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Vol.21 コウノトリは飛ぶ 命あふれる大地の空を ―兵庫県―

肥沃な田んぼが一面に広がる湿地帯、そして、その空を悠然と舞うコウノトリ。おめでたい鳥として、古くから大切にされてきました。かつては日本のいたるところにいたコウノトリが再び豊岡の空に羽ばたくまでの奇跡の物語、そして豊かな環境づくりを目指す「コウノトリを育む農法」を行う人々の姿がここにあります。

Part1 兵庫県 豊岡市の概要(6分9秒)
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0:00~1:50 プロローグ~コウノトリは飛ぶ 命あふれる大地の空を~ 兵庫県編
1:51~6:09 豊岡市但東町 田植えの準備 早期湛水
兵庫県 豊岡市の概要

●兵庫県の概要

神戸や姫路といった瀬戸内海側のイメージが強い兵庫県。
しかし、兵庫県は、最北端の青森・最南端の山口県を除けば、本州で唯一、北と南を海にはさまれた県。県域は瀬戸内海の淡路島から、有名な城崎温泉などがある日本海側にまで広がっているのです。
その広さは、南北169キロメートル、東西111キロメートルに達し、面積は8396.13平方キロメートル。近畿地方では最も大きく、全国でも第12位の面積を持つ、意外に大きな県なのです。

兵庫県 豊岡市の概要

今回映像の舞台はその兵庫県の日本海側。 城崎温泉も含まれる、兵庫県北東部、豊岡盆地の中心に位置する「豊岡市」です。

現在の豊岡市は、2005年4月、旧豊岡市と出石・城崎・竹野・但東・日高の5つの町が合併してできた市。その領域は旧国名でいえば「但馬」の国です。 古くは『日本書紀』に、垂仁天皇3年3月条、新羅王子の天日槍が但馬に渡来したという記載があるように、この地は朝鮮半島とのつながりも深く、さらに、石器時代から古墳時代までの遺跡は3,600以上あるといわれており、早くから人びとが住み、文明が栄えていたことがうかがえます。
また、大化の改新の頃の条里制跡が残っていることや、奈良時代には国分寺が置かれていたことから、大和朝廷の成立時から奈良時代・平安時代にかけても重要な位置をしめていたことがわかるでしょう。

但馬はその後も、京から出雲へ続く山陰道の主要中継地として、交通の要衝であったこともあり、「豊岡」「出石」を中心に鎌倉時代頃から、市場や産業が発達。現在の黒毛和牛につながる「但馬牛」の生産や「紙」「真綿」などの産業が起こり、さらに戦国時代に入ると数々の鉱山も開発。その経済力は、この地を中心に勢力をふるった「山名氏」を支えることにもなります。
安土桃山時代には、豊岡盆地を形成する円山川の氾濫原に自生するコリヤナギを材料として、柳行李(やなぎごうり)(現在の収納ボックスのように、衣服などを入れる箱)の生産がはじまります。これは明治時代以降、文明開化で西洋化する社会の中で、トランクやカバンの生産に発展。現在、豊岡は日本一のカバン生産地になっています。

兵庫県 豊岡市の概要

また、江戸時代後半頃には養蚕業が急速に普及するなど、諸産業が発展する一方で、米作を中心とする農業は、土地の性質上、あまり盛んに行われてきませんでした。
その市域は約8割を森林が占める中山間地で、数少ない平地の豊岡盆地は、もともと深い入り江だったところに円山川が土砂を運んで埋め立てられた、腰まで泥につかってしまう大湿原。
現在でも水田面積は但馬地方の総面積のわずか6%弱といわれています。
しかし、この大湿原を中心とした豊岡盆地の環境が、この地にコウノトリを復活させるきっかけとなり、後に今回のテーマである「コウノトリを育むお米」を作ることにもつながるのです。

Part2 コウノトリ絶滅と復活の歴史(3分3秒)
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6:10~6:51 コウノトリ 育む農法
6:52~9:12 兵庫県立 コウノトリの郷公園
コウノトリ絶滅と復活の歴史

●なぜ日本の空からコウノトリが消えたのか?
その絶滅の歴史を探る

さて今回のテーマである「コウノトリ」。
最初にこのコウノトリについて簡単に説明しておきましょう。

別名、ニホンコウノトリ。英名ではOriental stork (東洋コウノトリ)と呼ばれ、東アジアに生息。中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する稀少な鳥です。
両翼を広げたときの大きさ(翼開長)は、200~220cm。立った状態での高さは100~110cm。体重は4~5kg。日本に生息している鳥の中では「丹頂鶴」や「オオハクチョウ」などに次ぐ、大きな水鳥です。 餌は、水辺や湿原などに生息するドジョウやフナなどの魚類をはじめ、ヘビ、カエル、バッタなど多様。こうした湿地の生態系では、その食物連鎖の最上位に位置します。

同じく水辺に生息する「丹頂鶴」と形がよく似ていることから、日本では多くの地域で「ツル」と間違われることもありましたが、DNA的にはサギやトキと同じくペリカンなどと近縁。コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属に分類される鳥です。

コウノトリ絶滅と復活の歴史

「赤ちゃんを運んでくる」という言い伝えを持つ、ヨーロッパのコウノトリは、同じコウノトリ科ですが、別種。ヨーロッパや北アフリカ、中近東に分布するくちばしの赤い「ヨーロッパコウノトリ」のことを指し、和名は「シュバシコウ」といいます。
このほかにも同じコウノトリ科には、体が黒く、赤いくちばしと足をもつ「ナベコウ」や、アフリカやアジアに住み頭のはげた「ハゲコウ」など18種類(分類の方法によっては19種類)のコウノトリ科に属する鳥が生息し、ユーラシア大陸からアフリカ大陸、南北アメリカやオーストリアにまで、世界中に分布しています。

これらのほとんどは河川や湖、池沼、湿地などに生息していますが、こうした水辺の環境は干拓や埋め立てなどの開発対象になりやすく、近年大幅に減少。コウノトリの仲間も世界中で数を減らしています。
「シュバシコウ」はヨーロッパの環境悪化で生育数が減っているとはいえ、数十万羽が生息していますが、インドから東南アジアにわたり広く分布していた「オオハゲコウ」は、すでにインドとカンボジアにわずか800羽残るだけ。
今回のテーマである「ニホンコウノトリ」も、つい最近まで、日本を含め韓国や中国などの東アジアに広く分布していましたが、現在では中国東北部(満州)地域やロシアのアムール・ウスリー地方に3,000羽以下が残るのみといわれ、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで「絶滅危惧種」に指定されているのです。

コウノトリ絶滅と復活の歴史

さて、このコウノトリですが、江戸時代までは日本でも広い範囲に数多く生息していました。それが明治以降、急激に数を減らして行くのです。
その原因は「羽毛」を取るための乱獲。江戸時代には武士やマタギなど一部の猟師にしか所持できなかった銃を、明治以後は許可制で庶民も持てるようになり、狩猟がブームになったことが原因でした。 折しもヨーロッパでは、毛皮や羽毛の需要が増大。殖産政策で輸出を増やしたかった日本の思惑も重なって、シカやイタチ、ウサギ、ラッコの毛皮などとともに「アホウドリ」「トキ」「コウノトリ」といった大型の鳥も乱獲され、その羽毛が大量に輸出されていったのです。
狩猟はまさに徹底したもので、明治初期1870年代から30年で「アホウドリ」は約500万羽が殺され、絶滅(のちに少数が再発見されますが)。「トキ」も1920年には絶滅したと思われていました。(これものちに佐渡などでごく少数が再発見されますが、1981年に絶滅します。)「コウノトリ」もこの頃までにほぼ全国から姿を消したといわれています。

コウノトリ絶滅と復活の歴史

さて、明治時代、こうして全国から姿を消したコウノトリですが、全国でも1箇所、数多く生き残っていた場所がありました。
それがこの豊岡周辺。
なぜなら、この周辺はもともと湿原が多く、生息環境が整っていたから。また、この地域では古くからコウノトリを「ツル」と呼んで、めでたい鳥「瑞鳥」として愛でる習慣があったからでした。
当時、兵庫県出石郡(現在の豊岡市出石町の南部・桜尾)には、コウノトリの営巣地「鶴山」があり、「ツル」見物の観光地として、大阪や京都などから列車での観光ツアーなども企画されていました。そのため、明治後半から大正時代にかけて、兵庫県は鶴山の周囲18km を銃猟禁止地に指定されていたのです。
さらに、国も大正10年、「鶴山」をコウノトリの繁殖地として、史跡名勝天然記念物に指定し保護を加えていました。
こうした環境が豊岡市周辺にそろっていたことから、昭和9年に約60羽から100羽のコウノトリが、まだこの地に生息していたといわれているのです。

しかし、わずかに残っていたこのコウノトリたちも、太平洋戦争の勃発で危機に陥ります。 まず、この鶴山は国有林であったため、コウノトリが巣作りのために使っていた松が、戦争の資源不足のために伐採されてしまいます。このため、コウノトリは「鶴山」から出て行かざるを得なくなりました。
当時の天然記念物指定は、コウノトリという種ではなく、この営巣地である「鶴山」という場所に対して与えられていたもの。ここから出てしまったコウノトリは保護の対象にはなりません。そのため、食糧難であった戦中戦後は、数多くのコウノトリが捕獲され食糧にされたともいわれています。
さらに追い打ちをかけたのが、1950年代からの戦後の食糧増産により、アメリカなどから導入された農薬でした。当時は農薬の散布方法も安全性に対する認識も現在のようには確立されておらず、ともすればよくわからないままに使用することを余儀なくされていた時代です。もともと湿地生態系の食物連鎖の頂点にいたコウノトリは、その食べる餌の量も成鳥で1日500グラムと大量。自分の体重の約1割の量を毎日食べる、大食漢。また、幼鳥にいたっては1日1キログラムという、さらに多くの餌を食べるといわれ、これは同じく湿原で餌を採るサギなどの鳥の約2倍から5倍。
それにもかかわらず、農薬の影響でコウノトリの餌である小動物やドジョウ・カエル・昆虫の数を減らし餌不足になるとともに、農薬で汚染された小動物を大量に食べることで、その成分を多量に体内へ蓄積。これがコウノトリの体をむしばみ、健康障害を引き起こしてしまいました。
また、戦後は豊岡周辺でも開発が進み、コウノトリの住める湿地帯が埋め立てられたこともあって、その数はみるみるうちに減ってしまったのです。

コウノトリ絶滅と復活の歴史

そんな中、1955年、豊岡市の人々は「コウノトリ保護協賛会」を結成し、保護活動開始します。餌が少なくなったコウノトリのために、但馬全域の小・中学校に呼びかけ餌となるドジョウを持ち寄る「ドジョウ一匹運動」など、数々の運動が展開されました。さらに、1956年、特別天然記念物に指定されるなど、官民一体となっての保護活動の高まりをみせました。
しかし、こうした活動も実らず、1959年、雛1羽が巣立った後は、1羽も雛が孵らない状態に(農薬による健康障害とともに、個体数減少による遺伝的劣化が要因といわれています)。くわえて、生き残っていたコウノトリも、1962年には相次いで死亡。1965年にはとうとう12羽にまで減ったことで、最後の手段として2羽を捕獲し、人工飼育に踏み切ります。
しかし、その人工飼育も成功せず。その後もその数を取り戻すことはできませんでした。 そしてついに、1971年、最後のコウノトリが市内で傷ついて衰弱していたところを保護されましたが死亡。
こうして、日本の野生のコウノトリは姿を消すことになったのです。

Part3 コウノトリ野生復帰への道(6分11秒)
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9:13~10:19 夏 草取り 
10:20~12:30 生きもの調査授業
12:31~15:23 コウノトリのクラッタリング 米の生育状況のチェック
コウノトリ野生復帰への道

●コウノトリ野生復帰への道

こうして日本のコウノトリは、最後の生息地であった豊岡市周辺からも姿を消してしまいましたが、1965年に始まった人工孵化・人工繁殖の試みは、コウノトリ飼育場(現コウノトリの郷公園付属飼育施設保護増殖センター・豊岡市野上)で続いていました。しかし、繁殖能力が弱っていた豊岡市のコウノトリでは、その試みもなかなか成功しませんでした。

転機は1985年、幼鳥6羽が、ロシアのハバロフスクからコウノトリ飼育場に受贈されたことから始まります。
もともと「ニホンコウノトリ」は、ロシアや中国から日本へ渡ってきていた渡り鳥。それらが留鳥として日本にとどまったものが、豊岡などにいた日本のコウノトリです。そのため、ロシアからのコウノトリも全く同じ種類。遺伝子的にも問題ありません。
この幼鳥たちがコウノトリ飼育場で順調に育ったことで、1989年、ついに人工飼育繁殖に成功。初めて雛が生まれることになるのです。それはなんと、人工繁殖の試みをはじめて25年後のことでした。

その後は、毎年順調に雛が誕生。ある程度繁殖に目処が立ったことで、兵庫県も「コウノトリ将来構想調査委員会」を設置。
こうした構想をもとに、1999年には「県立コウノトリの郷公園」を開設。
2002年には、ここで飼育するコウノトリが100羽にまで増えました。
しかし、増えたら増えたで、この人工繁殖させたこのコウノトリたちをどうするかが、また問題になります。実は、先程のコウノトリ将来構想調査委員会の重要なテーマが「このコウノトリたちの未来をどうするか」という点でした。

コウノトリ野生復帰への道

そこでは3つの意見が出されたといいます。
一つは、「このまま豊岡の飼育施設内で保護増殖だけを続けていく」という考え。
もう一つは「兵庫県民の鳥だから動物園などいろいろなところに贈呈して、多くの人に見てもらえるようにしよう」という意見。
そして最後に「野生に帰し、再び日本で復活させる」という案がありました。
「コウノトリ将来構想調査委員会」は、約2年間、慎重に討議を重ねていきました。その結果選んだ結論は、やはり「コウノトリを野生に返すこと」でした。
これを受けて兵庫県と豊岡市は、コウノトリを野生に復帰させるという計画をスタートさせることになるのです。

コウノトリ野生復帰への道

しかし、現実的に考えればこの計画には非常な困難が伴います。
すでに豊岡市周辺の環境は、野生のコウノトリが多数生息していた明治や昭和の時代から変化しています。数多くあった湿地も埋め立てられて住宅地となり、農地も土地改良により近代的なコンクリートに囲まれた造りに。昭和50年代の当時でさえ餌不足になるほど、コウノトリにとって生息条件は厳しかったのに、その状況はさらに悪化しているのです。
これでは、例えコウノトリを野生に返そうと野外に放したところで、結局は餌がとれずに数を減らしていくことは目に見えています。
つまりコウノトリを野生に返し、再び日本で復活させるためには、同時にコウノトリが安全な餌を豊富にとれる環境を、この地に復活させなければ絶対に成功しないのです。もちろんそのためには、費用も時間もかかります。
さらに、そこに住む人びとにも多大な負担を強いることになります。

特に、実際にこの地で農業を行う人びとにとっては重大な問題です。かつてコウノトリが自由に餌を採っていた湿原は、今やそのほとんどが水田になっています。つまり、コウノトリが生きる環境を作り出すためには、農業を行う人びとの協力なくしては絶対に不可能なのです。
こうして、コウノトリを野生に復帰させるという計画は、まず周辺の農業従事者に、いかにこの計画を理解してもらい、協力してもらうかというところから始まったのです。

Part4 農家の協力とそこで生まれたコウノトリ育む農法(6分47秒)
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15:24~18:39 コウノトリ育むお米 生産部会 生産者大会
18:40~19:46 植田さん親子
19:47~22:10 豊岡の「柳まつり」
農家の協力とそこで生まれたコウノトリ育む農法

●農家の協力と、そこで生まれた「コウノトリ育む農法」

コウノトリが暮らせる環境をつくるには、生きていくために必要な餌となる「カエル」や「ドジョウ」など、水辺の生き物が豊富でなければなりません。

かつての日本では、こうした水辺の生き物は非常に身近なものでした。世界中で開発のしやすい湿原が失われる中、日本は水田という人間と生物が非常に上手く共生している「人口の湿原」がいたるところにあり、これが多様な生物を育むビオトープ(生物空間)として機能していました。そのため、人びとの生活に近いところでも、こうした生き物たちが数多く生き続けていたのです。

しかし、このような生き物も、さまざまな要因によって数を減らしてしまいました。特に、高度成長時代以降、経済性が重視された時代には、農業とてその影響を免れることはできませんでした。農地や水路は効率性という名のもとコンクリートなどで固められ、生物の住む余地はなくなってしまったのです。
また、農薬・肥料の使用が拡大。たしかに、農業をじゃまする害虫や雑草は減りましたが、水田は人と生物が共生する生物空間ではなくなりました。
こうして日本の水田は、一見その姿は昔と同じように見えますが、水辺の生物たちにとっては砂漠のような場所になってしまったのです。

そんな中でコウノトリを野性に返すということは、彼らが生存できるような水辺の生態系も、この地一帯に復活をさせなければならないという大事業。もちろん、これは周辺の農家にとってたやすいことではありません。あえて今と比べて生産効率の悪い農法に戻るということは、自分たちの生活にも響きます。
ですから、この地域の住人がこうした計画を簡単に認めることはできなかったのです。

農家の協力とそこで生まれたコウノトリ育む農法

その状況の中、いち早くこの計画について前向きに取り組んでくれる人びとが現れます。それが、コウノトリの繁殖と野生化を実施する施設「県立コウノトリの郷公園」の建設候補地となっていた、祥雲寺地区の人びとでした。
「県立コウノトリの郷公園」の建設を受け入れるということは、すなわち最初にコウノトリが放たれる場所になるということ。その周辺部であっても、それにふさわしい環境を整える必要がありました。
もちろん当時は、祥雲寺地区の人びとも農薬を使った一般的な慣行農法で生計を立てていた普通の農家。ですから、いくら行政の後押しがあったとしても、そうそう簡単に今の農業を捨て、無農薬や減農薬で行う新たな米作りへ移行する決断はできません。

しかし、ちょうどこの時期、日本はようやく環境問題に対する意識が高まっていました。1960年代、深刻な公害問題に見舞われた日本は、その後、「食の安全」や「環境破壊」の問題がクローズアップされ、有機農業などの新しい農法に対する関心も高まっていたのです。
また、農業の役割を単に食糧の生産という経済活動に限定するのではなく、国土や環境の保全、生物多様性の維持など、幅広い役割の中で考えようという「農業の多面的な役割」に対する関心も高まります。
そして1992年、国レベルでも「生産性との調和に留意しつつ、土づくり等を通じて化学肥料・農薬の使用等による環境負荷の軽減に配慮した持続的な農業を環境保全型農業と位置付け、全国的に推進する」という新政策が制定されます。

こうした背景もあって、祥雲寺地区の人びとにも、従来の農業に対する疑問や環境保全型農業といったこれからの農業に対する関心が生まれました。
そこで、2年間の検討を重ね、ようやくこうした計画の受け入れを決断。その後1996年に住民有志で「祥雲寺を考える会」(のちの「コウノトリのすむ郷づくり研究会」)を設立し、4年間をかけて「コウノトリと共に暮らして行くための田園自然再生を軸とした環境創造型農業と、一集落一農場制を基調とした集落営農への取組を進める。」という「郷づくり構想目標」を制定。
さらに、これらの構想を実現していくために「営農組合」がつくられ、いよいよコウノトリとともに暮らせる新しい環境創造型農業がスタートすることとなります。

農家の協力とそこで生まれたコウノトリ育む農法

しかし、実際に環境創造型農業といっても、決まったやり方やマニュアルがあるわけではありません。試行錯誤の連続です。例えば、農薬を減らそうとし除草薬などの使用を制限したために、水田は「コナギ」などの雑草で埋め尽くされてしまいました。 また、初期には、全国でも多く試みられているアイガモ農法を実施しましたが、これも失敗。水田にアイガモを放つこの手法は、アイガモが殺虫剤や除草剤の替わりに、水田に害をあたえるものを食べてくれるので、無農薬でお米を作る農法としては非常に有効的でしたが、今回の場合は逆にアイガモが水辺の生き物をほとんど食べてしまい、コウノトリの餌が残らず、上手くいかなかったのです。
このような試行錯誤を5年以上も続け、「兵庫県豊岡農業改良普及センター」などと協力してつくり上げたのが、現在の「コウノトリ育む農法」といわれる手法です。

こうした米作りでまず問題になるのが、やはり水田の雑草です。
この農法では、冬の水田に米ぬかを散布して水を張る「冬期湛水」を行います。
通常ですと、現在の多くの水田は冬に水をはりません。それは「乾土効果」といい、土壌を乾燥させることで、土壌中の窒素量が増加。生物遺物が微生物に分解されやすくなるため、次の年、米の生育がよくなる傾向があるからです。
しかし、ここではあえて乾土を行わず、除草のために冬に水を張るのです。米ぬかが蒔かれた冬の水田では、この米ぬかなどの養分をもとに「イトミミズ」などの生物が繁殖します。イトミミズがこれらの養分を盛んに食べて分解し、糞を土の上に排出することで、土の表面に深さ数センチのフワフワ・トロトロの泥の層ができあがります。
水田で問題となる「コナギ」などの雑草の種は、一定以上の深さまで埋まってしまうと発芽しないという性質を持っています。そのため、この「トロトロ層」があれば雑草の発芽を防ぎ、除草剤の必要がなくなるのです。

また、同じように米ぬかなどの養分を蒔き、今まで以上に早く水を張る「早期湛水」も行われます。これもまた除草効果を狙ってのこと。同様にイトミミズやユスリカの幼虫が増殖し、活発に活動します。すると今度は水田の水が濁り、光が入らなくなります。そしてその後、海草に似た藻が発生し、それが田んぼ全面に覆って雑草の発芽をおさえるようになるのです。

農家の協力とそこで生まれたコウノトリ育む農法

一方、米ぬかが蒔かれた「イトミミズ」だけでなく「ミジンコ」などの生物が大量に発生した水田には、これを食べる「ドジョウ」や「オタマジャクシ」も増えます。このような食物連鎖の発生によって、水田に多くの生物が住める環境が戻ってきているのです。 また、水辺の生き物たちをさらに増やすために、水田を乾かす中干しを一カ月遅らせる「中干し延期」も取り入れました。
水田での米作りでは、田植え時期に張った水を抜く「中干し」という作業を行います。これは、イネを倒伏しにくくし、品質のよい米を作るための重要な作業。稲は育っていくと、途中で茎を増やす「分げつ」を行います。しかし、ここで茎の数が多くなりすぎると、茎に栄養が分散され、お米の品質がよくなりません。また、栄養が分散されることで1本1本の茎が細くなり、稲が倒れやすくなります。
そこで、田植後1ヵ月程度で、この「中干し」を行い、いったんお米の生長のスピードを落とし、無用な分げつを防ぐのです。

豊岡市周辺では、今までこれを6月中旬に行ってきました。
しかし、この時期はまだ水田のオタマジャクシがカエルになっておらず、水を抜くと死んでしまいます。そこで、1ヵ月後の7月中旬まで中干しを延期して、水田のオタマジャクシたちをなるべく救うことにしたのです。
このように水田の生き物を大切にすることは、コウノトリの餌を増やすだけではありません。水田の害虫を食べるカエルやトンボなどが増えることになり、今度は害虫駆除のために農薬をまかなくてもよいようになるのです。
こうして2005年頃、無農薬や減農薬でも雑草を抑える方法が編み出され、コウノトリの餌を確保できるようになりました。

農家の協力とそこで生まれたコウノトリ育む農法

そしてついに、2005年9月24日、いよいよその時がやってきます。活動が始まった祥雲寺地区に5羽のコウノトリが放たれ、野生化への第一歩が始まったのです。
以後、順調にコウノトリの放鳥は行われ、2007年には放たれたコウノトリが野外で産卵。国内では43年ぶりに雛が生まれています。
現在では、他県で放鳥されたコウノトリも含め、125羽が日本の空を飛び回り、「県立コウノトリの郷公園」などの保護施設にも96羽のコウノトリが飼育されています(2017年10月6日現在)。

もちろん、増えたのはコウノトリだけではありません。
当初、祥雲寺地区の数名が約19ヘクタールの水田で始めた、コウノトリが住める環境作りの活動は「コウノトリ育む農法」と命名され、2017年2月末には679.3ヘクタールにまで拡大。
この農法に取り組む「JAたじまコウノトリ育むお米生産部会」の会員も、300人以上にまで増え、その活動の輪を広げているのです。

Part5 コウノトリを見に行こう(8分41秒)
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22:11~24:25 収穫
24:26~26:45 JAたじま 搬入
26:46~28:50 冬 餅つき
28:51~30:51 エンディング
コウノトリを見に行こう

●コウノトリを見に行こう

この映像を見て「豊岡で復活したコウノトリを見に行きたい」とお感じになった方も多いかもしれません。
そんな方のために、コウノトリ見るための情報をいくつかご提供しましょう。

コウノトリを知るためには
「兵庫県立コウノトリの郷公園」と「豊岡市立コウノトリ文化館」へ

まず、お手軽にコウノトリを見ることができる施設といえば、この地で長年コウノトリの保護と繁殖活動を行ってきた「兵庫県立コウノトリの郷公園」です。
ただ公園といっても、兵庫県立コウノトリの郷公園の基本機能は、あくまでもこの鳥の保存と遺伝的管理、そして野生化を行うこと。総面積165ヘクタールという広大な敷地の大部分は、繁殖や野生化などを行うための研究・飼育施設ですので、非公開となっています(年数回、特別にこうした施設を見ることができる見学会が実施されています)。

見学は一部の自然観察・学習ゾーンに限り、無料でOK。その公開ゾーンにあるのが「豊岡市立コウノトリ文化館(入場料は無料。100円程度の寄付をすると、コウノトリの折り紙がいただけます)」。
ここでは、コウノトリを中心とした豊岡の自然・環境についての展示解説を見ることができるだけでなく、この施設が公開飼育ゲージに隣接されているため、そこからコウノトリを見ることができます。お薦めは毎時00分と30分の1時間に2回程度実施される、自然解説員によるコウノトリの解説。自然解説員が公開飼育ゲージに隣接される多目的ホールで、そのゲージに放されているコウノトリを見ながら、その習性をはじめサギなどの他の鳥との見分け方など、コウノトリを観察するための基本情報を、わかりやすく話してくれます。

コウノトリを見に行こう

さて、この公開ゾーンでもう一つお薦めなのが、毎日15時頃に行われる給餌。現在、公開飼育ゲージには5羽から10羽程のコウノトリが公開されています。これらのコウノトリには、マスや冷凍のアジなどを毎日15時頃に与えられており、この豊岡市立コウノトリ文化館の多目的ホールなどから、その様子を間近にじっくりと観察することができます。

さらに、この公開飼育ゲージは、周囲をゲージで囲われていますが、天井はなくオープンのまま。空からは自由に出入りできるようになっています。ここに飼育されているコウノトリは羽の一部が切られているので(羽は人間の爪のようなもので、切られても鳥は傷みも感じませんし、すぐ再生されます)飛ぶことはできず、ここから出ることはありません。しかし、普通に飛ぶことができる鳥であれば、出入りは自由。ということで、近くに生息する野生のコウノトリが数羽、この時間になると、ちゃっかりこの餌をもらいに集まってくるのです。
ということで、この時間近くになると「兵庫県立コウノトリの郷公園」周辺は野生のコウノトリが集まってくるため、施設周辺を優雅に自由に飛んでいるコウノトリの姿を見るチャンスでもあるのです。

煎茶と玉露の歴史

●野生のコウノトリを見に行こう

野生のコウノトリを見る一番確実な方法は、先程の「豊岡市立コウノトリ文化館」で月に1回程度開催される「コウノトリ自然観察会」に参加することです。この見学会では、普段からコウノトリや周辺の自然環境を研究している講師が、その日、豊岡市内でコウノトリを見ることができそうなポイントをいくつか選びコースを作成。それを約3時間弱で解説しながら案内してくれます。双眼鏡も貸してくれますので、手ぶらでもOK。ただし、移動は各自の車を使用しますので、自家用車かレンタカーが必要です。

こうした見学会に参加できない方も、いくつかのポイントをおさえておくと、野生のコウノトリを、かなりの確率で見ることができます。
一つは「巣搭」の周辺を探すことです。コウノトリは高い木や塔の上に巣を作る習性があります。現在はあまり高い木がなく、ともすると電柱などに巣をかけることなり、いろいろと問題が起こります。そこで、餌場の水田などに近いところに、人口的に巣を作るための塔が建てられました。これが「巣搭」。現在12程の巣搭が豊岡市周辺に建てられています。コウノトリは、決まった巣搭を中心としてテリトリーを決め、生活する習性があるために、この巣搭の周辺には、常にコウノトリがいる可能性が高いのです。

コウノトリの営巣は1月頃から始まり、2月から3月頃にかけて産卵。4月頃には雛が孵って、6月頃の巣立ちまで子育てが続きます。当然、その時期はこの巣を中心に、ほぼ確実にコウノトリがいますので、観察が可能です。またそれ以外の時期も、この巣塔を利用するコウノトリは周辺をテリトリーにしていますので、巣にはいなくとも周りの水田で餌を採っていたり、近くの電柱などにとまっていたりすることが多いのです。

コウノトリを見に行こう

例えば、先程の「兵庫県立コウノトリの郷公園」や「豊岡市立コウノトリ文化館」の前には水田が広がっています。これはまさしく「コウノトリを育てる農法」が実施されている水田。そこにも巣搭が一つ設置されており、この巣を利用するコウノトリがつねにその周辺にいますので、比較的簡単に観察することができます。 こうした巣搭は、高い塔の上にお皿がのったような形で、水田の中にぽつんと立っているケースが多く遠くからでもよく見えますから、豊岡市の水田地帯を少し走れば比較的簡単に見つけることができます。

そのほかにも、兵庫県立コウノトリの郷公園を出て出石の方に向かうと、広大な「六方田んぼ」といわれる水田地帯が広がっています。この地域も「コウノトリを育てる農法」の水田がほとんどですから、そこで餌を採るコウノトリが、頻繁に観察できるようです。
「コウノトリを育てる農法」が実施されている水田を見つけるためには、小さな旗が目印。
「コウノトリを育てる農法」の「減農薬」の手法を用いる水田には白い旗が、「無農薬」の手法を用いる水田には黒い縁取りのある旗が水田の端に立てられています。
当然、こうした水田には餌となる生き物が多く、コウノトリが飛来する率が高いので、やはり観察の目安になります。

また、コウノトリの飛来情報は「コウノトリ湿地ネット」というホームページで、毎日公開されています。このホームページをチェックすると、ここ数日のコウノトリの行動もわかり、発見も容易になります。事前に、豊岡市立コウノトリ文化館などで情報を聞いてみるのもよいかもしれません。

ただし観察する場合は、コウノトリを刺激しないように、あまり近づきすぎないことも重要。このためには、双眼鏡や望遠鏡は必須になります。
あわせて、水田などにむやみに立ち入らないことも大切な観察のマナーですので、ご留意ください。

マップ

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