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Vol.13 太古と現代をつなぐ農の縁 ―島根県―

古事記や日本書紀に描かれる出雲神話の舞台島根県出雲市。そこでは太古と現在が共存する風土の中で人々の生活が営まれています。日本一の大きさを誇る、神楽殿のしめ縄づくり。出雲平野に広がる散居集落と刈り揃えられた松が美しい築地松の景観。昔ながらの天日干しされる色鮮やかなほし柿。どこか懐かしいふるさとの風景がここにはあります。

Part 1 プロローグ~太古と現代をつなぐ農の縁~ 島根県編(5分)
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0:00~1:54 プロローグ~太古と現代をつなぐ農の縁~ 島根県編
1:55~2:13 出雲神話、大国主神と出雲大社
2:13~3:22 出雲神楽
3:22~5:00 出雲大社
プロローグ~太古と現代をつなぐ農の縁~ 島根県編

■大国主命とは誰か

出雲大社に祭られているのは「大国主神」(オオクニヌシノカミ)です。 日本の代表的な神話「因幡の白ウサギ」でウサギを助けてくれる、あの神様ですね。 実はこのオオクニヌシという神様はたくさんの名前を持っています。
主なものだけでも 「大物主神」(オオモノヌシ)「大穴牟遅神あるいは大己貴命」(オオナムチ)「八千矛神」(やちほこ)「葦原醜男」 (アシハラノシコオ) 「所造天下大神(アメノシタツクラシタルオオカミ)「幽冥主宰大神」 (カクリゴトシロシメスオオカミ)などなど。 確かに古事記や日本書紀に出てくる神々は、例えば誰でも知っている「天照大神」(アマテラス」にしても「大日孁貴神」(おおひるめのむちのかみ)「大日女尊」(おおひるめのみこと)など複数の名前を持っています。
しかしこれほどの多くの名前を持っているのは異例なこと。 さすがに昔の人々にとっても、これだけ多いと混乱するのか、日本書紀でも最初にこうした多くの呼び名を一覧にして、これらがすべて「大国主」ことであると確認してから話を始めるほどなのです。

さてこのオオクニヌシが主人公として最初に古事記に登場するストーリーは冒頭でご紹介した「因幡の素兎」(いなばのしろうさぎ)の物語ですが、このときの名前は「大穴牟遅神」(オオアナムチのかみ)まだ「オオクニヌシ」でありません。 そもそも神々の名前というのは、それぞれの神様の役割やキャラクターを表しています。 この「オオアナムチ」という名前の意味するものは「大きな業績を持つ人」あるいは「遅=地」でたくさんの土地を持つ人といった意味です。
実はまだこのとき「オオクニヌシ」は多くの兄弟神の荷物持ちと言った存在。あまり力のある神ではなく、その後兄弟達のあこがれのマドンナ的な「八上比売」(ヤガミヒメ)を射止めてしまったために兄弟に恨まれ何度も殺され、母や他の神によって蘇生されるも、危ないというのであの八岐大蛇を退治したアマテラスの弟である「スサノオ」(スサノオとっては大国主は自分の息子あるいは6代あとの孫といった複雑な関係もあります)のいる国へ逃亡せざるえないといったちょっとひ弱な感じの神様です。
それがこの「スサノオ」の国でその娘と父親スサノオの反対にもめげず結婚。スサノオの色々な試練に打ち勝つことで、結婚を許されたとともに、「どうせ結婚するんだったら、この葦原の中国(天上界に対する地上界、日本全体、あるいはこの出雲地方全体をさすと言われています)を支配するぐらいの男=「大国主」ぐらいになって、でっかい御殿を建ててくれないと許さないぞ」などと言われて、その言葉に発憤したのか、今までいじめられていた兄弟神達を攻略。そのあと海からやってきた小さな神様「少名毘古那神」(スクナビコナノカミ)とともに国づくりに取り組み「葦原の中国」を大いに豊かな国にすることによって、名実ともに「国をつくった男」=大国主」になっていきます。
つまり最初にこの日本を作り平定したのはこの人「大国主」であり、それをまつっているのがこの出雲大社というわけなのです。

ところで『日本を作ったのはこの人「大国主」だった』と言われると、なんとなく違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。
実際「日本書紀」「古事記」ではこのあと「アマテラス」などの命をうけて、天孫が地上に降り、そして九州の高千穂・日向から「神武天皇」が大和へ攻め上ります。その後「ヤマトタケル」らによって、日本の国が平定され、それが天皇の統治する「大和政権」につながる「日本建国のストーリー」へあらためて展開されていきます。 特にこれらのストーリーは、明治から戦前にかけて、体制擁護のために思想教育に組み入れられたために、現在でも強いイメージとして私達の中に残っています。

しかし「大国主」というと「因幡の白ウサギ」を助けた人ぐらいの認識がせいぜい。
その人をお祀りしている「出雲大社」にしても昨今は「縁結びに御利益がある」という事ばかりが宣伝されすっかり「大国主」のことは忘れられているようです。
しかし『日本書紀』では全体を30巻にわけ、そのうち最初の第1巻はこの「大国主」が国を完成させるまでのストーリー。 古事記に関していえば全体ボリュームの3分の一がここにいたるまでの話に費やされているほどの有名人物。 さらに大国主に対する人々の信奉は強く、出雲大社以外にも、平安時代では全国にある一宮(その地域第一の神社)66カ所の内、この大国主やその系列の神様を主祭とする神社は20カ所にも及んでいたほどの神様なのです。

プロローグ~太古と現代をつなぐ農の縁~ 島根県編

■国譲りの謎

さて、「古事記」と「日本書紀」はこの二つの国づくりの話の間に一つの話を挟み込みます。それが映像でもご紹介した「国譲り」の逸話です。
つまり「アマテラス」が「大国主」が作った「葦原の中国」がほしくなって、いろいろな神を大国主の所に使わし、説得し、「大国主」から譲ってもらうという話が入るのです。

この「国譲り」の逸話に関しては、多くの史家が「出雲地域」武力で攻略したことをあまり強調したくない新興勢力の「大和朝廷」側が出雲の神の影響力を恐れ、話し合いで解決したように装ったというような見解を多く述べています。実際「出雲の神」は何度か天皇家の人々に祟りを起こします。そのために鎮魂のためにこうした逸話をあえて記載したという主張も理解できます。

しかしそれでも矛盾はのこります。
なぜなら、せっかく譲られたにもかかわらず なぜかアマテラスの命令で皇太子の「天忍穂耳尊」の子ども「邇邇芸命」は出雲や大和の地ではなく、ずっと離れている九州「筑紫の日向」に降ろされ、天孫降臨してからようやく3代後に「神武天皇」がいわゆる「神武東征」であらためて近畿に攻め上がっていく様が描かれるからです。 これでは「葦原の中国」をもらった「国譲り」交渉はまるっきり意味のないものになってしまいます。 むしろ話としては「神武東征」の中で「出雲勢力」と出会い、戦い、打ち勝った。あるいは話し合って恭順させたことを「国譲り」として表現したのならばスッキリするのですが、「古事記」「日本書紀」はこれに関しては一貫して「国譲り」が先で「神武東征」はそのずっと後のこととしているのです。

そもそもが神話の時代の話なので、話そのものが荒唐無稽であったり、時間や話の経緯が順不同であることは大いにあり得ること。こうした矛盾もしかたのない事なのかもしれません。 しかし日本書紀も古事記のような書物は、時の権力者が、自らのルーツや実績を誇るために作るもの。こうした部分で自らに都合の良い脚色も自由なはずです。もっとうまい嘘だってつけたのです。 なのに「古事記」と「日本書紀」が同じストーリーで同じ矛盾をのこしている事に関しては、隠そうと思っても隠しきれない何かがやはりここにあるということかもしれません。

プロローグ~太古と現代をつなぐ農の縁~ 島根県編

■神話から史実の世界へよみがえる出雲国

ところで「日本書紀」「古事記」の中でもこうした「神代」の「国づくり」や「国譲り」いった神々の話への評価は、明治以降こうした神話が思想教育に使用され、盲目的に信じ込まされたという苦い経験を多くの人々がもっていたこともあって、あらためて科学的に検証され、再評価されることになります。
この中で特に疑問符が付いたのがこの「大国主」などに関する「出雲神話」でした。 というのも早くから弥生時代から古墳時代にいたる時代の様々な文化を象徴するような品、例えば「銅鐸」や「銅剣」などが古墳や遺跡の出土品から確認されていた北九州や畿内に対して、出雲地域ではこうした出土品がほとんど出なかったのです。 そのために出雲という地域は出雲神話に書かれたような広範囲な影響力を持つ権力は存在せず、「出雲神話」それ自体も実体のない創作された神話であるという説が専門家の中で強くなっていたのです。

そんな評価は1984年突然発見された島根県出雲市斐川町の神庭西谷の「荒神谷遺跡」で覆されることになります。それは農道建設のために前年に行われた調査で、調査員が田んぼのあぜ道で拾った須恵器のかけらが発端でした。
それをきっかけとして開始された調査で近くの谷間を発掘すると、なんと「銅剣」が358本が出てきたのです。それまで日本で発見された「銅剣」は九州を中心に全部あわせても300本程度。それを超える本数が一気に一つのところから出土してしまったのです。
さらにそばから「銅鐸」6個と「銅矛」16本が出土します。
1996年にはここから3.4㎞離れた島根県雲南市加茂町岩倉で「加茂岩倉遺跡」が発見発掘されます。ここではなんと「銅鐸」が39個発見されますが、これも1カ所から発見された数としては日本最多。 どちらも日本考古学上それまでに考えられないほどの大発見。出雲は弥生時代から「北九州」や「近畿圏」と並ぶ、あるいはそれ以上の一大文化圏であることが証明されてしまったのです。
だからといって、これで「出雲神話」の内容までが真実だったと証明されるわけではありません。しかしなぜ「古事記」「日本書紀」で最初に描かれる世界が「九州」でも「大和」の地でもなく、出雲であったのかという疑問への答えは出たのかもしれません。

Part2 出雲平野と屋敷林(4分32秒)
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5:00~5:20 出雲平野
5:20~9:25 散居集落と斐伊川、築地松と屋敷林
出雲平野と屋敷林

■昔は海だった「出雲平野」の散居集落(散居村)

水が張られた水田が広がり、その中にぽつんぽつんと浮かぶように、屋敷林をともなった家屋が点在する。そんな散居集落の景色は棚田と並ぶ日本の美しい米作りの風景。
今回映像で紹介されている「斐川町」周辺の「出雲平野の散居集落」は「砺波平野」(富山県)「胆沢平野」(岩手県)と並ぶ日本三大散居村の一つです。
この散居集落がある出雲平野は東西約20キロ、南北8キロ。南側にある中国山地と北側にある島根半島の丘陵地に挟まれ、東西に横に伸びた形地で広がる「斐伊川」の扇状地や三角州の上にあります。 もともとここは出雲平野の東にある宍道湖が西の海まで続ていた細長い「中海」だったところ。 「斐伊川」はその海に大量の土砂を運び、扇状地として埋め立ててしまったのです。
そしてその埋め立てて作られた扇状地は、今は開発されて水田と散居集落の広がる「出雲平野」となり、埋め立てられずに残った部分が宍道湖として現在の姿になったのです。

出雲平野と屋敷林

■左曲がりを右曲がりにすることで、ヤマタノオロチは退治された?

さてこの出雲平野をつくった「斐伊川」は映像でご紹介したように「八岐大蛇」にも例えられた大変な暴れ川。
すぐに氾濫して洪水を起こすだけでなく、頻繁に川筋を変えるために、それこそ出雲神話で語られる時代から、この地域で生活をする人々にとっては常に大きな問題となっていました。 このために「斐伊川」には記録に残っているものだけでも、古くは奈良時代にはじまり、そして平成となった現在においても治水のための土木工事が行われています。
そのもっとも大きい工事が江戸時代の初期に行われた「川の掛け替え工事」(川の流れを変える工事)
それまで中国山地から流れ出し、日本海側に向かって左・西側の日本海に流れ込んでいた「斐伊川」を、逆の右側、東にある「宍道湖」に流れ込むように、途中で180度方向転換させる大工事が行われました。
こうした先人達の努力によって、斐伊川はようやく川筋が安定。 今までの川の氾濫原であった湿地帯に多くの新田を作ることが出来ようになり、現在の散居集落が並ぶ美しい景観が作られるようになったのです。
もし出雲神話の「八岐大蛇」話が実は「斐伊川」の氾濫を暗喩するストーリーだったとすれば、この暴れるおろちを本当に退治したのは「スサノオ」ではなく、これら江戸時代の人々だっただったのかもしれません。

出雲平野と屋敷林

■散居集落という景観はなぜできた

美しく広がる水田と屋敷林。例えば日本三大散居村である「砺波平野」(富山県)「胆沢平野」(岩手県)そしてこの「出雲平野」の散居村の景観を写真などで見比べると、よく見ると屋敷林の形などに違いはあるのですが、非常によく似ていることに気がつきます。
ふるさとに生きる 岩手編「結いがはぐくむ郷土の原風景」Part1 では岩手県の「胆沢の散居集落の様子」をご覧になれます。
それはこうした散居集落の環境とその成立の過程が非常に似ているからなのです。

まずこうした場所の多くが川の作った扇状地や氾濫原であったことです。
例えば「胆沢平野」では「胆沢川」「砺波平野」は「庄川」の扇状地。 扇状地というと、山間部に比べフラットで広い場所があり、川という水源も近いために、水田を作るには最適のように思えます。
ところが「斐伊川」の例にもあるように、扇状地とはまさに川が気まぐれに流れを変え、運んできた土砂を広げてつくった土地。 このために、川は常に洪水や氾濫の危険をはらんでいて、水田を作るどころか定住するにも不向きな土地が多かったのです。 またこうした場所は、土が水を通しやすく常に水不足になってしまう場所や、逆に信濃川の氾濫原のように水が多すぎるために深い泥に覆われてしまう場所など、いずれにせよ人が堤防などで川の流れを制御し、用水路や排水路などを整備しなければ水田として活用出来ない荒れ地が多かったのです。

こうした土地が本格的に開墾されたのは江戸時代初期でした。
この時代にはそれまでの戦乱の世の中が一段落し、また大きな土木工事を行う技術も発達していたため、日本全国で新田開発が盛んになっていきます。
そんな時代の中で各地の「藩」が一大プロジェクトとして扇状地の大規模な灌漑治水事業を実施。多くの農民を入植させ新田を作っていったのです。
まさに散居集落の多くもこうした開拓地であったことが大きなポイントとなりました。 通常狭い日本の土地利用はその権利関係が複雑になり、勢い複雑な境界線を引くことになります。
しかしこうした新たな開拓地ではこうした複雑な関係が少ないために、自宅周辺に自分の水田を配置するという、農家にとって合理的なレイアウトがとれるようになりました。
またこうした地域の農民達はさらに利便性を高めるために、積極的に互いの土地を交換したり、買い取ることで、自分の家の周りの耕作地を増やしていったために、隣家との間隔がさらに開き、自然と今の散居集落の景観ができあがっていったのです。

出雲平野と屋敷林

■散居集落のミニ里山「屋敷林」

もう一つ、散居集落の特徴とも言えるのが「築地松」が印象的な出雲平野の屋敷林。他にも、各地にはそれぞれ特徴的な屋敷林が散居集落に存在しています。 例えば、「胆沢の散居集落」には「エグネ」と呼ばれる屋敷林があり、「砺波平野」の散居集落には「カイニョ」という屋敷林があります。

ふるさとに生きる 岩手編「結いがはぐくむ郷土の原風景」Part1 では岩手県の「胆沢の散居集落の様子」で、この地域の屋敷林である「エグネ」をご覧いただけます。

屋敷林はもともと風の強い地域で多く見られます。
平地が広がり、さらに住居の間隔が開いている散居集落でも、季節風などから住居を守るものが周りにないために、防風林が必要でした。
また扇状地ゆえに川の氾濫など水害から屋敷の土地を守るためにも有効。こうした防災面で屋敷林が作られたのです。 また燃料としての枝、肥料としての落ち葉、家を建て替えるときの木材、果樹を植えて食料の補給にもなるなど、生活資源を得るためにも屋敷林は非常に重要です。
実はこれは一般的な農村に見る「里山」の機能。散居集落のような広い水田が広がる地域では、それぞれの農家が「ミニ里山」とも言うべき「屋敷林」を持つことで、地域の環境と資源を守っていたのです。

Part3 アマテラスでも破れないしめ縄の力(8分13秒)
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9:26~16:16 しめ縄づくり
16:17~17:41 架け替え
アマテラスでも破れないしめ縄の力

■アマテラスでも破れない「しめ縄」の力

神社はもとより、正月の「しめ縄飾り」など現在でも意外に見る事の多い「しめ縄」にはどんな意味があるのでしょう。
しめ縄の由来として一番多く語られるのが「古事記」と「日本書紀」で語られる「天岩戸」のストーリーです。
ご存知のようにアマテラスの弟であり、かつ「大国主」の祖先でもある「スサノオ」があまりに天界で暴れるので、怒ったアマテラスが天岩戸に引きこもってしまったというあの逸話です。
結局「アマテラス」は「アメノウズメ」の踊りに誘い出されますが、誘い出された後に、もう一度岩に戻っていかないように張られたのが「しめ縄」(尻久米縄)。
「古事記」では「フトダマ」という神様が単独で「日本書紀」では「フトダマ」と「アメノコヤネ」が協力して「しめ縄」を張っています。
つまり神の中の神である「アマテラス」でも突破できない境界線が「しめ縄」なのです。
しかし、たった1本の縄にどうしてそこまでの力があると、古代の日本人は考えたのでしょうか?

アマテラスでも破れないしめ縄の力

■しめ縄は蛇パワー

一説によるとそれは日本古代の「蛇信仰」にルーツがあると言われています。
つまり「しめ縄」は蛇の姿なのです。
古代の人々は人をも殺す毒蛇の力やその脱皮をして生まれ変わっていく生命力に魅せられたのです。
また田畑の害獣である鼠を食べてくれることもあって農業の守護神としての役割も感じるようになったと言います。 また性的なシンボルに形が似ていることから豊穣の神としても認識するようになります。 こうしたことが重なり合い「蛇信仰」が生まれたのです。 そして生まれたのが「しめ縄」。
これは2匹の蛇が絡み合い交尾する姿。蛇は1日以上交尾する生殖パワーを持っています。 その形を再現することで、計り知れない力を得ようとしたのが「しめ縄」なのです。

アマテラスでも破れないしめ縄の力

■大国主も蛇だった。

実は「大国主」も、もともとは「蛇神」であっと言われています。
奈良大和・三輪山にある日本最古の神社の一つといわれてる「大神神社」は「三輪山」そのものがご神体で本殿をもたないという古神道のありようを今に残している神社ですが、ここにまつられているのは「大国主」の分身である「大物主神」(オオモノヌシ)。
三輪山は「大物主神」が三重のとぐろを巻く姿だと言われています。 そもそも出雲大社でも「神在祭」で海から上がってくるの神々を先導するのは「龍蛇神」であり、それは「大国主」の姿だともいわれています。
また「大国主」の子どもで「国譲り」の時に諏訪に逃れた「建御名方神」(タケミナカタノカミ)が主祭神である「諏訪神社」には生きた蛙を神への供え物とする神事が行われています。
このように出雲とそこにいる神々は「蛇」とは非常に深いつながりがあるのです。

「大国主」の本質は「農業神」・「豊穣の神」・「繁殖=結びの神」という性格をもった神様。まさしく古代から弥生期までのいにしえの日本人がイメージする「蛇神」です。
出雲大社ではしめ縄と蛇の関係にはことさらには言及していませんが、こうした神であればこそ、あの美しく巨大で力強い「しめ縄」がふさわしいのかもしれません。

Part4 神在祭兼行も悩んだ神無月(2分34秒)
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17:42~18:17  稲佐の浜
14:42~16:15   神在月、出雲大社、神迎祭、神楽殿
神在祭兼行も悩んだ神無月

■兼行も悩んだ「神無月」

映像でご紹介したように『旧暦10月には日本の神はその所在を離れて出雲にむかってしまうので「神無月」、逆に出雲では「神在月」という』と言われています。
この言い伝えについては、少なくとも平安時代の文献に、こうした言い伝えが民衆の間で広まっていることが書かれていますので、かなり古い時代から言い継がれてきたことはまちがいありません。
しかしその由来がどこで、どのように始まったのかは、実ははっきりはしていないのです。
例えばあれほど多くの大国主の逸話をのせていた「古事記」や「日本書紀」をはじめとして、その後の歴史書にも、こうしたことに関する記録はなく、そもそも「神在祭」を主宰する出雲大社をはじめとした出雲の多くの神社にも、その由来については多くを語っていないのです。
当然こうした言い伝えが広まることについては昔から多くの人々が疑問を持っていたようで、例えば鎌倉時代「徒然草」を書いた吉田兼好も、その「徒然草」の二百二段でこの話題をテーマに話を展開しています。 吉田兼好は本名「卜部兼行」。卜部氏はもともと占いを専門におこなう氏族で、その後朝廷の神祇を管理することを代々勤めてきた家系。後に神道に非常に大きな影響力を発揮する「吉田神道」を生む「吉田神社」の神職を勤めてきた家系でもあります。また自身の父親もその吉田神社の神職であったと言われています。 ですから関連する書物を見る機会も多くあったはずですから、その話にはかなり信憑性があります。 まず兼行はその中で「神無月は神がいないので祭事を慎まないといけないというけれど、そんなことを言っている書物も文章もない」と言います。そもそも「神無月」の意味づけそのものに疑問を呈します。
次に「この月に神々が伊勢に集まるという説もある」と書いています。そうです。鎌倉時代当時、神無月に神が集合するのは「出雲」だけでなく「伊勢」という説もあったということになります。たしかに「国を譲らせた」アマテラスの伊勢に神が集まるということも十分考えられるので、この時代にはまだ少なくとも出雲はまだ神が集合する場所として絶対的な評価を勝ち取っているわけではなかったのかもしれません。
そして「もし集まるとするのなら、何かしら祭祀が行われなければおかしいではないか」ともいいます。つまりこの時代には少なくとも兼行が知る限り「神在祭」というような祭祀は行われていなかったと推測できるのです。
つまり、 『神をまつる側には「神無月」という自覚も決まりもなく、もちろん祭りもないのに、なんで世間がこんなに騒ぐのだろう』と言うのが兼行の趣旨。
こうしたことを踏まえると、どうもこれは庶民が神社などに先行して世間に流行らせた「民間伝承」がその発端であった可能性が非常に高くなってくるのです。

神在祭兼行も悩んだ神無月

■「神無月」は神のいない月じゃない?

現在その「神無月」という意味にも単純に「神がいない月」という解釈には疑問がつけられています。むしろ「神の月」という意味で、その「の」が連体助詞「な」になり、そこに当てられた漢字の中で「無」が主流になってしまったのではないかというのです。旧暦6月の「水無月」もまた「水の月」が変化したもので、同様だと言われています。
しかしこの水無月があったのも誤解を生む原因になったかもしれません。
旧暦の6月はちょうど梅雨の終わった時期。 読んで字のごとく「水がない月」という感じにぴったり。となれば当然「神無月」も「神がいない月」というように思うのが庶民の感覚だったのでしょう。
更に言えば「農業」はもちろん、全ての生活に「神」の存在が欠かせない時代ですから、 庶民にとって神がいなくなるというのは大問題。 きっと「いったい神は何処へ行ったんだ!」 「その間私達はどうすればいいんだ?」といった不安や心配ともに神に対する疑問が渦巻いていたはずです。
こうした人々の不安や心配に応じたのが出雲の神様達だったのではないでしょうか。

神在祭兼行も悩んだ神無月

■気がつけば出雲の神様で日本はいっぱい

しかし神様がいなくなって、どこかへ行くとなると、それなりの納得感が得られるだけの背景をもった場所でなくてはなりません。となるとやはり日本では「アマテラスの伊勢」か「大国主の出雲」が候補地。
事実「徒然草」にあるように「伊勢集合説」も一時は存在していたようですし、なんといっても「最高神」という位置付けの神様ですから「集合」場所としては一番納得感があります。
それではなぜ出雲がその中で勝ち残ったのでしょう。
これはあくまで推測ですが、ここでもこの逸話が民間伝承から来たという点がポイントであったと思われます。 神が一時期いなくなるには理由が必要ですがその理由を庶民としては「里帰り」あるいは「墓参り」的なイメージを想像したようなのです。
日本の神々はそのルーツによって「天津神」(あまつかみ)の系統と「国津神」(くにつかみ)の系統に分けられると言います。「天津神」はもちろんアマテラスを中心とした高天原系の神様。国津系はその高天原から先におりた「スサノオ」とその子孫達を中心にしたグループです。
日本のこうした神道系の神々は明治時代「アマテラス」を中心に国家神道が展開されたために、「天津神」の系統の神が中心であるような印象がありますが、本来は「スサノオ」とその子孫達の系統であったり、独自に系統をもつ神社は非常に多いのです。
例えば「伏見稲荷神社」を中心とする「おいなりさん」は「スサノオ」の子「宇迦之御魂神」(ウカノミタマ)。
比叡山の守護神となり、後に徳川の氏神になった「日枝神社」の大山咋神(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)は「スサノオ」の子「大年神」の子ども。
そのまた子どもである「賀茂別雷大神」 (かもわけいかづちのおおかみ)は京都の上賀茂神社の主祭神。
九州「宗像大社」や広島「厳島神社」にまつられているのは「スサノオ」の剣から生まれた「宗像三女神」田心姫(たごりひめ)湍津姫(たぎつひめ)市杵嶋姫(いちきしまひめ)の三姉妹。
もちろん「大国主」は「スサノオ」の6代あとの孫。「大国主」はさきほどの「宗像三女神」の田心姫(たごりひめ)と結婚しています。
またこの大国主にも子どもが多く、「えびすさま」とも言われる「事代主」諏訪神社の「建御名方神」(たけみなかたのかみ)もその子ども達。というように数え上げると切りが無いのですが、一説によると6割以上がこうしたスサノオから出てた系譜につらなる神になると言われています。
時代がさかのぼると平安時代では、全国にある一宮(その地域第一の神社)66カ所の内、この大国主やその系列の神様を主祭とする神社だけでも20カ所あったということですからさらに多かったことが推測されます。 つまり、日本の多くの神にとって出雲こそが自分たちのルーツであり発祥の場所。ここに戻り、親戚の神々と集うことはごくごく自然なことに思われたのだと思います。
逆にこれが「伊勢集合」だとすると、今で言えば「買収された子会社が呼びつけられる本社会議」といったどこか権力にへつらうイメージですからあまりよくありません。ですから自然と出雲へ帰る神様という話が広まっていったのだと思われます。

こうした期待に応えるように出雲側もそれにあわせて環境を整えていきます。
例えばこのあと「ぜんざい」の発祥地として映像に出てくる「佐太神社」は現在出雲大社に続く由緒と格式を持つ二の宮。本来は「佐太御子大神」をまつる神社でしたが、中世になって伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみ)を一緒にお祀りすることになります。
実はここがポイント。
伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみ)は「スサノオ」の両親。日本の神の創始ともいえる神様のカップルです。 特に伊弉冉尊(いざなみ)は日本の神の母として「日本国母神」とい呼ばれるだけなく、その美称(ほめるときの呼び名)を稜威母(イズモ)といい、これが出雲の地名につながったと言う説もあるほど出雲とは縁の深い神様。墓地も出雲にあると言われています。(当時はその墓が佐太神社の裏にあるとも言われていました)。
さらに旧暦10月は伊弉冉尊の亡くなった月。 だとすれば八百万の神々は毎年この月になると佐太神社に集まり母神を偲ぶ祭りをするべきではないかと・・・実はどうも佐太神社にこうしたことをアドバイスした人達がいたようです。
それが「卜部氏」そう吉田兼好も卜部氏でしたね。吉田兼好が徒然草を書いてから約100年後「卜部氏」は「古事記」・「日本書紀」「先代旧事本紀」などを基本に仏教や儒教そして陰陽道などをミックスした「吉田神道」を確立。勢力を伸ばしていき、朝廷や幕府の支持を受けて、ついには全国の神社・神職を配下におくようになります。つまり中世から近世にかけて実質的に八百万の神々の管理者になった一族なのです。
また「吉田神道」は神社がお寺の仏教の上に立つ「反本地垂迹説」 (当時は神社にまつられている日本の神々は、お寺の仏が化身した姿で、本来は仏が神の中心であるとする考え=「本地垂迹説」が主流、ともすれば神社はお寺の付属施設的な役割になっていました。これに対して逆に仏も日本の神が化身した姿で、本来は日本神道が中心にならなくてはいけないというのが「反本地垂迹説」です。)を取ったこともあり、日本の神道全体の強化を大きなテーマにしていました。
このため、通常の神社がそれぞれ縁起のあるいくつかの神に限定したお祀りを行うのに対して、日本では非常に珍しく『日本の神々全てをお祀りする所』である「斎場所 大元宮」を作ったりしています。
つまり「日本の全ての神」をとりまとめる上でも、こうした神事が必要だったのかもしれません。
そこで佐太神社ではもともと旧暦10月にその年の収穫物を神に捧げる「新嘗祭」を行っていましたが、これをもとに現在の「神在祭」を行うようになったというのです。

神在祭兼行も悩んだ神無月

■出雲大社は結婚の相談

佐太神社が神様のご先祖まいりなら、こちらは結婚のための親族会議で・・・と考えたのかどうかはまったくわかりませんが、出雲大社では神様がお集まりになり、結婚の相談をするということになっています。
これは先ほどもご説明したとおり、スサノオにしても大国主にしてもそれぞれがたくさんの神と結婚し、たくさんの神を生んでいます。またその子ども達の神も、またたくさんの神を生んで各地に散らばっていくのです。 つまり婚姻は、神様達にとってお互いの地位を確認し、認め合い、そして高めることが出来る、重要なファクターでありイベントなのです。
だからこそ出雲大社の「神在祭」がそれを理由に挙げるのは、他の神様や神社にとっても意味があったのです。

また出雲大社の神在祭には、その配下の「御師」の存在もわすれてならないでしょう。
「御師」については次のコーナーで解説していますが、「御師」はもっとも活躍した江戸時代では現地の宿泊・飲食サービス、お参りの手配と、こうしたサービスをセットしたパック旅行のセールスを行う総合旅行サービス業的なものになっていきます。
当時は「伊勢参り」「富士講」といったメジャー級の「御師」から「松尾」「白山」「大山」など各地の有力寺社からも「御師」が活動を行っていますから、それなりのセールストークが必要です。
そのとき「神のいない10月、神のいる出雲へ行こう!」はかなりキャッチーなフレーズ
(もちろんこんな直接的な言葉が普及したわけではありません)多くの参拝者を獲得したといわれています。

Part5 出雲そばと御師(2分41秒)
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20:18~22:17 出雲そばとぜんざい
22:18~23:00 佐太神社の神在もち
出雲そばと御師

■秀吉と出雲大社の御師

「出雲そば」は江戸時代から出雲大社などの参拝客に対する門前の名物として親しまれてきました。
こうした名物ができるということはそれだけ参拝者があったということ。 江戸時代すでに出雲大社は伊勢神宮などと並ぶ庶民の「お参りツアー」の人気スポットだったのです。
こうした庶民の「お参りツアー」をコーディネートし宿や参拝の手配をするのが「御師」という人々。映像で紹介されている「荒木屋」さんも江戸時代から続く「出雲そば」の老舗ももともと出雲大社の「御師」だったといいます。

御師は平安時代、当時皇族や貴族階級の間で盛んに行われていた「熊野詣」で、現地での宿泊や祈祷の世話をする役割の人々。当初は一回限りの現地サービスが主体でしたが、次第に、その参拝者との結びつきを強め、後の「檀家制度」的な会員制システムを導入することで、その会員である「檀那」を集めるための「集客宣伝活動」もするようになっていきます。
御師は鎌倉・室町時代と時代とともにその対象を「武家」や「農民」にまで広げていきますが、なんと言って爆発的な流行現象となったのは江戸時代。「伊勢参り」や「富士講」など「神社仏閣お参りツアー」が庶民の人気レジャーとなりますが、それを支えたのもこうしたお参り先の御師でした。

出雲そばと御師

さて出雲大社も御師が広く畿内などへ出向いて参拝客を集客していくのですが、そのきっかけになったのが豊臣秀吉でした。
もともと出雲大社は平安時代には天皇家との結びつきも強く、広大な神社領を持っていたこともあって、時代が変わっても財政的には安定していました。こうした、裕福な神社の所領に目をつけたのが豊臣秀吉でした。1590年頃、秀吉は朝鮮出兵などで出費も多く、財政を安定させる必要がありました。そこで行われたのが「太閤検地」。
「太閤検地」の主な目的は土地の所有者を明確化することにより、税の収入を安定させることでしたが、当然寺社領のように前の時代から残っている旧荘園などの私有領を減らしていくという意図もあっと思われます。実際この時期に多くの寺社が所領を半減されたという記録があり、出雲大社もその命からは逃れることができずに非常に財政的に苦しい状況に追い込まれたと言います。
そこで出雲大社がとったのが「御師」による布教宣伝活動だったのです。

出雲そばと御師

こうした御師達がひろめたのが「大国主」=「大黒天」(だいこくさま)のイメージ。
もともとヒンドゥー経の最高神シヴァの化身「マナーカーラ」が密教につたわり「大黒天」となりますが、それが日本に伝わって「大国主」が「だいこく」と読めることから混同され、いつしか一つの神と思われるようになりました。 そもそも本来の「大黒天」は「破壊と豊穣」といった二つの側面を持つ神様。
日本ではその「豊穣」の面だけが残り、またそこに「出雲神話」因幡の白ウサギで登場した時の袋を担ぐ姿が重なり、いつしか現在の七福神で袋を担ぐ「大黒様」になっていきます。
出雲大社の御師達はこうしたわかりやすいイメージを上手く使いながら(実際に出雲大社では「大国主」が「大黒様」であるとは言っていないのですが)布教勧誘活動をおこない、江戸時代には数多くの参拝客を集めたのです。

Part6 柿(3分11秒)
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23:01~23:20 宍道湖
23:22~26:16 干し柿 畑地区
26:17~29:03 平成の大遷宮、エンディング
柿

■昔の柿はみんな渋柿ーー柿と干し柿の歴史

「柿」は現在でも「みかん」「りんご」に続く第3位の栽培面積を誇る、日本を代表する果物です。(平成26年 果樹及び茶栽培面積農林省 農林水産統計より)
もともと中国原産の「柿」は日本においては弥生時代以降の遺跡から種が出土することから、その時代に持ち込まれたといわれています。
その後、奈良時代の 「正倉院文書」や平安時代「延喜式」といった文献に「柿」の購入記録がたびたび登場。また平安時代を代表する歌人「柿本人麻呂」も名前の由来は自宅に植えてあった柿の木に由来すると言われていますから、日本人にとっては、その時代から現代に至るまで、非常に長く人々に親しまれ続けてきた果実と言えるかもしれません。
さて、柿に「甘柿」と「渋柿」があるのはだれでもご存じのことと思いますが、今では当たり前の「甘柿」は鎌倉時代まで存在せず、すべては渋柿でした。
甘柿は鎌倉時代に神奈川、現在の川崎市麻生区にある王禅寺で突然変異で生まれた「禅寺丸柿」が最初と言われています。(このいわれをもとにこの寺院の近くは明治になってから柿生村という地名になり、その地名は現在も小田急線の駅名として残っています)

柿

■甘柿が出来ても渋柿が残ったのは

こうして「甘柿」が発見されると、現代の感覚では加工しなくては食べられない「渋柿」は一掃されて日本中「甘柿」だらけになりそうですが、実は甘柿の生産が盛んになったのは明治時代以降。それどころか現在でも全国の出荷量ベースでは「渋柿」が「甘柿」を数万トン上回っているのです。(農林水産省/作況調査・果樹生産出荷統計)
もちろん現在では「渋柿」の渋ぬき技術もドライアイス(炭酸ガス)による渋抜き法など、非常に進化しているために、こうした方法で渋を抜き「甘柿」として出荷されるケースも増えています。(今回映像でご紹介している干し柿のもとになる「西条柿」をこの方法で渋を抜き「甘柿」として出荷している産地もあります)
しかしこうした傾向はもちろんごくごく最近になってからのこと。
「渋柿」には「甘柿」にはない様々なメリットがあったため容易に作付け転換されずに現代に至っているのです。

柿

■渋柿の渋こそアンチエイジングの切り札

「渋柿」の「渋」のもとは「タンニン」。
まさにこのタンニンの存在こそ、人々が渋柿を決して捨て去ることなく、むしろ大切にしてきた大きな理由の一つとなりました。

まずそのタンニンの効用の一つとしてあげられるのが「生薬」としての役割です。
昔から柿は「柿が赤くなると医者が青くなる」といわれ、明の時代の中国の薬学書「本草項目」などにも柿の高い薬効が数多く記載されてきた果物です。
その数々ある柿の薬効成分の中でも「タンニン」はアルコールを分解する作用で「二日酔い」に効果があるとされるほか、タンパク質を固める効果もあり、やけどなどの治療薬として。また血圧の上昇を抑える作用もあり、中国では「干し柿」を古来から高血圧薬としていただのです。

そして最近注目されているのが、タンニンのアンチエイジング効果です。
実はタンニンは老化を早める活性酸素を抑える抗酸化物質として今アンチエイジングの切り札とされる「ポリフェノール」の結合体。
ポリフェノールというと「赤ワイン」や「緑茶」が良く話題となりますが、柿渋に含まれるタンニンはその100倍ともいわれているのです。

柿

■柿渋は防水や防虫コーディング剤?

それだけではありません。タンニンを主体とした「渋柿」は実は日本人の生活の様々なシーンを支えてきました。
それが「渋柿」をその実から果汁を搾り、発酵させて作る「柿渋」という液体です。
この液体には「防腐作用」「防虫作用」「防水作用」など様々な利用価値がありました。
そこで木材建築や漆の下地塗りに使用したり、紙に塗って防水剤として「和傘」などに使用、さらに防虫効果を狙って家具に塗ったり、珍しいところでは防腐効果をねらって「ミイラ」に塗るなど、現代で言う「コーティング剤」として様々な場面で活躍していたのです。
残念なことに現代ではこうしたコーディング剤は安価な化学合成組成の製品に置き換わってしまい、使用されることが少なくなってしまいました。
しかし最近ではこうした効果に加え雑菌などの繁殖を抑える「防菌効果」が新たに発見されるなど、その効果が見直されるだけでなく、100%天然素材の安全安心な素材として再び注目されてもいるのです。

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