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Vol.17 小さき命を紡ぐ 豊穣の長州 ―山口県―

和牛の原型ともいわれる見島牛を守るための飼育や流通の普及、新種の野菜「はなっこりー」の開発など、新しい農畜産業の形への挑戦が続けられている山口県。こうした次世代の担い手育成と共に、初節句には子どもの健康を祈り大凧「鬼ようず」を揚げるなど、昔から受け継がれる伝統をつなげ、ふるさとを守る人々がいます。

Part 1 山口県概要(3分16秒)
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0:00~2:35 プロローグ~小さき命を紡ぐ 豊穣の長州~ 山口県編
2:36~3:16 山口県萩市 松下村塾
庄内地方とは

●三方を海に囲まれた温暖な山口県

山口県は、面積6,111 km²。47都道県別に比較すると23位。
「茨城県」「群馬県」「大分県」などと同じぐらいの大きさです。
また、人口は140万人(2015年) 「沖縄県」(143万人25位)「滋賀県」(141万人26位)に続く27位。
大きさも人口も、日本の都道府県の中で中くらいの規模を占める県です。

本州の西の端に位置する山口県は三方を海に囲まれており、北部は山陰の島根県と日本海、東部は中国の広島県と瀬戸内海、南部・西部は関門海峡をはさんで九州に隣接しています。
この地形の影響により、
北部は、冬の季節風が多くの雪をもたらす「日本海側気候」
東部は、比較的乾燥し温暖な「瀬戸内海式気候」
南部や西部は、夏季に多雨多湿、冬季に少雨乾燥である「太平洋側気候」
と、地域により異なります。
ただし、北部は日本海側気候に属しますが、近くを流れる暖流「対馬海流」の影響により、他の日本海側地域に比べると温暖です。そのため、全県を通じて温暖な気候風土だと言われています。

庄内地方とは

●長州藩が発展させた山口の農業

山口県は中国山地の末端にあたり、中山間地域が海まで迫っているだけでなく、大きな川も多くありません。そのため、河口などにできる農耕に適した沖積平野も少なく、あまり農業に適した場所ではありませんでした。
こうした、立地的に不利な状況にある山口県で、農業を発展させたのが江戸時代の長州藩です。

長州藩の藩主である毛利家は、戦国時代から織豊時代(安土桃山時代)にかけて、山陰から中国地方、果ては九州の一部に渡る広大な領地を持っていました。それは100万石、検地による厳密な実高としては200万石にも上るもので、押しも押されもせぬ西の大大名として名を馳せていました。
しかし、西軍・豊臣家と東軍・徳川家が戦った関ヶ原の合戦が、その明暗を分けます。毛利家が名目上の総大将を担った西軍は敗北。勝利した東軍の徳川家康は、毛利家の領土を、現在の山口県である周防と長門の2か国に減封。
石高は約30万石にまで縮小されてしまいます。
当然、大大名として莫大な経費を必要とする毛利家にとっては、この生産力の低い土地ではとうてい全てをまかなうことが出来ず、経済的な危機に陥ります。

そこで実施されたのが「防長三白」や「防長四白」ともいわれる農業・産業政策でした。
「四白」とは「米」「塩」「紙」「蝋」のことです。
中でも「米」は、もちろん年貢の基本ですし、家臣への支払にも使用される重要な農産物。これの増産なくては藩の財政は成り立ちません。
そこで盛んに行われたのが、長州藩で「開作」と呼ばれた「新田開発」です。江戸時代、「新田開発」は日本全国で盛んに行われています。 通常は、藩や幕府が農民に資金や資材を準備して開発を行わせる「公共事業的」な新田開発や、農民が自主的に行う「民営的」な新田開発が主流でした。 長州藩は、藩の事業として瀬戸内海沿岸各地を干拓し、大規模な「新田」をはじめ、塩を作るための「塩田」も各所に作っています。
しかし、長州藩の新田開発はこれだけでは収まりません。
江戸時代「士農工商」といわれた身分制度を越えて、家臣である武士達にも「御家来開作」という形で新田開発を奨励。
さらに、借金の減らない藩の財政に左右されることなく、新田開発や産業振興を自由に積極的に行えるように、「撫育方」(ぶいくがた)という独立別会計の「産業振興公社」的な組織を作ってまで、農業・産業政策を推し進めました。
このような積極的政策が功を奏し、一説によると、江戸時代末期には、長州藩の米の収穫は当初の石高から、30万石も増えたと言われています。 そのほかの産業政策ともあわせると、幕末期には、長州藩は100万石以上の経済力を持つまでになり、この経済力が倒幕の原動力になっていったのです。

庄内地方とは

●工業県山口。その農業の未来は・・・

現在、山口県が日本有数の工業県であることは、意外に知られていません。
内閣府の平成25年県民経済生産によれば、山口県の第二次産業の割合は36%。これは全国平均の24%を大きく上回る数字です。
さらに、山口県は1事業所当たりの製造品出荷額等が全国No.1。
つまり、それぞれの工場の規模や生産力においても、山口県の工業力は日本の中でもかなりの水準なのです。

その主力は「基礎素材型産業」である石油化学などの大型コンビナート群です。
現在瀬戸内海沿岸各地にある石油化学コンビナート群は、戦後に作られたものですが、山口県の工業化は早く、大正から昭和の初めにかけて、こうした場所には、すでに造船や化学、機械、金属などの工場が数多く作られていました。

その山口県が工業化をはじめるきっかけも、長州藩時代にありました。
実は、山口県宇部市周辺には石炭が出ることが古くから知られていました。 江戸時代後期頃から塩田燃料として活用されていましたが、幕末には船舶燃料としても注目されるようになり、石炭局を設置。長州藩はこれを事業化していきました。さらに、明治にかけ採掘は本格化していきます。

その後、廃藩置県に伴う石炭局の廃止により、採掘作業は民間の企業へ移っていきますが、明治に始まった日本の工業にとって、工場のエネルギーとなる鉱物資源を近隣エリアから供給できることは、大変重要なことでした。
さらに山口県の瀬戸内海沿岸地域には、長州藩時代「新田」や「塩田」を作るために開拓された干拓地が豊富にあります。
こうした土地は海が近く、原材料の搬入や製品の出荷に便利なため、工場用地としても最適だったのです。
このような好条件が重なり、数多くの工場が山口県に作られ、昭和初期には他県に先駆けて、工業県へ変化したと言われています。

一方、その発展は、山口県の農業規模の縮小につながりました。
産業人口が農業から工業へと移動してしまったからです。

こうした歴史もあり、現在、山口県の基幹的農業従事者の平均年齢は、全国1高齢な 70.9 歳。くわえて、70 歳以上の従事者が全体の 6 割を占めており、今後さらに農業従事者が減っていくことが予想されます。

そこで山口県やJAグループ山口では、農林水産業の育成や次世代産業の育成を図るためのアクションプランを作り、次世代の担い手養成と、新しい形の農畜産業にも挑戦しています。

その一つが、今回ご紹介している「見島牛」などに代表される国産和牛の拡大です。
山口県の畜産業は、すでに農業産出額の約30%弱を占めており、米に次ぐ主要生産物となっています。 中でも「肉用牛」の生産には、耕作放棄地を利用した「山口型放牧」や、放牧場所を固定せずに電気牧柵を用いて自由に移動していく「移動放牧」など、低コスト化・作業軽減化された畜産方法を取り入れており、新規参入のしやすい、新しい形の畜産業を提唱しています。

また「米」に代わる新しい農産物の生産振興も重要です。
その一つが、この映像でご紹介している「はなっこりー」。山口県農業試験場で作り出された、中国野菜のサイシンとブロッコリーを掛け合わせた新しい農作物で、山口県発の新野菜として平成8年より栽培が始まりました。
また「トウキ」や「シャクヤク」「ミシマサイコ」といった薬用作物等の新規栽培品目・品種導入なども行い、女性や高齢者でも栽培できる、比較的労働負荷の少ない新たな農業を目指しています。

Part2 見島牛(8分18秒)
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3:17~3:47 7月 萩商港 高速船「おにようず」
3:48~7:41 萩市 見島 見島牛 ミドリヤ(萩市内)の見蘭牛
7:42~9:56 多田さんのお宅 見島の伝統の「鬼ようず」
9:57~11:34 住吉神社
黒川能はなぜ生き残ったのか?その1

●「和牛」と名乗れるのは4種類の牛だけ

映像でご紹介している「見島牛」。
古来の和牛の形質を伝えるということで、昭和3年に国の天然記念物として指定された、日本でも貴重な牛。 まさに「和牛」の中の「和牛」とも言える存在です。

しかし、この「和牛」と言う名称。
私たちがスーパーなどで牛肉を買うとき、よく見かける名称ですが、実は何をさしているか、おわかりでしょうか?

「和」という言葉の響きから、輸入牛に対する国産牛の総称のようにイメージされるかもしれません。
しかし、国産牛であればすべて「和牛」というわけではありません。 「国産牛」というのは、国内で生産(精肉)された牛の肉をさす表記で、国内産であるということを意味しています。
逆に、海外で生産(精肉)し輸入された牛の肉は「輸入牛」という表記になるわけです。
(ただし、生きた牛として輸入されてきた場合は、海外よりも日本国内で飼育された期間が長い場合において、国産牛と表記されます。)

現在日本では「ホルスタイン」など、「和牛」ではない種類の牛も肉用に生育され、一般的な国産牛として流通していますが、もちろん「和牛」ではありません。
つまり「和牛」とは牛の「品種」を表す言葉で、産地名を表す言葉ではないのです。

もともと「和牛」は、日本が明治以降、それまで日本で飼育されていた在来種を海外の牛と交雑させ、改良し、より優秀な牛を作ろうとしたことから始まりました。
こうした中で、様々な牛との組み合わせが試され、あらゆる種類の牛が生まれます。
その中で、1944年(昭和19年)に「黒毛和種」「褐毛和種」「無角和種」、1954年(昭和29年)に「日本短角種」が、形質が固定された新しい「種」として認定を受けました。 その後、この4品種の総称として「和牛」という名前が使用されるようになったのです。

現在は農林水産省ガイドラインによって、「和牛」の表記基準が定められており、上記の4種類であること、国内産、牛トレーサビリティ制度で確認できる、という3項目を満たすことが条件とされています。

黒川能はなぜ生き残ったのか?その1

●ということは「見島牛」は「和牛」じゃない?

前述したように、現在の「和牛」は明治以降、それまでの日本在来種と西洋の牛を交配して作った「黒毛和種」「褐毛和種」「日本短角種」「無角和種」という4種をさします。
つまり、決して古くからの日本在来種が「和牛」と名づけられたわけではなく、日本の牛にルーツを持つ、改良された新種というのが今の「和牛」の位置付けです。

それでは、こうした改良種ではない、純粋な、ある意味本当の「和牛」はいないのでしょうか?
まさに、それこそが今回の映像でご紹介している「見島牛」です。
日本の牛は、ほとんど全てが明治時代以降、「和牛4種」のように西洋種との交雑が進み、純粋な和牛と言えるのは、もはや2種類だけしか残っていません。 その1種が「見島牛」。もう1種類は、大正時代に他島から持ち込まれた牛が逃げ出し野生化した、鹿児島県のトカラ列島北端、口之島に生息する「口之島牛」です。

これらの2種は近年のDNA解析の結果から、西洋種の影響を全く受けていない日本の在来固有種であることが明らかになっています。(そして、この2種は近親であることも判明しています。)
どちらも離島という隔絶された環境にいたことで、幸いにして西洋種の影響を受けずに生き残ることができた貴重な牛なのです。

しかし、本来純粋な和牛であるはずの「見島牛」ですが、このような背景のために、農林水産省ガイドライン上は、「和牛」という位置付けから外れてしまうのです。

黒川能はなぜ生き残ったのか?その1

●山口県のもう一つの希少な牛

山口県にはもう1種類、日本でも貴重な種類の牛がいます。それが「和牛」4種の内の一つ「無角和種」です。
「無角和種」は、大正時代、山口県阿武郡で、日本在来の和牛にアバディーン・アンガスなどの西洋種をかけあわせて作られた品種。
色は「黒毛和牛」のように黒ですが、角がありません。 成長が早く、よく太る体質で、赤身の肉は質も良く、一時は「黒毛和牛」よりも高値で取引されていました。
しかし、その後の牛肉の輸入自由化や黒毛和牛などの「霜降り肉」ブームで、サシの入らない「無角和種」は次第に数を減らし、平成にはわずか数百頭に。 ついには絶滅が危惧されるまでに数が激減しました。
このため、現在は山口県と阿武萩の9市町村、JA、経済連が参画し、第3セクター方式による無角和種振興公社が設立され、その種の保存活動が行われています。
それにも関わらず、現在(平成28年度)、「無角和種」の飼育頭数は、わずか169頭。 例えば、同じ年に「黒毛和牛」は約158万頭が全国で飼育されていますから、その数はわずか0.0001%ほど。 「見島牛」にも比すべき、大変貴重な種なのです。

Part3 はなっこりーを作った技術 (9分15秒)
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11:35~14:29 9月 山口市名田島 はなっこりーの定植
14:30~16:24 はなっこりーの植え付け 見島 コシヒカリの収穫 仔牛の誕生「初福」
16:25~20:49 11月 山口市名田島 はなっこりーの収穫 はなっこりーの料理
東北山村の山暮らしと狩猟

●「はなっこりー」を作った技術

「はなっこりー」は、山口県農業試験場で作られた山口県オリジナル野菜。
「サイシン」という中国野菜と「ブロッコリー」を交雑させることによって作られた新種の野菜です。

この両親とも言うべき「サイシン」と「ブロッコリー」は、ともにアブラナ科の野菜です。
アブラナ科というと「キャベツ」「白菜」「大根」「カブ」「小松菜」、もちろん「菜の花」なども全てアブラナ科。 アブラナ科の野菜に種類が多いのは、交雑しやすいという特徴があり、さまざまな種が自然界で交雑し、生まれていった結果だと言われています。

しかし、全てのアブラナ科の植物が、自然界において、みな交雑できるかというと、そうではありません。
交雑するためには、染色体の数などが一致することが必要。 異なる種の組み合わせでは、いったんは受精するのですが、条件が合わなければ、胚の成長途中で発生が止まり死んでしまうため、種子ができず、新しい種が生まれないのです。

例えば、キャベツと白菜。
一見姿の似ている二つの野菜ですが、この二つは染色体の数が違い、自然の状態では交雑しません。

これを可能にしたのが「胚培養」というバイオ技術。
成長可能な未熟な胚を取り出して、人工的に組織培養を行い、さらにホルモンの調節などで分化、増殖させることで、人工的に交雑する技術です。

この技術によって、日本では1959年にキャベツと白菜を掛け合わせた「ハクラン」という品種が、新野菜として誕生しています。
この「ハクラン」、白菜のように葉が大きいのに、キャベツの甘みを持つという、二つの野菜の良いところを兼ね備えています。
そのため、誕生当時、この技術によってさらにおいしい新野菜が、どんどん市場に出てくるものと、大いに期待されてもいたのです。

しかし、実際にこうした技術を使った新野菜が市場に数多く出回ることはありませんでした。
というのも、新種なだけに未知の部分が多く、栽培が難しかったり、個体あたりの種子の数が少なかったりと、なかなか流通するだけの数を確保できないという問題がありました。 「ハクラン」もまた、こうした問題が今日まで解決できておらず、現在もほとんど栽培されていません。

さらに、根本的な問題として、商品価値を持った野菜を作り出すことや、商品化することの難しさが挙げられます。

現在の農業市場は、長い年月の中で、人びとの好みや環境風土に合わせ、改良・完成された、ベストセラー野菜ばかりが居並ぶ超成熟市場。
スマートフォンなどの電子機器のように、毎年新しい機能をつけて新商品を販売できるような、成長途上の市場ではないのです。 このような市場で、現状の野菜を越える商品を作ることは、並大抵のことではありません。

さらに、野菜の品種の組み合わせは、電子部品のように、組み合わせた効果が予測できるものでありません。
「ハクラン」のケースも「キャベツのような甘い白菜」ができたから良かったものの「パサパサのキャベツ」しかできないケースもあり得たのです。

そのため「胚培養」によって実験室では新しい組み合わせの野菜が数多く作られましたが、こうした新野菜は市場になかなか出回らなかったのです。

東北山村の山暮らしと狩猟

●山口県の農業を救う切り札「はなっこりー」

平成元年から品種開発に着手した「はなっこりー」の場合も、その開発には多くの労力と年月が費やされています。
もともと「はなっこりー」の開発には、山口県ならではの農業生産に関する問題を解消するという目的がありました。

昭和のはじめから急速に工業化した山口県は、早くから農業の担い手不足に陥っていました。
このため、現在の基幹的農業従事者の平均年齢は 70.9 歳と全国 1 位。 くわえて、70 歳以上の従事者が全体の 6 割を占めており、今後もさらに離農者が増えることが懸念されているのです。

これを受け、山口県ではこうした課題に対して、さまざまな対応策を実施しています。
その一つが、高齢者や女性でも簡単に栽培や収穫ができる農作物の開発・導入です。

昨今の農業の機械化に伴い、昔に比べれば、農作業は随分楽になりました。
しかし、どうしても人力で行わなければならない作業はあるもの。 例えば、キャベツなどの収穫作業は、キャベツ自体に重量があるため、高齢者や女性にとっては重労働になります。

また、農産物は収穫した後、商品として出荷・販売をするために、大きさを揃え、選別し、袋詰めを行う「調整」という作業があります。
こうした作業でも、形が大きく、重量のかさむ種類の農産物は、大きな負担につながります。
そこで求められたのが、重さは軽く、コンパクトに袋詰めできるような野菜でした。 そのためにナタネ、キャベツ、ハクサイ、ブロッコリーなど、さまざまな野菜から95通りの組み合わせが試されました。 そして、上手くいきそうな組み合わせが見つかると栽培し、さらにその数万の個体の中から葉や茎の形状、育ち方や丈夫さ、試食によって選考していくという、地道な作業を繰り返していきます。

結局「ブロッコリー」と「サイシン」という組み合わせができるまでに、こうした作業が3年間続けられました。
ついに、スティック状で、軽く、コンパクトでありながら、緑が鮮やかで、くせがなく、甘みがあり、さらに茹でるだけでもおいしいという、まさに奇跡のような野菜「はなっこりー」が完成したのです。

「はなっこりー」は、その後さらに4年間かけて栽培方法の開発や市場調査を行い、3年後の平成11年8月には正式に「はなっこりー」という名前で農林水産省に品種登録されています。

東北山村の山暮らしと狩猟

●全国販売も近い?
さらなる開発がつづく「はなっこりー」

「はなっこりー」は山口県の特産品として、平成 23 年度には、栽培面積18ha、 118tが生産されています。
その評判は関西圏や関東にも広がっていますが、全国的に普及していくためには、収穫量だけなく、年間を通じて安定的に供給できることも重要な要素になってきます。

当初「はなっこりー」は夏から秋に苗を定植し、9~11月に比較的寒冷な中山間地域で、11月~5月に沿岸部の温かい地帯で収穫ができるよう、リレー式で産地を変えて生産し、なるべく長く販売できるような工夫がされてきました。
しかし、現在ではこうした方法をとらなくても良いように、通常型より遅い1月から3月に収穫できる中生型の「はなっこりーME」と、さらに遅い3月から4月に収穫のピークを迎える晩成型の「はなっこりーL」という2種類の新種を開発。 こうした品種を選択・栽培することで、より安定供給を行うことが可能になってきています。

将来的には、この3種よりも早く収穫できる早生型の「はなっこりー」を完成させ、年間を通じた出荷も夢ではないとのこと。
全国のスーパーなどで普通に購入できる日も、そう遠くないかもしれません。

Part4 凧の歴史と風俗(10分1秒)
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20:50~25:22 12月 見島 多田家 鬼ようずの制作
25:23~28:23 お正月
28:24~30:50 5月 エンディング
田麦俣と黒川村の関係

●凧の歴史と風俗

見島で初節句の祝いとしてあげられる「鬼ようず」のように、東アジアでは伝統として「凧揚げ」という遊びや風習が残っています。

凧の起源は、やはり中国にあると言われています。
紀元前400年前、中国戦国時代の思想家「墨子」。彼の思想として、著書『墨子』に「墨子が木で「鳶」(凧のこと)を作り、三年間かけてやっと成功し、空を一日飛べば、失敗をした。」という記載が残されています。また、ほぼ同時期の思想家「魯斑」に関しても「魯班は竹を削ってカササギ凧を作り、三日間飛ぶ。」という言葉が残っています。この時代の凧は木や竹で作られ、戦いの道具としても使用されていました。 さらに、後漢時代に紙が発明されると、紙の凧が作られ、唐の時代にはすでに一般の人びとが娯楽として、「凧揚げ」を楽しむようになるのです。

そんな凧が日本にはじめて渡来したのは平安時代。
平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』に「紙老鴟(鴟は鳶と同義。中国語で凧の別名)」の記載が残っています。
しかし、一般に広まったのは江戸時代以降。
江戸時代初期には子供達の遊び、中期以降には大人の遊びとして、浮世絵にもたびたび描かれるほどに「凧揚げ」が庶民の娯楽として大流行します。 あまりに多くの人が凧を揚げるため、大名屋敷に墜落したり、武者行列を邪魔したりするなどの迷惑行為が問題になり、禁止令が出るほどであったといいます。

さて、凧揚げには、このような娯楽として楽しむという側面と、凧を揚げることによる「厄除け」あるいは「祈願」などの生活習俗の一環という側面の、二つの意味があります。

もともと凧揚げ発祥の地中国では、唐の時代からそのシーズンは立春から清明(旧暦で言う正月から3月)までと言われていました。 特に、清明節には「亡くなった人への想いを凧に託して空へ飛ばす」「厄を祓う」「健康を願う」など、想いを込めて凧揚げを行うという風習が生まれ、それは清の時代まで続いていたと言われています。

また、お隣の韓国でも、凧揚げは「正月から15日まで」と決められおり、特に最終日である15日には、凧に「厄」という一文字や、「送厄迎福」と書いて揚げ、最後に凧の糸を切り、空へ飛ばして「厄を祓う」という風習がありました。

こうした風習が日本にも伝わって、お正月を中心に凧揚げをする習慣ができ、また「鬼ようず」のように、初節句に子どもの健康を祈るために凧を揚げるという風習へつながったのではないかと考えられます。

ちなみに、初節句に子どもの健康を祈るために凧を揚げるという風習は「見島」だけのものではなく、「祝い凧」の風習として、現在も山陰、四国、近畿、東海、関東の各地で行われています。

田麦俣と黒川村の関係

●鬼のデザインはどこから

見島の「鬼ようず」。そのデザインの特徴は、なんと言ってもその名前の由来ともなった「鬼」の絵柄です。

江戸時代日本全国に広まった「凧」。
「凧」のデザインは、一般的にはよく知られた歌舞伎や桃太郎、金太郎などの主人公を、浮世絵や錦絵のように、写実的に描いているものが最も多く、次いで空に登って行く「龍」や「鯉」そして「鶴」「亀」「恵比寿」などおめでたい絵柄を描いているものが続きます。
こうした中で「鬼」を絵柄とする凧は、圧倒的に少数派でかなり珍しいデザインなのです。

そんな「鬼」の凧は、現在では次の6カ所に残っています。

長崎県 五島列島「バラモン凧」
長崎県 平戸 「鬼ようちょう」
長崎県 壱岐島 「鬼凧」
福岡県 北九州市小倉 「小倉とうじん凧」
山口県 見島 「鬼ようず」
福島県 会津 「会津とうじん凧」

これらの凧には共通して、写実的というよりは、むしろ漫画的にも見えるようなタッチで、鬼の顔が正面から描かれています。
大きな目と大きな鼻、そして、同じように大きい口と牙。しかし、頭の角はあまり大きく描かれておらず、省略されているものもあります。 表情は能面や神楽で使用される「鬼面」のように、恐ろしい形相で迫ってくるというよりは、ユーモラスな雰囲気さえあり、どこか東南アジアやインドなどで作られたお面のようなイメージさえ持っています。

もうお気付きのように、鬼が描かれた凧がある地域は、会津を除いて、日本と中国・朝鮮半島、あるいは世界をつなぐ窓口となった、さまざまな文化が渡来した航海ルートの中にあります。
(福島県 会津の「会津とうじん凧」については、江戸期に九州からこうした凧が伝わったと言われています。)

東シナ海に浮かぶ「五島列島」は、遣唐使の航海で日本最後の寄港地。当時の最新文化が往来するルートのまっただ中にあります。 その北東に進んだ所にある「平戸」は、南蛮貿易が長崎の「出島」に限られるようになるまでは、オランダ商館などのある重要な貿易港でした。
そこからさらに北に玄界灘に浮かぶ「壱岐」は、西暦200年代に書かれた「中国・三国志」中の、いわゆる魏志倭人伝にも記載された島。 朝鮮半島と九州をつなぐ大切な中継地の一つでもありました。

関門海峡のある北九州は、その魏志倭人伝に描かれた「邪馬台国」の有力な候補地であり、日本で最初に、大陸から米作りが伝わった地域でもあります。
そしてあまり知られていませんが、今回の映像にある「見島」には200基におよぶ積石塚(つみいしづか:石を積み上げて墳丘を造っている墓)「見島ジーコンボ古墳群」があります。 作られたのは7世紀後半から10世紀初頭。 朝鮮半島や大陸との防衛・交渉を担うために駐留する、比較的身分の高い人々の墳墓と推測されており、考古学的にも大変貴重な遺跡とされています。

田麦俣と黒川村の関係

なぜこうした地域にだけ「鬼」の凧が残っているのでしょうか?
その真相は、確かな発祥や伝来の記録がないために、ほとんどわかっていません。
しかし「とうじん凧」の「とうじん」は、まさしく外国人である「唐人」のことを表しており、「ばらもん」「ちょうよう」「ようず」といった言葉の響きからも、どこかこれらの「凧」のもとの持ち主が日本人ではなかったことを連想させます。
残念なことに、現在の「中国」や「韓国」、東南アジアには「鬼」をモチーフとした「凧」は、残されていません。 しかし、それはきっと遙か昔、遣唐使の時代なのか、あるいは倭寇などが活躍した明の時代、はたまた南蛮貿易の時代に、名も知らぬ人々によって、これらの地にもたらされたのでしょう。

「鬼ようず」もまた、「見島牛」などと共に、「見島」が日本と海外文化との接点であったことを、今に伝えている痕跡の一つなのかもしれません。

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