データ読み込み中...

Vol.14 丘の恵みに彩られた 果樹王国の四季 ―山梨県―

「甲斐の国」山梨は果樹王国。江戸時代から名高い「甲州ブドウ」そしてブドウとともに今や日本一の生産量を誇る桃。盆地という立地を生かしてこの地では生産性の高い果樹栽培が古から行われています。そしてそのブドウを使った甲州ワインは日本から世界のワインへ。丘の恵みを守り続け、その恵みに感謝することを忘れない人と文化があるのです。

Part 1 プロローグ~島を愛し 郷土を愛す~ 愛媛県編
このパートを見る このパートを見る
0:00~2:51 プロローグ~丘の恵みに彩られた 果樹王国の四季~ 山梨県編
プロローグ~丘の恵みに彩られた 果樹王国の四季~ 山梨県編

山に囲まれた平地の少ない山梨県だからこそ、生産性の高い農業をめざして。

本州のほぼ中央に位置する山梨県。広さは4,465平方キロメートルで、全国で32位。全国45位の東京都に比べると約2倍の広さがありますが、全国的には決して大きな県ではありません。
さらに西は日本アルプス、南は富士山、北は秩父山系など、日本でも有数の山岳地帯に囲まれているため、県の平均標高は1,060メートル、その3分の2が「中山間地域」であり、約8割弱は森林(森林の割合では全国第5位)という地理環境です。
このため、大規模な水田や畑に適した平地が少ない山梨県では、農業耕地面積の割合が総面積の5%しかなく(これは東京、高知、島根、岐阜などと並んでワースト5)、農家1戸当たりの耕地面積は全国平均の約3分の1しかありません。 つまり山梨県は、普通に考えると決して農業に有利である地域ではないのです。

プロローグ~丘の恵みに彩られた 果樹王国の四季~ 山梨県編県編

しかし現在の山梨県は、狭く、そして「中山間地域」特有の傾斜地の多い耕地でありながらも、こうした土地を最大限に活用し、全国でも有数な生産効率を誇る特長ある農業が展開されています。

その代表的なものが、今回この作品でご紹介する「ブドウ」「モモ」などの果実栽培です。 全国的に有名な「ブドウ」をはじめ、「モモ」そして「スモモ(プラム)」も現在生産量は全国1位。そのほかにも「サクランボ」「柿」「リンゴ」「梅」等多くの果実が栽培されています。
こうした生産性の高い果実栽培を助けているのが山梨の気候です。
前述したように山梨県は高い山に囲まれた「内陸性気候」です。 海からの影響が少ないため、上空の水蒸気量は少なく、雲の発生率は下がります。このため、日照時間の長さは‘84~‘13年の30年平均で全国第1位。当然降水量も少なく、加えて朝晩の気温寒暖差も大きくなります。

この日照時間の長さと朝晩の寒暖差こそ、よい果実を作るため、非常によい条件となるのです。

プロローグ~丘の恵みに彩られた 果樹王国の四季~ 山梨県編県編

果実を甘くするのはもちろん「糖」。
植物はこの糖を光合成によって作るため、多くの日照時間があればそれだけ多くの「糖」を生産し、果実に蓄積することができます。 さらに降水量が少ないと、水分で「糖分」が希釈されることなく、甘さが保たれることになります。
また植物は、夜間は光合成ができません。 そのため植物は、夜間は昼間作った「糖」をエネルギー源として活動します。 しかし夜間が寒いとその活動が少なくなり、消費する「糖」も少なくてすむため、さらに糖度の高い果実となるのです。

こうした気候と植物活動のメカニズムの働きにより、山梨県では質の高い果実栽培を行うことができるのです。

Part2 桃栽培の歴史(7分56秒)
このパートを見る このパートを見る
2:51~5:58 甲州市勝沼
5:59~10:50 大澤家
桃栽培の歴史

山梨 モモ栽培の歴史

このあとのPartで解説するブドウは、勝沼周辺という地域限定ではありますが、江戸時代には生産していたことに比べると、山梨におけるモモの生産は比較的最近、早いところで昭和5年頃から、多くは戦後1950年代から始まったといわれています。
その要因は、明治以降日本の近代を支えた産業絹糸を中心とした製糸産業と、それを支えた養蚕業の衰退が背景にありました。
明治時代の殖産興業政策の中で主力として、隆盛を極めた日本の製糸産業についてはふるさとに生きるのNo.3「群馬県編」にて、日本の製糸産業を支え世界遺産となった富岡製糸工場の様子や、現在も続く養蚕の様子をご覧いただけます。

桃栽培の歴史

明治から大正と多少の波はあったものの製糸産業は順調に発展し、それに伴い日本中の山が桑畑になったといわれるほど、日本の中山間地は養蚕のための桑の木が植えられました。
山梨の山も、その多くが桑畑だったのです。
ところが昭和4年アメリカで始まった世界恐慌は翌年日本にも深刻な影響を及ぼし、昭和恐慌が始まります。 それとともに始まったのは生糸相場の大暴落。 日本全国で、多くの養蚕業がこの不況で壊滅的な打撃を受けます。 この時期から多くの農家が桑畑からの転換を迫られていくのです。

そして山梨で桑の代わりに考えられたのがモモだったのです。
今回映像でご紹介している勝沼の隣である「一宮地区」を中心に、山梨では当時モモ生産の先進地であった岡山から「白桃」などの人気品種の苗を取り寄せ、モモの生産が開始されました。

桃栽培の歴史

実はモモは、栽培地の気候や風土にその品質が影響される、環境に敏感で、非常に栽培の難しい果樹なのです。
特に湿度に弱く、多湿な環境や気候では病気や害虫が発生するため、多湿な環境の多い日本では、栽培に失敗するケースが多いのです。
この点、山梨県は
・内陸性の気候で日照時間の長く、降水量が比較的少ない。
・山地で勾配がある土地が多いため、水がたまらず、適度な湿度が保たれる。
・土壌が花崗岩や砂壌土という、排水性がよく土壌の保温性の高い地質である。
こうしたモモの生育に適した環境であったため、栽培に成功したのです。

さらにモモは果肉が柔らかく傷みやすいため、消費者に届くまでの輸送時間が短いこともきわめて重要で、東京に1時間程度で着く山梨は他県のモモの生産地よりも圧倒的に競争力がありました。
こうした好条件に恵まれ、太平洋戦争の一時期食糧難から栽培面積を減らしましたが、1950年代から復活。1960年代高度成長に伴い果物の消費が爆発的に増加する中で、モモの栽培は急激に拡大していき、ついには他県を抜いて山梨のモモは日本一の生産量を誇るようになっていくのです。

桃栽培の歴史

ところで山梨の果実栽培農家は、映像でご紹介している大澤家のケースもそうですが、同一品種を栽培した方が経済効率がよさそうなものを、あえて「モモ」と「ブドウ」、あるいは同一品種ではなく多品種の「モモ」を栽培するケースが多いのです。
これに関してはいくつか理由があるようです。
ひとつは単一栽培のリスクです。そもそもモモ栽培への転換は、養蚕という単一な産業に特化していたことが問題でした。この地区では世代が変わった今でも、複数の品種を栽培することでこうしたリスクを分散しているのです。
また高齢化が進み、どうしても人手不足になる昨今の農家では、作業の分散化が必要です。特にモモは収穫期が短いため、数日ですべてを収穫できます。さらに傷みやすいため、迅速な出荷が求められます。つまり複数の品種を栽培することで繁忙期が分散され、少ない労働力を逆に有効に使うことができるようになるのです。

Part3 山梨のブドウ栽培 (4分51秒)
このパートを見る このパートを見る
10:51~14:34 9月 ブドウの収穫
14:35~15:40 10月 収穫祭
山梨のブドウ栽培

甲州のブドウのルーツを考える 1

モモに比べると、山梨でのブドウ栽培は非常に歴史のあるものです。

山梨にははるか平安時代に、この地にブドウが伝来したことを伝える二つの逸話があります。
最も古い言い伝えは奈良時代、奈良の大仏のプロデューサーであり、かつ非常に民衆に人気のあった僧「行基」が、養老2年(西暦718年)に後で映像でもご紹介する勝沼町に大善寺を創設し、その境内にブドウの苗を植えたという説。 もう一つが平安時代末期文治2年(1186年)に上岩崎(現勝沼町)の住民「雨宮勘解由」という人物が、ちょっと変わった野性のブドウを発見し、それを自分の畑に移植し栽培したことが、山梨でのブドウ栽培の始まりであるという説。

しかし残念ながら、これらは裏付けとなるものがありません。
そもそも「行基」は関西圏で活躍した人で、この地に行脚したという記録はなく、民衆の人気が高い僧であること、かつ大善寺がその近隣でも非常に由緒ある寺であるため、それにあやかったというのが真実であるようです。 また「雨宮勘解由」伝承も江戸中期、勝沼で「雨宮」という人物がブドウ栽培を大々的に行い、江戸へも出荷している経緯から、ブランド展開のために逸話が必要であったため、作られたのではないかといわれています。

そもそも奈良時代や平安時代のブドウは「野ブドウ」、つまり野生の山ブドウを採取しておやつ代わりに食べたり、「葡萄色」という色の発色に染料として使っていましたが、大々的に栽培をしていたということはないようです。

これが変化するのが室町時代(戦国時代)から安土桃山時代だと思われます。 勘合貿易で中国から、物や文化が輸入され、また大航海時代で渡来したスペイン人やポルトガル人も西洋の文化を日本へ持ち込みました。
そんななか、大量に持ち込まれた中国の水墨画などにはブドウをモチーフにした「墨葡萄図」「葡萄垂架図(ふどうすいかず) 」などの絵が多数ありました。
これに影響を受けたのか、日本でも「葡萄棚」を作って栽培・鑑賞し始めるとともに、水墨画や狩野派の屏風絵として、安土桃山時代には「葡萄棚」や「葡萄図」が頻繁に描かれるようになりました。

ちなみに「葡萄棚」に関しては、前述した雨宮家が1615年、貼り薬「トクホン」のネーミングの元にもなった甲州の有名な医師「永田徳本」が「雨宮家」に滞在し、ブドウの新しい栽培法として「葡萄棚」で作ることを発明したという伝承を残しています。しかしその時代のはるか前に京都を中心に、すでに関西圏では「葡萄棚」でブドウ栽培が行われていました。

またこの時代に渡来人が持ち込んだのが「ワイン」です。
ワインは信長や秀吉を訪れた宣教師達が献上したものが始まりですが、これ以降「高級贈答品」として、あるいは重要な接待用のお酒として市中に出回るようになっていきます。 これも伝承ですが、ワインを気に入った秀吉は、ワイン作りを行うため京都の「聚楽第」や「伏見城」に葡萄棚を作って栽培したという説もあるのです。

山梨のブドウ栽培

じつはこの秀吉ブドウ栽培伝承ですが、まんざら絵空事ともいえない部分があるのです。
「聚楽第」はもともと京都での邸宅として秀吉が天正14年(1586年)に造り始め、関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲り、聚楽第は秀次の邸宅となりました。非常に豪華な、邸宅というより残された屏風絵などを見ると、小さいけれど天守閣も備えた、立派なお城といえます。
しかしそれも竣工後8年で、その豊臣秀次謀反嫌疑からの切腹、という事件のあおりを受け、わずか8年で徹底的に破壊されるという悲惨な末路をたどることになるのですが、その敷地あるいは近隣にブドウ園が確かにあったというのです。 それが「大宮通葡萄」。
京都の大路「大宮通り」に面していたことから名づけられたブドウですが、のちに「聚楽第」との関連を印象づける「聚楽葡萄」とも呼ばれることになり、幕末までそこで栽培されていたといわれています。
事実、この「大宮通葡萄」は江戸初期・正保2年(1645年)に松江重頼という人物が『毛吹草』という本で、京都山科の名物43種類の食べ物を書き記し、その中に「嵯峨葡萄」とともにちゃんと出てきています。 つまり桃山時代後半から江戸時代初期、京では栽培されたブドウがあり、しかも名物として広く知られ、しかもそれが幕末まで続いていたということになるのです。

これに対して甲州のブドウはどうでしょう。
甲州ブドウが名物として江戸などで認知され文献などに登場するのは、少し遅れた元禄8年(1695年)に、人見必大という人物が書いた本草書『本朝食鑑』に、ブドウの産地として「甲州を第一」とする記述が出てくるのです。 この本は中国の医薬書『本草綱目』を下敷きに、日本の日常の食べ物に当てはめながら、それを自分で食べて取材し書き直した、グルメ本ともいうべき内容。ですからこの記録も見聞ではなく自分で食べた可能性が大きく、この時代にすでにある程度甲州のブドウが江戸で認知されていることがわかります。
つまり同じころ、甲州でもブドウは正に生産体制に入っていました。

山梨のブドウ栽培

ほぼ同時期に京と甲州で栽培され、食材として広まっていったブドウですが、この二つに接点はないのでしょうか?
じつはわずかながらあるのです。
それが武田氏滅亡後、豊臣秀吉が天下統一を果たした3年後、文禄2年(1593年)に秀吉から甲斐国を拝領し甲府に入った豊臣家五奉行の一人である浅野氏(甲斐甲府22万石)の「浅野長政・幸長」の親子です。
もともと浅井家は信長の家臣でしたが、家督を継ぐ男子がなく、そこに親戚筋の安井家から長政が婿養子に入ります。そこに同じく養女となっていたのが、後の秀吉の正室である寧々。いわば長政と寧々は義兄弟姉妹という関係です。寧々が嫁いだ後はもっとも秀吉に近い姻戚関係ということで、秀吉のもと、どんどん出世していきました。甲斐甲府を拝領する前年には「豊臣姓」まで拝領し、石田三成などともに五奉行として豊臣政権の中枢を担っていました。 したがって甲斐国に赴いたのは息子の「幸長」でした。
幸長は武芸だけなく学業に優れており、甲斐国に入ると太閤検地を行い、正確な石高をはかるとともに各地に奉行を置いて行政に力を入れていきます。
そしてこのとき地域振興策として行われたのが「ブドウ」「モモ」などの果実栽培だったというのです。 彼には、平地が少なく水田での米作りに適した土地が限られる甲斐国では、どうしてもそれ以外の作物を育てる必要が強く感じられたのだと思われます。
甲州には「峡中八珍果」(甲州八珍果 「葡萄」「梨」「桃」「柿」「栗」「林檎」「石榴」「胡桃」(胡桃を「銀杏」に代えることもあります)
という江戸時代に甲斐国の代表的な8種の果物を総した言葉がありますが、その後の甲斐国の土台づくりも彼の発案から始まった可能性があるのです。
さらに幸長とブドウ、そして甲州の関係を思わせる出来事があります。
それが浅野家の京の屋敷。
「聚楽第」の周りは当然秀吉の家臣達の屋敷が囲んでいます。浅野家の屋敷もすぐ聚楽第を囲む一帯に2軒造られていました。

また、先ほど解説した「大宮通葡萄」は、これも「聚楽第」のすぐ外側、南東「南二の丸」の東側にある清水町というあたりにあったそうです。

山梨のブドウ栽培

そしてなんと浅野家の屋敷の一つが、「大宮通葡萄」の大宮通りをはさんだすぐ向かい側(『浅野文庫蔵諸国古城之図』による)、もしくはその一つ隣の「黒門通」(「豊公築所聚楽城址形勝」による)のエリアにあったというのです。
そしてこちらの屋敷には、甲斐国に赴いた「幸長」が住んで公算がきわめて大きいといわれています。
幸長は「聚楽第」にいた秀吉の甥「秀次」(切腹させられたあの秀次)の護衛などをする関係で、「秀次」とも親しく親交があり、このため「聚楽第」へも頻繁に訪れていたはずです。そのたびに彼はブドウ棚を見ながら登城していたはずなのです。
そんな彼にとって甲斐に到着し、最初に頭に浮かんだ作物がブドウであり、そしてその苗を京から取り寄せたとしても少しもおかしくはありません。

近年、秀吉の時代から大阪で育てられていたといわれるブドウが、1株だけ大阪の「大阪府立環境農林水産総合研究所」にあることを、甲州のワイナリー会社の社長さんが見つけてワイン用に復活させています。
「紫」というこの品種は小粒で酸っぱく、作る農家がなくなってしまったとわれていますが、当初この品種は甲州ブドウとはまったくの別品種と思われていました。
しかし今回DNA分析をしてみると、なんとこれが甲州ブドウと同じかきわめて近い品種であることがわかったのです。 つまり関西のブドウと甲州のブドウには、どこかに接点があったのです。

実際今となっては、「紫」というブドウがどこからもたらされたのかはわかりません。
このブドウが甲州へもたらされたのか、あるいは逆だったのか?
京の「大宮通葡萄」は、ほんとうはどんなブドウだったのか?
それと甲州のブドウとは関係があったのか。
決定的な資料でも新たに発見されない限りこの謎は解くことができません。
しかしブドウとは、こうしたロマンをかき立てる、何か不思議な魅力を持った特別な果実といえるのかもしれません。

Part4 甲州のブドウ (5分25秒)
このパートを見る このパートを見る
15:41~18:27 ワイン用のブドウの収穫
18:28~21:06 鳥居平の工場
甲州のブドウ

ヨーロッパ出身中国経由の甲州ブドウ

山梨といえば、なんといっても日本第1位の生産量を誇るブドウが思い浮かびます。
昨今では生食用・ワイン用とさまざまな品種が栽培されていますが、やはり代表種として挙げられるのは、数百年以上の昔から日本に根づき、そしてこの地「甲州・勝沼」で大切に育てられてきた品種「甲州ブドウ」といえるでしょう。 現在日本の白ワイン「甲州ワイン」が世界で非常に高い評価を受けていますが、これも日本で昔から育てられてきたこの「甲州ブドウ」があってのこと。
伝統的なヨーロッパのワイン品種「シャルドネ」や「ソービニヨン・ブラン」「リースリング」などで作られる、白ワインにはないオリジナルな味わいを「甲州ブドウ」が作り出しているからなのです。
まさにジャパンオリジナル。山梨のブドウ作りは単に生産量だけでなく、こうした貴重な品種を残してきたことで、文化的にも重要な役割を果たしてきました。

甲州のブドウ

さてこの甲州ブドウ、日本に野生していた「山ブドウ」とは明らかに種類が違うため、そのルーツや植物分類的にどこに置くかなどについて、長らく議論の的となっていました。

ブドウには大きく分けて、三つの種類があります。
一つは黒海とカスピ海にはさまれた現在のグルジアやアルメニア、アゼルバイジャンなどがあるヨーロッパとアジアをまたいだコーカサス地域を原産とする「ヴィニフェラ系」(一般的にはヨーロッパ種とされています)。
もう一つは北アメリカを原産とする「ラブルスカ系」(グレープジュースなどの原料になります)。
そしてもう一つが中国など東アジアを原産にする「ヴィティス系」です。
あるいはこうした違う系統を交配させ、新しい種をつくることもあります(交雑種)。
例えば、最近の生食の主力品種である「巨峰」「デラウエア」「ピオーネ」といったブドウは「ヴィニフェラ系」と「ラブラスカ系」の組み合わせが基本になった交雑種です。

甲州のブドウ

さて「甲州ブドウ」がどこの系統に属するか。
その議論にようやくピリオドがついたのは2013年、日本の独立行政法人種類総合研究所がアメリカの研究チームと合同で行った、DNA調査でのことでした。
その結果は、ヨーロッパ系の「ヴィニフェラ系」が4分の3、中国系の「ヴィティス・ダヴィディ」が4分の1というものでした。
もちろんこれは人為的に作られたものではありません(先ほどの巨峰やピオーネは品種改良のために作り出された新しい品種です)。
長い年月の間に自然が作り出した自然交雑種です。
つまりカスピ海のあたりで生まれたブドウがシルクロードを伝って中国に入り、そこで中国のブドウと出会い結ばれ、そしてそれが何かしらの形で日本に運ばれ、そして甲州という環境と人々の中で大切に育まれました。 その長い道のりと時間、そしてこれに関わる多くの人々の思いが結実したものが、この「甲州ブドウ」だったのです。 そしてそのブドウは、今まさに「甲州ワイン」という形で再び世界へと新しい旅を始めようとしているのかもしれません。

Part5 甲州ワインビーフ(3分42秒)
このパートを見る このパートを見る
21:07~24:49 ワインビーフの事業
甲州ワインビーフ

甲州ワインビーフが支持される要因は

ワインの搾りかすを飼料にして、おいしく、しかもヘルシーであることが注目される甲州ワインビーフ。
これだけでも十分に現代の消費者の心を捉える力を持ったブランド牛ですが、このブランドが支持されている要因はそれだけにとどまりません。

その要因の一つとして、甲州ワインビーフが生まれた1990年代の当初から食の安全にこだわり、徹底した情報公開がされていたということです。
今でこそ日本は2001年に起きたBSE問題をきっかけに、「牛肉トレーサビリティ法」が整備され、生産者の名前やその牛の種類、生年月日等が消費者にも伝わるようになっています。
しかしそれまでは、食の安全という意識は低く、肉の生産者が誰かなどという情報を気にする消費者はほとんどいませんでした。 ですが甲州ワインビーフは最初から徹底した情報公開にこだわり、生産者などの基本的な情報だけでなく、牛たちが何を食べているか、どんな育ち方をしているか等を公開していました。

意外なことに、このことが甲州ワインビーフ、それ自身を助けることになるのです。

甲州ワインビーフ

じつは開発から10年ほどは甲州ワインビーフはあまり売れていなかったのです。

そもそもこの甲州ワインビーフが生まれた1990年代の初めは、まだバブルの気分も残り、ブランド牛というと「松阪牛」のような高級感が手放しで喜ばれた時代でした。
普段は捨ててしまう、いわばゴミである「かす」を飼料として使っていたため、甲州ワインビーフはむしろネガティブなイメージさえ持たれていたというのです。

そこで起きたのがBSE問題です。牛肉全体が消費者から避けられるようになり、甲州ワインビーフの売上げはさらに不振に陥ったといいます。

しかしそのBSE問題という牛肉業界最大のピンチが、やがて甲州ワインビーフにとってはチャンスになります。
県内の生協などの流通が、甲州ワインビーフのこうした食の安全性を高く評価し、販売を支援してくれるようになったのです。
甲州ワインビーフは、ヘルシーさや環境性といった、トレンディで耳当たりのよい要素ではなく、こうした生産者の地道な取り組みが評価されて世に出た肉だったのです。

甲州ワインビーフ

甲州ワインビーフの地道な取り組みは、これだけではありません。

安全な食を提供するために、さまざまな努力を続けています。
たとえば牛にたかるハエの駆除。殺虫剤を使えば簡単で、牛に直接かけるわけではないので問題がなさそうですが、ここでは寄生バチを利用して、自然の力でハエを駆除する努力をしています。
また牧場のまわりの雑草駆除。これも牛が食べるわけではないので除草剤を使ってしまえば簡単ですが、羊を放牧することによって、薬を使わずに除草しています。
甲州ワインビーフはわずかな薬剤でもこうして減らしていき、牛の生育環境全体を安心安全な環境にすることで、健康な牛、安心安全な牛が育つように配慮しているのです。

もちろんこうした行為は牛の成育だけでなく、牧場のある地域全体の環境保全につながります。
映像でもご紹介しているように、甲州ワインビーフは元々廃棄物だったワインの搾りかすを牛が食べ、今度は牧場の廃棄物である「牛の糞」を堆肥としてブドウ生産者に返す循環型農業を実践しています。
これも地域全体の環境保全に大きく貢献します。
甲州ワインビーフは実は牛たちの安心安全だけでなく、地域社会全体の環境を守るという、広い意味での安心安全を作る取り組みでもあるのです。
そしてこのことが甲州ワインビーフの新しい魅力となって、消費者の支持を得る要因になっているのです。

Part6 鳥居平柏尾山大善寺(7分4秒)
このパートを見る このパートを見る
24:50~27:24 大善寺 ぶどう薬師如来
27:25~28:28 鳥居焼き
28:29~29:59 桃の受粉作業
30:00~31:53 エンディング
鳥居平柏尾山大善寺

鳥居平・柏尾山・大善寺周辺散歩

今回はこの映像の撮影が行われた「勝沼」の鳥居平・柏尾山・大善寺周辺を散歩してみましょう。
このページの下にもMAPが表示されるので、ぜひそれを見てご確認いただけると面白いですよ。

まずワインの名前にもなり、現在ワイン用のブドウの産地として高く評価されている「鳥居平」。じつは現在の地図を見ても、「鳥居平」という地名は存在しません。
ここは東京方面から見ると、大月を通り笹子峠を抜け、ちょうど甲府盆地への出入り口ともいえる「柏尾山」という標高700メートル程度の山のあたり。
ただ山といっても山頂にややなだらかな「平」がいくつかあり、そのうちの一つが「鳥居平」と呼ばれていたようです。

その地名の由縁はこの「平」の麓で、京都五山の送り火のように鳥居の形で「精霊送り」の火をつける行事が行われているためです。
グーグルマップをグーグルアースの表示にして、中央高速勝沼インターから北へ少し、国道20号線の柏尾の交差点から甲府方面、左へ少し視線を動かすと山の麓から中腹にかけて、大きな鳥居が描かれているようすを見ることができます。 そしてこの鳥居の周辺に広がる段々畑こそが、映像でもご紹介している「鳥居平」のブドウ畑です。画面を拡大すると段々畑がどのようにできているかわかるので、これもぜひご覧になることをお薦めします。

鳥居平柏尾山大善寺

さて次に訪れるのは、この映像で最後にご紹介している「ぶどう寺」とも称される山梨の古刹(県内でも一番古いお寺ともいわれています)「大善寺」です。
大善寺へはその鳥居から国道20号線を東京方面に引き返します。
するとすぐ「薬師堂」という表示があり、そこが「大善寺」(拡大表示すると大善寺の表記も出てきます)です。ここはストリートビューにすると道路の脇にある山門を見ることができます。
「柏尾山 大善寺」は、奈良時代から平安時代の僧「行基」が開祖といわれる、非常に歴史あるお寺です。行基がこのお寺の下に流れる「日川」の岩の上で修行しているときに夢の中に、手にブドウを持った薬師如来が現れたことから、ブドウを持った薬師如来を刻んで奉納したのがこの寺の始まりということになっています。 この山門を登ったところにある「薬師堂」は国宝に指定されています。その中にその薬師如来もいらっしゃいますが、残念ながらこの如来様は秘仏ということで5年に一度しか拝むことができません。
ここではぜひお土産にワインをどうぞ。
なんと「ぶどう寺」だけあって、お寺で作っているワインがあるのです。もちろん鳥居平のブドウを使っているため味も保証付きで、さらに薬師様の御利益も付いていますから見逃せません。

鳥居平柏尾山大善寺

さらにこのお寺は、地理的にも甲府盆地への出入り口ということで、さまざまな歴史的事件の舞台となっています。
その一つが幕末、新撰組最後の戦いともいえる近藤勇率いる「甲陽鎮撫隊」、板垣退助の率いる「新政府軍」による「栃尾坂の戦い」とよばれる戦場になったこと。
板垣退助率いる「新政府軍」が甲府城へ進軍してくると知った勝海舟は、近藤勇達にその資金や武器を渡してそれを阻止し、甲府城を守ることを命じます。
これに答えて近藤勇は新撰組の生き残りを中心に170名の「甲陽鎮撫隊」を率いて甲州街道を甲府へ向かいますが……まあこのあたりが近藤勇らしいのですが、向かう途中の故郷多摩で大宴会をしたり、宿場で遊んだりして到着が遅れ、甲府城は板垣退助の率いる「新政府軍」に先取りされてしまいました。
それで仕方なく布陣したのが、この「大善寺」でした。
大善寺は甲府盆地の入り口に当たり、下には「日川」が流れ、左右にある「柏尾山」などの山にはさまれる形で狭い谷間になっているため、板垣軍1,200名に対して70名と無勢の近藤達にとって、地の利を考えてそこを選んだのだと思われます。
ただ、そこも徹底できないのが近藤勇です。砦の役割を果たし、戦略上の拠点となる大善寺を「お寺に迷惑がかかるから」と避けて、周辺に薄く兵を分散配置してしまうのです。このために、ただでさえ数ない人数がさらに少ない形で、近代的整備を整えた板垣軍を相手にしたのですからひとたまりもありません。戦いは数時間で終結。近藤勇率いる「甲陽鎮撫隊」は散り散りに逃げていったのです。
この戦を記念して、現在は近藤勇の像が「大善寺」から国道20号線を少し東京方面に行ったところの「深沢入り口」という交差点に立っています。
これもストリートビューにすると、信号機の裏に立っているその姿を見ることができます。 写真などで見る、少々ごつい近藤勇に比べると少し若くかわいらしい姿に描かれていますが……。

その後、近藤は会津で隊を再編し、宇都宮あたりで新政府軍と対峙しますが、結局戦うことなく捕縛され処刑されました。結局、大善寺での戦いが、近藤勇にとって最後の戦になりました。
近藤勇にとって、ここは負け戦ではありましたが、最後の晴れ舞台でもあったのです。

さらにこの深沢入り口から県道217号線を北上すると「勝沼トンネルワインカーヴ」があります。これはJR旧深沢トンネルを利用したワイン貯蔵庫です。鉄道文化の遺産としても貴重なレンガ積みのトンネル(1,100メートル)で見学もできるので、こちらへ足を延ばすのもいいかもしれません。
グーグルアースで見るとJR中央線の手前にあり、ちょうど山の陰があってトンネルが確認しにくいのが残念ですが……。

マップ

マップ

お勧め映像

お勧め映像