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Vol.16 黒川能 魂の奔流 ―山形県―

月山の麓に広がる庄内平野は全国でも有数の米の産地。その田園地帯に広がる黒川地区には室町時代からおよそ500年の伝統を持つといわれる国指定無形文化財の黒川能が伝えられています。黒川能は単なる芸能ではありません。農業と深く結びついてきた農文化としてこの黒川の人びとによって連綿と受け継がれて来たのです。

Part 1 庄内地方とは(8分28秒)
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0:00~2:38 プロローグ~黒川能 魂の奔流~ 山形県編
2:39~4:00 出羽三山神社 松例祭、綱まき  験競(けんくらべ)、大松明引き
4:01~7:43 庄内平野、鶴岡市、赤川 黒川地区、春日神社、能舞台、黒川能
7:44~8:28 王祇祭
庄内地方とは

今回の映像の舞台となるのは山形県庄内平野を中心にした庄内地方です。

山形県といえば生産量全国第一位のサクランボや西洋なしなどの果樹栽培や、きめこまかい霜降りで人気の米沢牛に代表される山形牛など、多くの特産品で知られる農業王国ですが、やはりその主要農産物は米。
現在でもその生産の中心となるのが、古くから日本有数の米所として知られた、この庄内平野です。

庄内地方とは

庄内平野は、東側からながれこむ「最上川」と、南側朝日山地から流れでる「赤川」という二つの川が集まって日本海に流れ込む場所に作られた沖積平野。
広さはおよそ南北が100㎞、東西は40㎞。面積は、2,405平方キロメートルで、現在の神奈川県と同じぐらいの面積をしめるという東北で有数の広大な平野です。

こうしたことから庄内平野は早くから人の手によって、開発が行われることになります。「続日本紀」によれば、出羽は大和朝廷が東北地方の蝦夷征服拠点として設置された城柵(柵で囲まれた城のようなもの)である「出羽柵」が設置されたことから始まるといいます。
これをきっかけとして712年和銅5年に出羽国が庄内平野に作られ、以降数年にわたって約1300戸の人々が尾張・上野・信濃・越前・越後等から移住。朝廷の対蝦夷最前線として防衛の拠点であるとともに、天皇やその外戚である藤原氏によって開発され、平安時代には荘園がいくつもこの地で営まれるようになるのです。
この地域の名称が現在「庄内」というのも、その荘園の一つに由来します。
平安末期から鎌倉時代。この時代ここには「大泉荘」と呼ばれる荘園がありました。
「大泉荘」は記録によれば後白河法皇が所有する長講堂領と呼ばれた180カ所の荘園群の一つ。 この後ご紹介する「黒川能」演じられる旧黒川村などがある赤川流域の広大な地所が、この荘園に組み入れられており、この「荘園の内」ということで「荘内」「庄内」となったと言われています。

庄内地方とは

さてこの「大泉荘」法皇の没後も他の長講堂領の荘園とともに、後の北朝につづく持明院統の皇族に引き継がれ、南北朝期の混乱した時代の中で、北朝を支える重要な経済基盤となっていくのですが、しかし意外なことに当時この「大泉荘」が京に送っていた年貢の主体は「米」ではありませんでした。
この時代、庄内平野はまだその多くが荒れ地であり、現在のように平地全体に水田が広がるといった庄内の姿ではなかったのです。
それでは何を年貢としていたのでしょうか?
応永14年の宣陽門院御領目録には長講堂領の各荘園の主な年貢の内容が記載されていますが、その「大泉荘」の部分には「出羽国大泉庄 年貢砂金百両 御馬二疋」という記載が残っています。 砂金と馬こそこの荘園の主要な産物だったのです。

金色の中尊寺で有名な奥州藤原氏に代表されるように、この時代東北の経済力を支えていたのは「金」と「馬」でした。
特に、東北地方の山々から産出される「金」は、貨幣がまだ普及していなかったこの時代、皇族達の高額決済に使用されており、大変貴重であると同時に、当時の経済を支える非常に重要なものでした。
それを担っていたのが当時の東北の荘園が年貢として納めていた金だったのです。

庄内地方とは

この地方ではその後も砂金など金の産出が継続され、東北の経済を支えていきます。
江戸時代庄内藩もちょうど黒川地区の西、羽黒山と月山の中間あたりにある「瀬場」で砂金の採取をおこなっていました。
また東北では砂金で年貢を納める慣習が江戸時代になっても残っており、例えば盛岡藩や八戸藩では「金目高」という、砂金で年貢を払うための換算制度を特別に定めていました。
さらに東北地方では江戸時代まで砂金が通貨としても通用していたとも言われているのです。

庄内地方とは

さて「金」というとこの地域では思い浮かぶものがあります。
冒頭の映像でもご紹介している、「出羽三山」特に羽黒山を中心とした「羽黒修験道」との関連です。
修験道は日本古来の山岳信仰が仏教の中の密教、あるいは中国の道教などの影響を受け、完成したものいわれていますが、もともと山の民として鉱山開発などに深く関わっていたとも言われています。 この地の「羽黒修験道」が、こうした砂金などの発見にどれほど関与したか、確実なところはわかりませんが、正確な地図もなく、高度な測量技術もない時代。彼らのような存在がなければ、山の奥深くまで探査して鉱山資源を探すことなど難しいのも事実。
出羽三山には全国唯一の鉱山の神といわれる「八聖山金山神社」があり、江戸時代から鉱山師、鉱山従事者の信仰を集めていることからも、その関係は決して浅くないことが推測されます。

さてこうした鉱山開発はこの地方での土木技術が発展を促すことになりました。
実はこうしたことが一因となり庄内地域が日本有数の米所となるのですが、この続きは「4.田麦俣と黒川村の関係」でお話しします。

Part2 黒川能はなぜ生き残ったのか?その1(13分11秒)
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8:29~12:24 黒川の春、角笛  下座当屋 小林家 筍の収穫 孟宗汁
12:25~16:08 鶴岡市立鶴岡第二中学校卒業式 稽古風景
16:09~19:24 笛の稽古 鶴岡水産物地方卸売市場
19:25~21:02 虫干し
21:03~21:40 赤川花火大会
黒川能はなぜ生き残ったのか?その1

さて現代でも珍しい地域の人びとの能楽である「黒川能」が、なぜ今もしっかりと地元に根付き、演じられているのでしょうか。

その理由の一つは、映像でご紹介しているように、やはりこれが黒川地区の生活を支えてきた農業と密接に関係した「祭事・神事」であったという点です。
現在は「黒川能」という名称で、ともするとその民俗芸能部分がクローズアップされがちですが、実体はむしろ農業の豊作を祈願する農業祭事がその本質です。
例えばこの地域では3月、田植前にその年の五穀豊穣を祈る「祈年祭」や11月その年の収穫に感謝する「新嘗祭」など米作りの節目節目に祭りがおこなわれます。
映像でご紹介している「王祇祭」もこの名称で呼ばれるようになったのは実は戦後のことで、それまではたんに「正月の神事」とよばれており、その発端は新年にやってくる「年神」を迎える行事であったと考えられます。
年神とは歳神あるいは歳徳神ともよばれるお正月の神様。
山から下りきて、人びとの所へ訪れ、新しい年をもたらすことで、人や穀物に新しい命をあたえる神様であり、その年の安全や豊作をもたらす神様。私達の過ごすお正月もこの年神様を迎える行事が元になっています。
そして穀物の神様でもあると言われているため、年の初めにこの神に感謝や祈りを捧げることは農業を中心とするこの村では非常に大切なことだったのです。

黒川能はなぜ生き残ったのか?その1

現在「王祇祭」は「春日神社」の御祭神、健御雷命・伊波比主命・天津児屋根命・比売命の四柱のお祭りと思われています。
しかしその内容を見てみると・・・
例えば「王祇祭」はまずその祭りの数日前に神様を迎える「神おろし」をおこないますが、それは神が鎮座するはずの本殿ではなく、野外で、山に向かって神様をお迎えするようにおこなわれます。
その下りてきた神様はお正月に建てる門松と同じように「木」の柱を依り代にしています。
普通の神社の神様は、祭礼などで外に出るときは神輿のような輿で運ばれ、その地域を巡りますが、一般の家に宿泊するようなことはあまりありません。しかしここでは、普通のお正月のように、当屋がいる民家に宿泊して、人びとと酒宴を行います。
また最後には神の依り代を、鏡餅ののった神社の棚のうえに置きますが、これは通常のお正月でおこなわれる、年神を年棚という鏡餅などがのった棚にお祀りする行為とよく似ています。
このように多くの点でこの神事は、年神を迎える神事の要素を色濃く残しているのです。

黒川能はなぜ生き残ったのか?その1

日本では今の神道や仏教が定着する以前には、神様は神社などの固定された場所にいるのではなく、年間に何回か私達の所へやってくる存在=来訪神と考えていました。
日本の民俗学の父である「柳田國男」はその存在を「祖先の霊」であると同時に「山の神」であり、それが田植えの時期に下りてくると「田の神」になり、それが収穫などを終えると再び山に帰って「山の神」になるという説をとなえています。
また柳田國男の弟子で同じく日本を代表する民俗学者「折口信夫」はこうした存在を「まれびと」と呼び、やはり定期的にやってくる存在と考えていました。
そしてその神が「来るとき」「帰るとき」におこなわれるのが「祭り」であり、それはまた農業と非常に強く結びついていたのです。
例えばこの「ふるさとに生きる能登編」でご紹介している「あえのこと」という儀式は12月に「山の神」に家にお越しいただいて年を越し、その後田に送り出して「田の神」になっていただく神事。2009年(平成21年)には、ユネスコの世界無形遺産にも登録されています。
また「ふるさとに生きる広島編」でご紹介している「新庄のはやし田」は田植にサンバイ様とよぶ「田の神」を山からおよびする、いわゆる「田遊び」「田楽」とよばれる田植神事です。

黒川能はなぜ生き残ったのか?その1

日本にはこのあとアマテラスを中心に体系化された神道、八幡神などそれとは別個に進化した神道系の神様、そしてそれらと一体化していく仏教など様々な神様が生まれます。
そうした神様も人びとに広く受け入れられていきますが、日本の農民の心の中には、田の神とも山の神とも言うべき、自然と調和した農業の神がおり、そしてそれが日々の生活ともしっかり結びついていました。
黒川能も楽しみの芸能文化としてではなく、

Part3 東北山村の山暮らしと狩猟 (8分27秒)
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21:41~26:10 田麦俣 多層民家  大綱小学校 旧田麦俣分校  田麦俣神楽
26:11~27:37 庄内柿 収穫
27:38~30:08 田麦俣 鷹匠
東北山村の山暮らしと狩猟

この映像に出てくる「田麦俣」のある旧朝日村地区はその大部分が深い山の中。
さらに同じ旧朝日村でも、新潟との県境を形成する、赤川の源流部にあたる朝日岳山中「大鳥地域」などでは、鉄道はもちろんスーパー林道ができるまでは道路も未整備の部分があるなど、典型的な山村の暮らしが営まれていました。

東北山村の山暮らしと狩猟

開けた土地の少ない山間部では当然水田などの農業だけでは生活することが出来ません。そこで様々な手段で、山の幸を得て、生活をしていくことになります。
その手段の一つが映像でご紹介している「タカ狩り」などの「狩猟」です。
この地域でも昔から様々な方法で「狩猟」がおこなわれていました。
映像で紹介している「タカ狩り」獲物の通る道で待ちうけて射伏せるもの。
罠をしかけてウサギなどを採るもの。
また大ぜいの人びとで獲物を追い詰めていく巻狩などがおこなわれていたのです。

東北山村の山暮らしと狩猟

「タカ狩り」は平安時代の文献にも残る古くからの狩猟方法です。
ただし武士が台頭する時代に、武士の楽しみとして大流行してしまったために、特に江戸時代にはお殿様の独占的な狩猟方法となってしまいました。
再び「タカ狩り」が一般的におこなわれるようになったのは明治時代。こうした制約がなくなってからのことといわれています。
通常「タカ狩り」は「ハヤブサ」などの比較的小型の猛禽類でおこなうのですが、「山形」や「秋田」では周辺の山々が「クマタカ」の生息地。
その入手が比較的容易だったこともあり、全国でも珍しい、大型の猛禽類による「タカ狩り」がおこなわれました。
さらに当時「鉄砲」を使った「狩猟」には税金がかかり、動物を使ったこうした「狩猟」は無税であったため、「タカ狩り」が普及。当時は地区によっては40人から50人の鷹匠がいたという記録も残っています。
その主な獲物は映像にあるように「ウサギ」でした。この地域で貴重な冬のタンパク源として、正月を中心として「ウサギ」を入れた汁「ウサギ汁」が食されていたため、とった肉が近辺の村で良い値段で売れていたのです。
しかし、やはり猟期が冬場に限られるのに、一年中タカの世話をせねばならない「タカ狩り」はウサギの肉の需要減少とともに、次第に割の合わないものになり、また「クマタカ」保護の観点からその捕獲・飼育も難しくなって、現在大型猛禽類による「タカ狩り」は全国に映像に出演いただいた鷹匠・松原英俊さんただ一人になっています。
「ウサギ」の狩猟方法としては、このほかにも針金でまるい輪をつくり、そこにウサギがかかると針金がしまっていくという「ウサギワッカ」という罠での猟があり、現在でも一般的におこなわれています。

東北山村の山暮らしと狩猟

この地方で「ウサギ」に並ぶ動物性タンパク質として食べられていたのは「ヤマドリ」です。
「ヤマドリ」はキジ科の鳥で、キジに似ていますが、平野部に住む「キジ」に対して山間部に住んでいます。
おもな狩猟方法はやはり「鉄砲」での狩猟ですが、沢をはさんで左右に人を配置し、その間にいる「ヤマドリ」に対して、自分側に来た時に大声を出して驚かせ、互いに反対側に追い払うことを何度も続けることで、「ヤマドリ」を疲労させ、力尽きて翔べなくなったところを素手で捕まえるという「ヤマドリボイ」という狩猟方法があったとも伝えられています。

東北山村の山暮らしと狩猟

こうした狩猟で一番の大物はやはり「クマ」です。「クマ」の狩猟というと秋田県阿仁地方の狩人「マタギ」が有名ですが、旧朝日村の「大鳥」地区でも古くからクマ狩りがおこなわれています。
方法は多人数でクマを囲い、追い込みながら包囲網を狭め、最後は鉄砲で仕留めるという「巻狩り」。
「巻狩り」は、例えばサッカーが「キーパー」「センターバック」「サイドバック」「ボランチ」「トップ下」「センターフォワード」など細かく役割をわけてボールをゴールへとと運んでいくように、独特の名称をそれぞれの役割にあてて行動します。
例えば「マエカタ」は指令役。全体の見えるところで、昔はかけ声で、今は無線機で指示をだします。
「マエカタ」の指示でクマを鉄砲の打ち手の方へ追い込んでいくのが「ナリコミ」。仕留める役にはメインの打ち手である「タチマエ」やその二番手三番手である「二番アゲ」「三番アゲ」といったメンバーが控えており、さらに、違う方向にクマが逃げた場合にそなえて方向を修正させる「ヒカエナリコミ」や打ち手が打ち漏らしたときに、その最後の砦として後方に控える「トリキリ」といった役目の人びともいます。
こうした人びとがクマの習性やその地形などから作戦を決定し、その作戦に沿って緊密に連携しながら、クマを追い込んでいく狩猟が「巻狩り」なのです。
この「大鳥地区」では今でも春、クマが冬眠が覚めた頃を見計らって「巻狩り」がおこなわれます。 しかし昭和には一時期一千人を越えたというこの地区の人口も現在は80人程度という超過疎地域。狩りのメンバーも多くが高齢者となり、「タカ狩り」同様、代表的な山の文化であった「クマ狩り」も消滅の危機を迎えているのかもしれません。

Part4 田麦俣と黒川村の関係(6分38秒)
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30:09~33:50 王祇祭の神事 興行 宮上り・十七夜祭
33:51~34:54 寒鱈漁 どんがら汁
34:55~36:01 豆腐焼き
36:02~36:47 1月31日 当屋使い
田麦俣と黒川村の関係

田麦俣は月山ダムのダム湖である「あさひ月山湖」を過ぎたあたりの山の中に位置しています。
しかし山間部ではありましたが、庄内平野と山形市を結ぶ六十里越街道(現在の国道112号)沿いにあった田麦俣は、湯殿山神社にも近く、出羽三山の信仰に訪れる人びとにとって重要な宿場町として栄えるようになりました。
明治以降、出羽三山の信仰の人気が衰えたため宿場町としての賑わいはなくなりましたが、それ以後は養蚕業へ転換。それが今も残る田麦俣多層民家へつながっていくことは映像でご紹介しているとおりです。

田麦俣と黒川村の関係

ところでこの田麦俣と黒川には意外な関係がありました。
実は黒川にとって田麦俣は、その発展のきっかけを作った恩人とも言うべき場所なのです。

「1.庄内平野とは」でご説明したように、庄内平野は最上川や赤川がその流れではこんできた堆積物でできた沖積平野です。
沖積平野は開けた平野部ですから、傾斜のある山間部にくらべ、何かにつけ、非常に有利な条件に思えます。
しかし実際には堆積物が小石などでできていて水を通しやすいため、土の保水力が非常に劣っており、かつ平野部分は川の作る河川段丘で、一段高いところに広がっているために、水を高台部分まであげられないという問題がありました。
また逆に河口近辺では湿地で水はけが悪く、川の氾濫など水害にも弱いために、農業をおこなう条件としては、必ずしも有利とは言えないのです。
実際庄内平野も早くから人が住み、荘園経営などがおこなわれていましたが、実はその多くが耕作できずに原野として残ったまま。
黒川のあるあたりも、延田原といわれる、水資源がたりず、不毛の原野が広がっていたのです。

田麦俣と黒川村の関係

こうした状況を変えるために必要なのはやはり水でした。しかし水があるのは原野から一段下に流れている赤川や最上川。
ポンプなどがないこの時代では、そこから水をあげることはできません。
そこでどこかこの原野より高いところにある水源から水を引いてくる用水が必要になったのです。 それが可能になったのはやはり土木技術の進化があった室町時代、そして江戸時代初期のこと。 そこで活躍したのが、この地域にすむ山の人達でした。
この地域では鉱山開発が盛ん。当然穴を掘ったり、岩盤を削るなど、土木技術に長けた人びとが集まることになります。
こうした技術が身近にあったことで、この時代から一気に用水の建設などの水利事業がはじまります。
これによって初めて庄内は現在のような水田の広がる豊かな平野になっていくのです。

田麦俣と黒川村の関係

その良い例がこの黒川。
黒川あたりは延田原という荒れ地。これをなんとか豊かな水田に出来ないかと言うことでまず江戸時代 元禄期1700年代に「越中堰」という堰を梵字川が赤川に合流するあたりにつくり、そこから用水を赤川沿いに伸ばして黒川あたりまで引いてきます。
これによってこの地域に約500ヘクタールの水田が作られたといわれています。
さらに約130年後 近くの田沢川から「延田堰用水」が作られ、約53ヘクタールの水田が作られるのですが、この田沢川、赤川や梵字川に比べると水量がすくなく、すぐ水不足になってしまいました。 そこで更に新しい用水を作ることになったのですが、なかなか良い水源がありません。
そしてようやく見つけたのが田麦俣近くの梵字川の上流田麦川の、さらに奥の金剛山川から水を引くことだったのです。

田麦俣と黒川村の関係

しかし問題がありました。
ここは田麦俣の人びとが水利権を持つ土地。田麦俣の人びとの了解を得なければ、そこから用水を引くことはできないのです。
当時こうした水利権は非常に重要です。
なにしろ水を分けてしまって、自分たちの所に水がなくなってしまえば、死活問題です。
そのために用水を開削する時には、いつでもその用水に関係する村々で利害が衝突し、争議になることもしばしば。
用水が計画されても、その利害の調整が出来ずに、まさしく水に流れてしまう計画も多かったのです。
しかしこのとき意外にも田麦俣の人びとはあっさりこの計画を許します。
この当時田麦俣は街道の宿場町として非常に豊かな村となっていました。さらに山間部で水田が少なく、さほど多くの水の需要がなかったたことが幸いしたようです。
こうして田麦俣の近くに、その取水口を作りそこから黒川の近くに流れる田沢川まで流れる「天保堰用水」が作られることになるのです。

田麦俣と黒川村の関係

といってもこれは大変な工事です。
というのも黒川=田麦俣間は地図上で直線をひけば10キロですが、実際には黒川=田麦俣の間には山があり、街道や川はそこを大きく迂回、街道を普通に通って向かうと、2倍の20キロという道のりになります。
迂回すれば距離がのび、最短を目指せば山を突っ切って行く必要がある、どちらにせよ用水工事は困難が予想されました。
結局山を横切る選択をした「天保堰用水」はもちろん機械などない時代に、すべて人の手で山を掘り、岩を削り、毎日1000名以上の人びとによって天保8年1837年に最初の9.9㎞が開通。以後さらに延長され最終的には本流支流あわせて28.4㎞が完成したのです。

こうして黒川の水不足が解消。当時の黒川村では新田開発も順調に進み、天保年間には同じ庄屋が管理する村の集まりである「黒川組」の中で、他の村の石高が100石から400石程度であるのに対して、1千900石という桁違いの収穫高をほこる巨大な村に発展していくのです。

実はこうした村の生産力や経済力こそ「黒川能」を作る背景だったのです。
あれだけの能を年間を通して何度かおこなうためには、多くの村の人びとが、それだけ時間をかけるだけのゆとりが生活にも経済的にもなければ、いくら村の重要な神事といえども、続けていく事は不可能。
その広大な水田が黒川の人びとに、それをおこなっていくだけの余裕をあたえたのです。
そしてそれは水を快く分けてくれた「田麦俣」の人びとのおかげでもあったのです。

Part 5 黒川能はなぜ生き残ったのか?その2(23分46秒)
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36:48~42:44 2月1日 王祇祭 王祇おろし 布つけ 能面を運ぶ 座狩り 振舞い
24:45~48:38 黒川能の上演 大地踏 式三番 翁 所仏則翁 所仏則三番叟、脇能 「老松」 「嵐山」、暁の使い
48:39~49:15 中入り
49:16~52:09 「巴」 「船弁慶」 「猩々」
52:10~57:15 2月2日 榊屋敷 七度半の使い 朝尋常 棚上り尋常 布剥ぎ尋常
57:16~1:00:34 エンディング 2月3日道具渡し
黒川能はなぜ生き残ったのか?その2

黒川能はなぜ生き残ったのか、その1では黒川能が元々農業神事であったことを解説しました。
しかしそれがなぜ「能」という伝統芸能の入った形でいまにつづいているのでしょうか?

日本では祭りと芸能は非常に近い存在でした。
民俗学者折口信夫によれば、日本の芸能はおよそ祭りからおこっているものといいます。
つまり祭りでおこなわれる様々な動き=所作が、祭りの参加者で、なんどもくり返されていくうちに、だんだんと洗練され、一つの形を作っていきます。
さらに祭りにはそれをおこなうものだけでなく、祭りを外から見る観客がいて、その形の良さなどから受ける自分の感情を自然と感想として述べるようになります。
すると祭りの参加者は、観客の視線を意識せざるを得ず、しだいに所作は観客に見せるための要素を増やしていき、そしてついには儀式という枠を飛び出して、見せるための「技」として成立しはじめるのが、日本の芸能の始まりなのだというのです。

黒川能はなぜ生き残ったのか?その2

例えば「王祇祭」で一番最初に子どもによる「大地踏み」という演目があります。
これはもともとは陰陽道やまじないをおこなう呪術師が神事の中でおこなったといわれる「反閇(ヘイバイ)」という独特の歩行術が原型。
この大きく脚を踏みならすことで、大地の中にいる悪霊などを踏み破り、良いことを呼び覚まし、魔除けや安全祈願をおこなうのがこの「反閇(ヘイバイ)」です。
古くはアマテラスが天岩戸に隠れたときにアメノウズメが踊っていた所作に始まるとも、中国道教の不老長生を目的とする神仙術「禹歩」からおこったともいわれるこの所作は、日本の中では様々な儀式に、その基本形として取り入れられていくだけでなく、オープニングのルーティンとして取り入れられることが多くなるのです。
代表的なものが相撲で脚を上げ、土俵を踏みしめておこなうルーティン「しこ」。
力士は相撲を取る前に、邪気をはらい、土俵を清めるためにおこなっていると言われています。
また「反閇」などまじないをおこなっていた呪術師は、いつしか大道芸などと融合して、これを踊りへと変えていきます。 それを取り入れたのが出雲の阿国がはじめた「歌舞伎踊り」それが最終的に現在の「歌舞伎」につたえられ、見栄を張るときなどの脚を大きく踏み出す所作などにつながっているともいいます。 さらに「能楽」の前の姿である「猿楽」もこうした動作と魔除けや安全祈願・五穀豊穣といった意味を取り入れた演目を作ります。それが「王祇祭」で「大地踏み」の次に演じられる「翁 (おきな) 」「三番叟 (さんばそう) 」。
これらの演目は能の中でも特別な意味を持つものとして、特に祭りや神事のなかで能が演じられる場合は、邪気払いなどの意味も込めて、必ず最初におこなわれるようになるのです。

黒川能はなぜ生き残ったのか?その2

さて黒川でも「王祇祭」などははじめは純粋な農業神事として始まったと思われます。
しかしそこにはすぐ、見せる要素が入った演目が加わってきます。
最初は「大地踏み」のような比較的簡単なプログラムから神事にくみこまれていったものと思われますが、戦国時代から江戸時代初期には、当時非常に流行っていた「猿楽」の中から「翁 (おきな) 」「三番叟 (さんばそう) 」など儀式的な演目を取り入れ、その後に観客に見せる要素が強い、「能」の演目をおこなうようになったと思われます。

そしてさらに黒川能が発展する理由が江戸時代元禄期にはじまります。
実は江戸時代「能」は幕府から儀式などのときにおこなう「式楽」という公式演芸として位置づけがされるようになります。
そのため幕府だけでなく、全国の各藩も祝い事などがあった時、あるいは賓客を招いたときなどは「能」の興行をおこなうことが必要になってきます。
しかし観世・金春・宝生・金剛といった「能」の4座を抱えている幕府はともかく、すべての藩で幕府のような専門の能役者をかかえることは、財政的にも非常に難しかったようです。
そこで多くの藩では藩中にいる家来の武士の中から芸に優れた者を選び、これに専門の能役者をコーチとしてつけて「能」の興行をおこなう方式をとっていました。これを「武家役者」といい、中には殿様自らが能を舞うという藩さえもありました。

黒川能はなぜ生き残ったのか?その2

これに対して祭事・神事のときに能をおこなうために町人や農民が作っている「座」に藩が「能」の興行を依頼するという方式がわずかながら存在しています。
その一つが「黒川能」だったのです。
それは元禄3年1690年のこと。 
この地、庄内藩を所領していたのは酒井氏。その4代目藩主となる忠真が初めてお国入りをすることを祝っておこなわれる祝能興行になんと農民の集団である「黒川能」を指名したのです。
これはかなり思い切った起用です。お国入りを祝う興行は藩主忠真候や老中などのご家来衆、それに藩主の子供達などもご覧になる公式行事ですから、もちろん粗相があってはなりません。また武士の教養として、自ら「能」を嗜む武士も多く、それなりの目利きも多かったと思われるところへ、江戸の本格的な役者を呼ぶのではなく、その正反対の田舎のアマチュア集団を出そうというのです。
しかも準備期間は約2ヶ月。
さらにそのころ黒川地区は新田開発前の耕地の少ない時代。かなり財政的に苦しい状況で、ほとんどの役者が登城するにあたっての着る服さえなく、主役である太夫でさえ裃がないというありさま。
確かに「能」は演じることは出来ましたが現在、能540番、狂言50番を演じることができるという演目数も、なんと当時は能が10番しかできず、さらに狂言に至っては1番も演じられないという状態。
しかし藩からの依頼と言うことで、断ることも出来ず、かれらは必死の覚悟で稽古をつけ、さらに衣装代など費用を藩から借り受け、失敗すれば二度と村には帰れないことも覚悟で、藩主が滞在する鶴岡城へと向かうのです。
興行はなんと大好評。米100俵などの褒美をもらい、彼らは黒川村に無事帰ることができました。 この成功が彼らに大きな自信をあたえるとともに、ちょうど黒川村はその時期から新田開発が進み経済的に豊かになっていったこともあって、人びとは本格的に能に取り組むようになっていきます。
その結果、「黒川能」は江戸時代を通じて10回もの藩の能興行に出演。ほとんど藩の専属能座といえるような地位も獲得します。
また近隣の神社などにも興行を依頼される人気の能座となり、その後明治になって武士の文化が消滅し「能」が急激に勢いを失った中でも、そのクオリティを落とすことなく、現代でも高い評価を受ける能集団としても存在し続けているのです。

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