」の遺伝子は、作物という観点から見ると、今あるその作物の良さが打ち消されてしまうので、やはり問題となります。桜島大根で例えれば、今は巨大化という性質が優性遺伝として出ていますが、「近交弱勢」で今まで出ていなかった「劣勢遺伝子」が出てくると、こうした性質が打ち消され、大きくならない大根ができてしまう可能性もあるのです。
こうなると桜島大根の商品価値は全くなくなってしまいます。

こうした「近交弱勢」という点で、今、「桜島大根」は非常に不利な環境におかれています。現在十数戸という本当に少ない農家で栽培され、しかも作付けされている畑も、それぞれそう広くはありません。こうした環境ですから、当然周りは似た遺伝子を持つ、兄弟ともいえる「桜島大根」ばかりのはず。すぐに「近交弱勢」が起こり、桜島大根とはとても呼べない、やせ細った大根ばかりになってもおかしくないのです。

ところが「桜島大根」を作る農家は、安定して巨大化した桜島大根を作り続けています。
そこには、ある秘密がありました。

その秘密とは、桜島大根の種類にあります。
一般的には知られていませんが、桜島大根は1種類ではなかったのです。地元で「雌大根」「雄大根」と呼ばれている、形質の違う2つの種類の大根が存在しています。
「雌大根」は葉が細く短く、根の形は肩部からなだらかに膨らんだ形。成熟が早く、肉質は柔らかい、どんな料理にも向いているといいます。
それに対して「雄大根」は葉が太くて長く、成熟は遅いですが、「雌大根」よりも大きくなるのが特長。根の形は短紡錘形で、少し堅いため、漬け物用に使われています。

そして、桜島大根農家の人々は、この2つの異なる種類の桜島大根を畑に植えておき、自然交雑させます。
すると、先ほどお話した「雑種強勢」が発生。親よりも優れた性質が現れるため、桜島大根では、より巨大化する可能性が高くなります。
このような交雑メカニズムがあるからこそ、桜島大根は巨大であり続けることができるのです。

Part5 鹿児島県農業の歴史2(5分14秒)
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10:36~14:31 9月 指宿 ソラマメの植え付け
14:32~15:49 12月 錦江町宿利原 寒干し大根のやぐら ライトアップ
鹿児島県農業の歴史2

農業県鹿児島の歴史その2:農民たちを助けたサツマイモ

薩摩藩のさまざまな農政のため、食うや食わずの状態で非常に苦しんだ鹿児島の農民。
そんな彼らにとって、救世主的な作物がありました。

江戸時代といえば、大きな飢饉が何度も起こり、その度に数万人もの餓死者が出ていた時代。農民たちはただでさえ二重三重の苦難に苦しめられていた薩摩藩で、もし飢饉が起これば、多数の死者を出してもおかしくはありません。
ところが、1732年に西日本を中心に被害が拡大した「享保の大飢饉」でさえも、薩摩藩では餓死者が出なかったとされているのです。

平素でさえ、重い税制で苦しめられる中で、何が薩摩の農民を救ったのでしょうか?
幸運にも、薩摩には飢饉などの危機にあっても、農民の命を支えてくれる作物があったのです。

それが「サツマイモ」。

「サツマイモ」は当初中国から琉球に、1600年代に伝えられています。
それが薩摩に伝わった歴史は諸説ありますが、1600年の中頃には奄美大島などで栽培されはじめ、薩摩藩にもたらされたのは1705年のこと。船乗りであった前田利右衛門が、現在は「カツオ節」の生産地でもある鹿児島県山川の地に伝えたのが始まりといわれています。

鹿児島県農業の歴史2

さて、このサツマイモ。
蔓を土にさせば増やせるなど、繁殖力が強いため、高温や乾燥した土地、養分の少ない痩せた土地でも育ち、連作も可能という、非常に育てやすい作物。さらに食物として栄養価が高く、保存が利くということも大きなメリットでした。

そこで薩摩の農民たちは、今まで作物が実らないために放置されていたシラス台地に、サツマイモを植えていきます。
こうした土地はもともと作物が出来ないため「門割制度」の対象外。したがって、ここで栽培されたサツマイモはすべて農民のものとなり、彼らの貴重な栄養源となりました。こうして彼らは、過酷な年貢制度のもとでも、また飢饉のような大きな天災が来ても、命をつないでいくことが出来たのです。

鹿児島県農業の歴史2

薩摩の農民を救ったこのサツマイモ。当初、薩摩藩では門外不出のご禁制作物として、藩内のみの栽培を許していましたが、やはりこれだけ魅力のある作物ですから、いつしか藩外に持ち出され、中国地方や四国地方に広まっていきます。
また、前述した1732(享保17)年に発生した「享保の大飢饉」で、薩摩藩に被害が少なかったことに、当時の江戸幕府第8代将軍の吉宗が注目します。
そして、その要因がサツマイモにあると知ると、当時サツマイモに関する 『蕃薯考』という農学書を書いていた儒学・蘭学者 青木昆陽に命じ、小石川薬園などでサツマイモを試験的に栽培させ、その芋を各地に配布して大々的に栽培を奨励。
こうして関東に広まったサツマイモは、次の天明期に起こった飢饉で、救荒作物として多くの命を助けたといいます。

こうしてサツマイモは、今でも鹿児島の主要作物として、この地の農業を支え続けています。
また、その恩恵は日本全国へ徐々に普及され、特に江戸時代から戦後にかけては、日本が食糧難に陥ったときの救世主的な作物として、一時期は米にも勝る重要な作物となっていったのです。

Part6 古くて新しいカツオの話(5分14秒)
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15:50~21:03 枕﨑市 金七商店 カツオ節の生産 カビ付け
古くて新しいカツオの話

●歴史深き「カツオ節」の物語

「カツオ節」は、日本人の和食文化を支える大きな柱の一つです。ここでは、そんなカツオ節と日本人との関わりをいくつか解説していきます。


●浦島太郎が釣っていたのはカツオだった?

カツオは古来より日本人にとって非常に身近な魚でした。
それを証明しているのが、万葉集の中の長歌。実はこの万葉集に、私達の誰も知っている昔話「浦島太郎」の原型となった内容が、歌として残っています。
浦島太郎が乙姫(この歌では海神)に出会うきっかけは、「亀」ではなく「カツオ」。

『・・・水江の 浦島子が 鰹釣り 鯛釣り誇り 七日まで 家にも来ずて 海界を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向かひ・・・』

この歌では、助けた亀に連れられ向かった竜宮城で乙姫と出会う話しではなく、漁をしていたときに出会うというストーリー。漁で獲物にしていた魚こそが「カツオ」なのです。
このような歴史から、当時の人にとって、海で釣る魚の代表が「カツオ」であったこと、そして「カツオ」は誰にとっても、大変身近な魚であったことがわかります。

さて、それではこの当時、「カツオ」はどのように食べられていたのでしょうか?
万葉集や日本書紀が編纂された時代に、「養老令」という法律が制定されています。この中に、税金「租庸調」の納め方を解説した内容があり、そこに「カツオ」が登場しているのです。 その中で、絹を納める「調」の替わりとして物納することが許される品目に、「カツオ」があげられているのです。それは、生のカツオの干しものである「堅魚」、煮て干し固めたカツオである「煮堅魚」、あるいはカツオを煮たときの煮汁を煮つめて作る「堅魚煎汁」(かつおいろり)というカツオでできた3種類の食品。
カツオは魚の中でも腐りやすく、現在のように冷凍や冷蔵のような保管方法がなかった時代、生のまま食べられる機会は少なかったといいます。ですから、こうした保存食品として食することが「カツオ」のオーソドックスな食べ方だとされていました。「カツオ(鰹)」という名前そのものも、干した堅い魚=「堅い魚」(カタイウオ)からきているといわれています。

さて、この中で重要なのが「堅魚煎汁」。
平安時代の宮廷料理を記録した『厨事類記』によると「堅魚煎汁」は「醤のかわりに使用する」と書かれており、完全に調味料として使われています。
特に駿河の「堅魚煎汁」は味も良く、「税として納める分が足りないときは、買ってきてでも納めるように」などと指示する記録が残っていていますので、かなりの人気調味料でもありました。
カツオを煮たときの煮汁を煮つめて作るということは、カツオのうまみ成分を凝縮することにほかなりません。奈良・平安の時代から、すでに日本人は「カツオ」という魚を、単に肉を食べるだけではなく、そのうまみ成分を料理に使うということを見出していたのです。

古くて新しいカツオの話

●鰹だしの始まりは室町時代から?

「カツオ」はこうして、少なくとも奈良時代頃には、干した肉をタンパク源として食されたり、その「旨み」を料理の調味料として使用されるようになりました。しかし、この頃はまだ、干したカツオを削って煮物や汁物のベースとなる「だし」を作り出すといった、現在の「カツオ節」の形ではありません。
こうした形が現れるのは、室町時代になってからのこと。それにはまず、日本食に関する技術の進化が必要でした。

日本食は、平安時代に宮廷や貴族の間で確立された「大饗料理」からはじまります。それは、生や茹でたり焼いたりした様々な食材が盛られた皿を大きなテーブル並べ、そこから各自が食材を取り、自分の小皿に入った「塩」や「酢」などの調味料で食べるというスタイル。
「刺身」などのシンプルな食材を、小皿に入れた「塩」や「醤油」などの「調味料」につけて食べるという、今も私たちが普通に行っている和食のスタイルが、このときすでに確立されていたのです。「堅魚煎汁」(かつおいろり)も多くはこうした形で使われていたのでしょう。

しかしこの時代には、複雑な味付けが必要となる「煮物」などの料理は、まだありません。
それが始まるのは、鎌倉時代。中国の禅の影響を受けた「精進料理」がもとです。当時、南宋で「禅」を学んだ留学僧が、「南宋の寺院で作られている料理には、これまでの日本にはない多彩な食材や調理技術が使われていた」と伝えたことで始まります。

「Vol.12 人々の愛がはぐくむ茶のかおり 静岡県編」でご紹介した「お茶」も、「Vol.15 信州の宝、山里に連綿と 長野県編」でご紹介した「ソバ」も、こうした留学僧たちが日本に持ち帰ったことをきっかけに、その後、禅宗の寺を通じて日本全国に広まった食材です。

また、禅宗には「日常の行いそれ自体がすでに仏道の実践である」という教えがあるために、毎日の食事も重要な禅修行の一環。このために、それを作る「調理」という行為も大切にされました。特に仏教である禅宗は、肉食禁忌や「にんにく」のような刺激物を摂らないなど、食材の選択にも制約がありました。そこで自ずと、様々な創意工夫をして日々の食事を作ることが求められ、ここで多彩な調理方法が生まれることとなります。
豆腐など、もともと淡泊な食材を使いながらも、調理法や調味料の使い方で、多彩な味を作り出す「精進料理」が生まれるのです。そして同時に、その多彩な味を生み出すための技術として「こんぶ」や「しいたけ」などの「うまみ」成分を使った「出汁」ができたともいわれているのです。

こうした料理法の進化をもとに発達したのが、室町時代の「本膳料理」です。
「本膳料理」は大名が室町幕府の将軍をもてなしたり、家臣が主君を自宅などに呼んで同盟関係や主従関係が強固なことを互いに確認し合う「御成」という宴会セレモニーで出された「料理」のこと。
「本膳料理」は「精進料理」や後に盛んになる「懐石料理」に比べ、あまり知名度はありませんが、今でも旅館の宴会などで使用されている一人用の台を「お膳」というのは、この「本膳料理」が「お膳」で宴会をしたことが始まり。また、結婚式で行われる「三三九度」の杯といった慣わしも「本膳料理」が始まりだったといわれており、その後の日本の食習慣に大きな影響を与えた料理でもあるのです。

この「本膳料理」は、今で例えると、海外からの賓客が来日したときに開かれる、晩餐会のような、公式行事の場で振舞われるような料理。失礼なものは出せませんから、当然腕の良い料理人(庖丁士)が必要です。
こうした料理人が書いた料理法に、いよいよ、カツオの出汁をベースとした料理法が出てくるのです。それが『大草殿おおくさどのより相伝之聞書』にある「白鳥」の料理のレシピ。 「白鳥を煮て調理する際に「にたし」というカツオを削ったもの(花鰹)を使った出汁を使用する」という記載です。
もともと「本膳料理」は武士の料理です。「精進料理」と違って、仏教色はありませんから、魚や鳥料理がメインディッシュとして登場します。
こうした癖のある食材を使うには、精進料理のような「こんぶ」や「しいたけ」による植物系の出汁による味付けでは、もの足りなかったのでしょう。 そのときに生まれたのが、干した「カツオ」を削って作る「鰹だし」。「鰹節」という名前も、この時代にこうした調理方法とともに生まれたといわれています。

「カツオ」を出汁として使う方法は、これ以降、日本食である「本膳料理」が、戦国時代に武士の間で流行する「茶道」に取り入れられ「懐石料理」となり、さらに江戸時代に今度は料理専門の料亭が「懐石料理」をもとに「会席料理」を作り出していく歴史の中で、一般的な調理方法として普及していくのです。

古くて新しいカツオの話

●カツオ節の誕生と今

こうして江戸時代に「カツオだし」が京や大阪・江戸と言った都市部で普及しはじめると、その需要に応えるために、日本各地、例えば紀州・土佐などで、「カツオ節」が作られるようになります。
しかし、初期の「カツオ節」は映像でご紹介しているような製法で作られたものではなく、もっと簡単な日干し、あるいは現在の「なまり節」(カツオの肉を蒸し、一度だけ火入れして、生干しにしたもの)のような形だったようです。
そのため、一つ重大な問題が発生します。生産地から京や大阪といった消費地に運ぶ間に「カツオ節」に「カビ」が生えてしまうのです。「カビ」が生えてしまった「カツオ節」は、当然商品価値が下がってしまいます。そこで、普通の発想であればカビが生えないための工夫をするところなのですが、ここに逆転の発想をした人物が現れます。
逆に「カビ」を付けることで、「カツオ節」を美味しくてしまおうという発想。実は、室町時代から江戸時代にかけては、みそなどの「麹」を利用した発酵食品が、一般の人々にも普及する時代。「麹」も、もとは「コウジカビ」。これを使用してみそなどを自家製していたこともあり、「カビ」を利用することでさらに食品に「旨み」を加えられることを、多くの人が体験的に理解していました。こうして江戸時代17世紀に、映像でご紹介しているような「カビ」をあえてしっかりと付ける、現在の「カツオ節」が誕生したのです。

さて、こうしてできた「カツオ節」を、もっともたくさん消費するようになったのはどの時代かご存じでしょうか?

なんとカツオ節がもっともたくさん食べられるようになったのは、つい最近。まさに「今」なのです。
今の私たちは、和食といえば「こんぶ」や「カツオ」で出した出汁を自然にイメージしています。しかし、こうした「カツオ節」の「出汁」は、長らく高級な料亭などだけで使われる和食の技とされ、「カツオ節」自体も、贈答用として使われる高級品だったのです。戦後、昭和の後半頃まで、一般的な人々は、普段は「煮干し」などのもっと安い素材で出汁を取り、カツオ節を使うことは正月など特別なときだけ。ですから、こうしたものを普通に食べるようになったのは、つい最近のことなのです。

けれども、私たちは今、「本枯節」を削って出汁をとることも、パックで買ってくる「花鰹」を使うことは、あまりありません。ですから、あまり「カツオ節」食べている自覚がないのも事実。それでは、どこで「カツオ節」を食べているのでしょうか。

それがいわゆる顆粒で製品化された「和風だし」のような商品です。
こうした商品は、カツオ節にカビを付ける前、「荒節」という段階で出た、細かく砕かれたカツオ節が主原料。こうした商品ができることによって、カツオ節は初めて、大量消費されるようになったのです。

Part7 鹿児島県の灌漑事業(10分11秒)
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21:04~25:09 1月 桜島 桜島大根の収穫
25:10~27:21 指宿 ソラマメの収穫
27:22~29:29 枕崎 本枯れ節
29:30~31:14 エンディング
鹿児島県の灌漑事業

農業県鹿児島の歴史その3:日本一の「オクラ」「ソラマメ」を作った「南薩畑地灌漑事業」

南薩地域とは、鹿児島市の南にある、南九州市、枕崎市、指宿市の3市を中心とした、薩摩半島南部に広がる総面積約13,000haの広大な畑作地域です。
この地域はまさしく、鹿児島県の典型というべき、農業を営む上で不利な条件が重なった地域。この土壌は、多孔性で割れ目も多く保水力に欠ける上、栄養価も少ない火山性のシラスという土壌に加えて、鍬も跳ね返すという堅い「コラ」の土壌が、浅く広く分布しています。また、これらの土壌は台風などで大量の雨が降ると、一挙にもろくなり土砂災害を引き起こすという難点も持っています。
そのためこの地域では、サツマイモなどの痩せた土地でも育つ作物しか栽培できず、農家は非常に貧しい生活を余儀なくされていました。
例えば、この地域にある旧・知覧町では、昭和25年(1950年)頃、総農家数4,321戸のうち、農産物の年間販売総額5万円以上の農家戸数がわずか35%しかなかったといいます。当時の公務員の初任給が1万円を超えていたことを考えると、彼らの年収はその半分にも満たず、この金額で多くの家族を養い、農業にかかる様々な経費も賄っていたと考えると、ほとんどの農家は生活がままならない状況であったということが分かります。
この状況を改善するには、まず水が必要でした。
このため昭和24年、25年、28年の3回、さらに昭和36年、37年とボーリングによる深層地下水調査が行われますが、結果は失敗。また、溜池による用水確保も試みましたが、シラスもコラも「ざる」のように水を通してしまうため、これも失敗に終わります。

鹿児島県の灌漑事業

ところで、この地域には九州最大、全国でも27位の大きさを誇る湖「池田湖」があります。
池田湖は火山の活動で出来たカルデラ湖。面積10.91km²、周囲15㎞、ちょうど日光の「中禅寺湖」や千葉県の「印旛沼」を少し小さくしたくらいの大きさです。深さはなんと233mもあり、かつては世界有数の透明度26.8m(1929年)を誇った湖です。
当然この規模を誇る湖ですから、この水を利用した灌漑工事が、江戸時代頃から計画されていました。そして明治5年(1872年)から5年の歳月をかけ、用水工事が実施され、この水を利用した開拓地が37.9ha完成しています。

しかし、この池田湖には流れ込んでいる川がなく、水の補給源は雨水だけ。水の利用が始まると、あっという間に湖の水位が3mも下がり、大正末期~昭和初期には干ばつに伴い、さらに水位が低下し続けました。
危機的な状態が続き、広い薩南地域を潤すことは全くの不可能かと思われました。そんなとき県の耕地課長に赴任したのが、芝山半之丞氏。彼が思いついたのは、この池田湖に遠くの川から水を引き、湖に一端水を溜め、そこから用水によって地域に水を供給しようというアイデアでした。
もともと鹿児島は雨が多い地域。ただ、それを溜めることが出来ない特殊な土壌なのであって、決して水そのものがないわけではなかったのです。それなら地域で唯一水を溜めることが出来る天然の溜池に、その水を引いて使おう。これらならば、以前のように池田湖の水を使い過ぎることもなく、安定して大量の水を供給することが出来ます。

鹿児島県の灌漑事業

こうして、昭和45年(1970年)に、いよいよ国営事業として「南薩畑地灌漑事業」が始まりました。
まず、川から水を取り入れる「頭首工」や、そこから池田湖へ水を送る「送水路」、池田湖から水を各地に送るため「幹線水路」などが着工されます。次に、水を供給する畑の整備、効率的に水を使用するために区画を整理し直し、スプリンクラーなどの設置が開始されます。もちろん、コラなど不要な土壌の改良も必要ですし、周辺の道路などもあわせて整備されていきます。
結局、すべての事業が完成するためには、およそ15年間という長い年月が必要でした。 こうして昭和59年(1984年)に完成した「南薩畑地灌漑事業」は、現在、この南薩エリアの約6000haにも及ぶ田畑を潤しています。これは国内でも愛知県、静岡県にまたがる豊川用水の9,800haに次ぐ、国内2番目の規模を誇る灌漑事業であり、この不毛なシラス台地を美しい作物の実る台地へと変える鍵となったのです。

鹿児島では昭和30年代から「南薩畑地灌漑事業」の他にも「笠野原灌漑排水事業」「出水平野農業水利事業」「曽於東部農業水利事業」など、大規模な灌漑事業が行われました。
これによって、ようやく多くの土地に水が届けられるようになり、現在、鹿児島は映像でご紹介している「ソラマメ」や「オクラ」の生産量が全国第1位なだけでなく、「さやえんどう」も第1位、「かぼちゃ」「お茶」は第2位、「サヤインゲン」「ジャガイモ」は第3位、「大根」「ピーマン」「さといも」は第4位の生産量を誇るなど、私たちの食卓に欠かせない様々な野菜の全国生産量上位を占める「野菜王国」となっているのです。

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