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Vol.19 歴史が息づく日光 自然に寄り添う営み ―栃木県―

歴史と世界遺産の街、栃木県日光。そこには無形民俗文化財に指定されている「弥生祭」や日光東照宮の「春季例大祭」といった古くから伝わる行事の他、精進食として伝わった日光ゆばや日本一の生産量を誇るイチゴなど数多くの名産品とともに、伝統を大切に守り続ける人々の姿があります。

Part 1 栃木県の概要と農業(1分54秒)
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0:00~1:54 プロローグ~歴史が息づく日光 自然に寄り添う営み~ 栃木県編
プロローグ~丘の恵みに彩られた 果樹王国の四季~ 山梨県編

関東地方最大の大きさを誇る「栃木県」

●面積・地形・気候

茨城県や群馬県とともに北関東を構成する栃木県。
面積は6,408 ㎢で全国第20位。関東地方では、最も面積の広い県です。
地形的に、南部は関東平野の北端にあたり平坦な土地ですが、北部は奥羽山脈の南端にあたり、那須岳や男体山・日光白根山などの火山や、標高2000メートルを超える日光連山など、関東地方でも屈指の山岳地帯となっています。
その気候は、南部では夏多雨多湿・冬少雨乾燥という関東地方全般に見られる「太平洋側気候」。北部には山岳地帯があるため、夏になると山岳部に温かい風が当たり、多くの積乱雲が発生します。その影響で非常に多くの雷が発生することから、栃木県は「雷銀座」とも呼ばれています。さらに、冬は西高東低の冬型配置になり、今度は山岳部で雪を降らしたあとの冷たい乾燥した風が山から吹き下ろすことでも有名です。 北部の山岳地帯では、より冷涼な「山岳気候」となっています。

プロローグ~丘の恵みに彩られた 果樹王国の四季~ 山梨県編県編

●栃木県の農業

栃木県の平成26年の農業産出額は、2,495億円。都道府県別の順位は9位という農業県です。
日本最大の消費市場である首都圏に属し、中心となる東京からもさまざまな高速交通インフラが90分から2時間でつながっている栃木県。従来は平野部での米の生産が主体でしたが、現在では首都圏への出荷を視野に入れ、野菜を中心とした「園芸農業(需要の高い野菜・果実・花きを栽培)」へシフト。今ではこの農業形態が、栃木県の農業全体の4割を占めるようになり、園芸生産額では全国14位、東京都中央卸売市場における野菜・果物の取扱金額では第6位となるまでに成長しています。
しかし、同じ首都圏の農業県「千葉」「茨城」はそれぞれ全国の園芸生産額で2位と3位。こうした県に比べると、まだかなりの差があるのも事実です。

プロローグ~丘の恵みに彩られた 果樹王国の四季~ 山梨県編県編

特にこれらの県は、県の特産品ともいえるような産出額100億円を超える野菜を数多く持っていますが、栃木県でこの生産額を超える野菜は「イチゴ」「トマト」の2品目のみ。つまり、首都圏から近く関東一の広大な面積を持つという農業立地のメリットを生かし、まだまだ成長が期待できます。
「米」などの主食穀物の需要が減り、農業の国際化が進んでいる現在の市場において、国内農業は、鮮度で勝負できる野菜の生産に力を入れていかなければなりません。
こうしたことから、現在栃木県では「とちぎの園芸活力創造総合推進事業」を創設し、積極的にこうした市場の変化に対応できる、園芸主体の次世代農業への転換に取り組んでいます。

Part2 日光は広大な山岳宗教エリア(4分36秒)
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1:55~3:11 春 日光二荒山神社、弥生祭
3:12~5:19 日光ゆば
5:20~6:29 東照宮 春の例大祭、流鏑馬
桃栽培の歴史

日光といえば、多くの人が「東照宮」をはじめ、「いろは坂」「華厳滝」「中禅寺湖」「男体山」など、関東有数の観光地を思い浮かべることでしょう。
しかし本来の日光は、関東でも有数の山岳宗教エリアとして歴史的にも文化的にも発展してきたエリアなのです。
ここでは多くの人が観光地とイメージする日光の、もう一つの顔ともいうべき山岳宗教エリアという側面にスポットを当ててみましょう。

桃栽培の歴史

その前に、まず日本人の宗教観と「山」が、どのように結び付いてきたのかを知ることが重要かもしれません。

実は日本の宗教は、そのほとんどが山と関係しているといっても過言ではありません。そもそも日本の古代の宗教は、山を崇拝することから始まったといわれています。
縄文時代までは、山は狩猟採取の重要なフィールドで、恵みをもたらす大切な場所。そこから、山への信仰が生まれました。
そして米作中心の「弥生時代」になると、山は水田に必要な「水」をもたらす「水の神」となり、また豊作をもたらす「田の神」が住む場となります。
さらに「田の神」は祖先の霊と結び付き、山は家や村を守る、身近な神の住む場所となりました。

このため柳田國男などの民俗学者は、お正月に家にやってくるという「年の神」も、お盆に帰ってくる「祖先の霊」も、ともに山から下りてくる神様だとしています。

桃栽培の歴史

古墳時代から大和朝廷の時代も、三輪山などに代表されるように、山は神の住む場所とされており、多くの神社が山そのものを「ご神体」として祭っています。
また、仏教が日本に伝来したとき、ルーツとなった中国の仏教も、有名な「五台山」に代表されるように、信仰の中心を「霊山」に置いていました。
そのため山で修行をし、悟りをひらくというのが日本でも仏教の基本となりました。 最澄は「比叡山」に延暦寺を建て、空海は「高野山」に金剛峯寺を建て、修行の地にしたことは誰もが知っていることでしょう。そのほかにも各地の山が修行の場所になり、また修行の場である山そのものも神聖な場所とされています。

そして、こうした場所で修行をした人が山を下り、村や町で加持祈祷などを行ったのが「修験道」の山伏といわれる人たちです。
江戸時代には豊穣祈願などは地域の神社で、お葬式はお寺で行い、身近な祈祷は山で修験した人に頼むという、祈りのスタイルが定着しています。
さらに江戸時代中期以降になると、今度は一般的な庶民までがこの神聖な山に登り、参拝するようになりました。
これが「富士講」「大山講」などに代表される、「講」と呼ばれる霊山参拝が目的の「お参り団体ツアー」です。実際には「物見遊山」の観光ツアーでしたが、これが大ブームになることで、山は日本人にとってさらに重要な祈りのエリアとして定着していったのです。

Part3 日光は広大な山岳宗教エリアその2(7分48秒)
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6:30~7:30 イチゴ
7:31~12:12 夏 イチゴ農家、山上げ栽培
12:13~14:18 鶏頂山 高冷地でのホウレン草栽培
山梨のブドウ栽培

それではこの日光周辺が、どのように日本有数の宗教エリアとして発達していったのでしょうか。ここではその歴史をひもといてみましょう。

まず、この日光を宗教エリアとして開山したのが「勝道上人」という人物です。勝道上人は今の栃木県である「下野」で、生まれは735年とされていますので、奈良時代のこと。「下野薬師寺」で得度受戒した僧です。
彼が仏の境地にいたる悟りを開くために選んだ場所が、日光の男体山。目的はその頂上に登ることでした。
もともと男体山はその噴火の力で中禅寺湖を作ったように、古代から巨大な力を秘めた「山」として、山岳信仰の対象にされていたそうです。
また男体山は、奈良時代、仏教の重要な観音菩薩の浄土伝説がある山「補陀落山」と同じ名前が付けられていました。その背景から、勝道上人にとっては、ぜひともこの山に登り、観音菩薩に近づきたいという思いがあったのでしょう。
こうして勝道上人の男体山登頂の挑戦が始まりますが、上人が登頂に選んだ時期は、まだ雪の残る早春のころ。
これは、釈迦が生前に「雪山童子」という名前で雪山修行をしていたという、故事にのっとっていたため……といわれています。

山梨のブドウ栽培

しかし、もともと男体山の高さは2000メートル以上もあり、優れた登山装備もない時代、このような高山に登るのは、たやすいことではありません。
767年に行われた最初の登頂は失敗。ただし、このときに「華厳滝」や「中禅寺湖」を発見したといわれています。
そして14年後の781年にも挑戦しますが、また失敗。
翌782年、3度目の登頂でようやく成功したといわれています。
この後、勝道上人は中禅寺湖周辺で寺を建て、数年間修行を続けたのですが、これによって日光は開山されました。そして開山がきっかけとなり、日光は現代まで続く仏教を中心とした一大宗教エリアになっていったのです。
映像でご紹介している「二荒山神社」も、日光のもう一つの核である「輪王寺」も、ほぼこの時代に出来たといわれています。
そしてこうした神社仏閣のある男体山の麓から、中禅寺湖、男体山の頂上に至る広いエリアが「日光山」という大きな宗教エリアとなり、修行や祈りの場として整備されていったのです。

山梨のブドウ栽培

ところでこうした「ものの起源」にまつわる故事は、とかく史実というよりは伝説に近いものが多いのですが、この勝道上人の男体山登頂については、かなりしっかりとした資料が残っています。
なんとそれを書いたのは空海・弘法大師です。
空海にはその弟子が空海の書いた詩文を集めた『性霊集』(正しくは『遍照発揮性霊集』)があります。
この中に「沙門勝道山水を歴て玄珠(げんじゅ、悟りを求める心)を瑩く碑並序 沙門遍照金剛撰」という碑文があり、これがまさに勝道上人の、男体山初登頂のレポートになっています。
ここでは勝道上人の登山経緯を記録するだけでなく、まるで空海が同行密着取材をしたようかのように、勝道上人が登山中に見たであろう、山頂からの景色や中禅寺湖の美しさなどを描写しています。
そもそも、勝道上人本人は、こうしたことを書き残していません。そのためこの碑文が空海の空想の産物であるという可能性も否定できません。が、空海は、勝道上人とほぼ同時代に生きた人物です。
その時代、日光がすでに神聖な宗教エリアであるという認識が、空海が住んでいる「京」にまで広まっていたことは間違いありません。

山梨のブドウ栽培

この後日光山は、地元の豪族からの庇護を受け、鎌倉時代になってからは鎌倉幕府の庇護も受けるようになり、さらにたくさんの寺や神社などが創建され、大いに栄えます。
しかし、戦国時代、日光山は小田原の北条氏に与し、所属する増兵を北条側に派遣します。
このような行為が秀吉の怒りを買い、北条氏亡き後、日光一帯の領地は没収。
一時期、日光は大きく衰退してしまうのです。

Part4 日光を救った天海と東照宮(6分58秒)
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14:19~15:39 華厳の滝、中禅寺湖
15:40~17:35 二荒山神社 登拝祭
17:36~20:46 男体山の麓、戦場ヶ原 イチゴ
甲州のブドウ

豊臣の時代に衰退した日光を、再び関東の一大宗教エリアとして復活させたのが、徳川家康に重用された僧「天海」です。
この天海、その前半生ははっきりせず、いつのまにか徳川家康の参謀ともいわれるような重要な役割になっていました。そのため、もともと徳川家康と好意だった明智光秀が本能寺の変後、逃げ延びて、僧の姿で家康に仕えたという説まである人物です。
彼はなんと100歳以上も生きて、家康亡き後、三代将軍家光に仕えていました。まさに怪物ともいえる、謎の多き人物です。
この天海、もともと天台宗の僧ですが、単に経を唱える僧というよりは、修験道などの加持祈祷や占い、陰陽道などに長けていたようです。
実際、彼は天台宗比叡山に伝わる神道の流派「山王神道」を自ら発展させて、「山王一実神道」という独自の宗派を作り出しているのです。

甲州のブドウ

ところで徳川家康にはもう一人、家康の側近として「以心崇伝」という僧がいました。こちらは室町幕府の幕臣である、一色秀勝の次男にあたります。
以心崇伝は室町幕府が滅亡した後に僧になり、37歳の若さで臨済宗五山派の最高位・南禅寺270世住職になった、誰もが認めるエリート中のエリートです。
家康に招かれてからは、家康の外交や内政に対して大きな発言力を持ち、「禁中並公家諸法度」や「武家書御法度」など徳川幕府の根幹となる法律なども作っている、博識の学僧でした。
まさに天海とは「陰と陽」正反対の存在。
以心崇伝が表向きの政治の場で活躍するのに対し、天海はその加持祈祷や占いの能力を通じて、家康の精神的な部分を支えていたのではないでしょうか。

甲州のブドウ

さて、天海のこうした能力が生かされたものに、江戸の街作りがあります。
京に平安京が作られたときもそうでしたが、都の造成の基本には、陰陽道の考え方をもとに方位方角を決め、街作りの設計を行いました。
この中で特に重要視されたのが、災いをもたらす鬼が入ってくる「鬼門」がある北東の方角です。そして、邪気の通り道の「裏鬼門」がある南西の方角への対応でした。
例えば平安京では鬼門の方角を比叡山延暦寺に守らせ、裏鬼門の方向に石清水八幡宮を配置して守らせています。

江戸の街作りで、こうした部分を担当したのが天海です。
天海は北の方角に上野の寛永寺を作り、また南の方角に芝の増上寺を作り江戸の街を災いから守ろうとしました。

しかし、天海はそれだけでは満足しません。
実は江戸周辺には平将門の乱で破れ、処刑された平将門が各地に祀られていました。
この平将門、日本で三大怨霊の一つともいわれ、平安時代から現代に至るまで、その怨念話には事欠きません。
有名なのが、大手町に今もある平将門の首塚。そして神田明神にはその胴体……といった具合に、体の一部や身につけていたものを祀っているところが数多くあったのです(一説には神田という地名は、将門の「からだ→かんだ」から来ているともいわれています)。
天海は、平将門が持つ、呪術的な霊力をも利用しようとするのです。
そして将門に関する「塚」や「神社」を主要な街道の入り口などに移設させ、その力で悪霊が入り込むことを防ごうとしました。
今でも、ぞんざいな扱いをすると悪いことが起こるといわれている平将門でさえ、恐れずに利用してしまう天海。彼が単なる「僧」ではなく、非常に強い修験者的な能力を誇っていた証拠といえるでしょう。

甲州のブドウ

そんな天海にとって、どうしても欲しかったのが、日光山貫主の座ではなかったのでしょうか。
平安時代から戦国時代まで、関東有数の霊場として長く山岳信仰の中心地であった日光山は、豊臣の時代に秀吉にその所領の大部分を取られてしまい、没落の中。
有力な勢力もない、新しい宗派「山王一実神道」の拠点としては、まさにもってこいの場所だったのです。
さらに天海は江戸幕府の中で、日光山によって自分の地位・権力を確固たるものにするための企みがありました。
家康は1616年に死去。
天海が日光山貫主の座を得たのは、家康が死去する3年前のことです。
その際に残されていたのが、
 「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌(いはい)は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請(かんじょう)せよ、そして関八州の守りとなろう」という家康の遺言でした。
この中で「久能山」とは家康の生まれ育った駿河の地。「増上寺」と「大樹寺」はともに徳川・松平の菩提寺なので、極めて自然なのですが、問題は最後の部分です。
なぜかそれまで、家康とは縁もゆかりもない日光に、最後は移して祀るようにという、一文が付け加えられていたのです。これはいかにも唐突で不自然です。
やはりこれには、日光山貫主の座を得た天海の意志が強く反映されているとしか思えないのです。実際、この件では先ほどご紹介した以心崇伝が、その不自然さに疑問を呈しています。
以心崇伝は、家康が室町時代から神道の主流であった「吉田神道」で久能山に埋葬され、そのまま祀られるものと考えていました。
天海が勝手に作り出した、よくわからない宗派である「山王一実神道」で、さらに天海のテリトリーである日光で祀るなどということが許されるとは、思ってもみなかったのです。
実際、二人の間で激しい論争もありました。しかし、そこは人の心を動かすことにかけては、一枚も二枚も上手な天海です。
あらかじめ第二代将軍秀忠を味方に付けており、逆に以心崇伝が一時、幕閣から遠ざけられてしまう事態を引き起こしています。

こうして日光山は江戸時代、天海のもと「山王一実神道」を中心とした多数のお寺や神社とともに、家康を「東照大権現」として祀る「東照宮」を持つ、日本でも有数の宗教エリアとして再び隆盛していくのです。

Part5 日本の天然氷はボストンから(1分48秒)
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20:47~22:35 秋 日光東照宮 平成の大修理、陽明門の修復
甲州ワインビーフ

今回ご紹介している日光の天然氷。
日光で天然氷が作られるようになり、一般の人々に販売されるようになったのは、明治時代になってからのことです。

冬に氷を作り、それを氷室に保管して夏に食するということは、平安時代から行われていました。
例えば『枕草子』にも、削り氷に甘い汁をかけて食べる、まさに現代の「かき氷」を食べる記述が出てきます。
しかし氷を溶かさずに保管や移動させるには、相当な手間暇がかかります。
そのため、これを食したり利用したりできたのは、皇室や幕府の権力者など、本当にごく一部の人たちのみ。氷の生産自体、ごくごく限られた場所で作られるだけでした。生産数も本当にわずかで、もちろんほとんど庶民の口に入ることはありませんでした。

氷が一般的な人々に流通するようになったのは、幕末に日本が開国されてからのこと。
最初に大量の氷を使用したのは、横浜などに居住する外国人の医師たちでした。
すでに当時の外国人たちは、医療や食糧の保存に氷を使っており、日本にもこうした生活のスタイルや文化を持ち込んだのです。

甲州ワインビーフ

しかし、当時の日本では、こうした外国人たちの需要を満たせるだけの氷を生産できるところはありませんでした。彼らはその氷を、どうやって入手していたのでしょう。

実はその氷は、遠くアメリカのボストンから運ばれていたのです。
その頃、すでにアメリカでは、氷の天然氷の大量生産が始まっていただけではなく、それを大型蒸気船で運び、世界へ運搬する専門の人々がいました。
ペリーが日本へやってきて、日米和親条約が結ばれた1854年頃には、アメリカではすでに年間で15万トン近い氷を生産。さらにアメリカ国内だけでなく、カリブ海やヨーロッパ、果てはアフリカ喜望峰を回って、インドなどにも運んでいたのです。
そしてなんと日本にも、半年以上の時間をかけて氷を運んできました。もちろん、氷を冷やし続ける冷蔵庫などない時代です。
アメリカで作られた氷が、現在のインド・カルカッタ(現在のコルカタ)へ運ぶまでに、4割は溶けてしまったということですから、日本に至るまでにはさらに半分以下になっていたかもしれません。
しかし、それでも日本で細々と作られる氷などとは比較できないぐらいの大量の氷が、日本に運び込まれるようになったのです。

甲州ワインビーフ

とはいえ、地球を4分の3周もしてくる氷です。ボストン氷は日本人にとっては、相当高価なもの。庶民が買える値段ではありません。
そこで、この氷を日本で作って普及させたいと考えた日本人が出てきます。
それが「中川嘉平兵」という人物です。
彼は大変なアイデアマンで、ベンチャー魂を持っていました。いち早く牛乳の販売を始めたり、東京に初めて牛鍋の店を作ったりと、さまざまな事業に挑戦しています。
しかし氷の販売事業は、始めてみるとそう簡単ではありませんでした。
1861年、中川嘉平兵は、富士山麓の富士川沿いの鰍沢で100トンの氷を作り、横浜へ送ります。
しかし、この試みは大失敗。
その原因は輸送にありました。100トンもあった氷は、横浜港に来るまでに溶けて、たった8トンしか残っていませんでした。
この失敗により、彼は現在の金額に換算すると約4億円もの借金を抱えることになります。

甲州ワインビーフ

実は氷を作ることは、そう難しくありません。寒冷で水質の良い場所は、日本にもたくさんあるからです。
問題は、消費地である東京などの都会に、大量の氷を溶かさずに、どうやって運ぶかということでした。
ボストン氷の場合は、アメリカ東海岸のカナダに近い寒冷地の川で採氷し、それをすぐさま保管して、使用する時は大型汽船で運搬していきます。
また中継地点にも氷用の倉庫を用意するなど、氷を溶かさず効率的に運ぶシステムができ上がっていました。
しかし、当時幕末から明治のはじめにかけては日本ではまだ鉄道網はなく、輸送はもっぱら陸上では馬や牛、あるいは河川で小舟を使っての船便でした。
沿岸の港まで運べばある程度大型の船も使えますが、そこまでに運ぶまでにも相当な手間暇と時間がかかります。中川嘉平兵の場合も、富士山麓で作った氷を馬に乗せて静岡の江尻港に運び、そこから帆船で横浜に運びましたが、夏の静岡からの運搬です。氷のほとんどが溶けてしまったのも無理のないことでした。
それでも中川嘉平兵は諦めません。
氷を作って、何とか溶けずに運べる場所を探し、「諏訪」「日光」「榛名湖」「釜石」「青森」と、日本を北上しながらチャレンジを続けますが、これもすべて失敗。
そして1869年(明治2年)、ほとんど最後のチャンスをかけて挑んだ場所が「函館」でした。
当時の函館は、箱館戦争の最終年。榎本武揚率いる旧幕臣達が函館で「蝦夷共和国」独立を目指し、新撰組の生き残りである土方歳三などとともに新政府との戦闘を繰り広げている最中でした。
しかも氷の生産は、その榎本たちが立てこもる「五稜郭」のお堀で作るというのです。いったい誰が、こうした荒唐無稽な計画を考えたのでしょう。
しかし氷を作る五稜郭は、大型船で積み出しの出来る函館港からわずか3.2キロしか離れていません。歩いても行ける距離にあります。

甲州ワインビーフ

良質な氷が大量に作られ、簡単に海へ積み出しができるこの場所は他にはない、と確信した中川嘉平兵。まず榎本武揚に掛け合い、お堀での氷生産許可を取ると、今度は新政府側の北海道開拓使である黒田清隆からも、ここでの採氷権を取り付け、果敢に事業に挑戦します。
そしてついに、500トンの氷を横浜に送ることに成功したのです。
その後、着実に氷の生産量を増やした中川嘉平兵は、これを「函館氷」とネーミングし販売することで、瞬く間に「ボストン氷」を日本から駆逐し、ビジネス的にも大成功したのです。
この成功を見て、日本各地で天然氷の生産が一気に始まりました。
映像でご紹介している日光の天然氷も、このころから数多く事業化され、明治22年当時ではこの「五稜郭・函館氷」よりも安く生産できるようになっていきました。

こうして急速に天然氷の生産と販売は日本に普及し、一大ビジネスへと成長するのですが、その隆盛はあまり長くは続きません。
というのも、1887年(明治20年)には早くも東京で最初の機械氷が作られるようになったからです。
機械氷は遠い産地から氷を運ぶ必要がなく、またいつでも作ることができるので、保管の手間もありません。
さらに天然氷よりも安く生産できるため、瞬く間に天然氷の市場を奪ってしまい、天然氷ビジネスは早くも終焉を迎えてしまいました。

ところでこの後、中川嘉平兵も早々に機械氷へ転換し、さらに事業を拡大していきます。
そしてその会社は形を変えながら、今でも続いています。実は冷凍食品で有名な(株)ニチレイこそ、中川嘉平兵の興したその会社の現代の姿なのです。

Part6 イチゴの系譜 日本のイチゴのルーツは新宿御苑に(10分21秒)
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22:36~25:47 冬 日光天然氷
25:48~26:52 イチゴの収穫
26:53~27:21 各所の雪景色
27:22~29:53 天然氷の収穫
29:54~32:57 エピローグ
鳥居平柏尾山大善寺

日本でも1、2を争う繁華街「新宿」。
そこから歩いてわずか十数分の場所にある「新宿御苑」は、春には桜の名所として、秋には菊を鑑賞する菊花壇展が開かれるなど、大都会の中の花の名所として有名です。
実はこの新宿御苑が、私たちが食べているイチゴのふるさとだということを知っていますか?

今回、映像でご紹介しているイチゴは栃木の「とちおとめ」。そして「とちおとめ」と並ぶ人気を誇るイチゴに、九州の「あまおう」があります。
現在、私たちが食べているイチゴのほとんどは、実は明治時代に日本で作られた一つの品種をルーツに生まれたものです。
そしてそのイチゴが生まれたのが、新宿御苑なのです。

鳥居平柏尾山大善寺

もともと日本にも、「ヘビイチゴ」のような野イチゴの類はありました。しかし現在、私たちが食べているイチゴは江戸末期、オランダ船によって日本へ持ち込まれたものでした。

この時代、すでにヨーロッパでは、イチゴは味や色、形をよくするための品種改良が始まっていました。
このような影響を受けて、日本でも明治時代に、海外からイチゴの種や苗を輸入し、栽培する試みが行われていました。

こうした栽培に着手した場所の一つが、新宿御苑だったのです。
新宿御苑は、この新宿に屋敷を構えた「信濃高遠藩内藤家」の下屋敷でした。明治になり、一度は明治政府の農業振興を目的とした内藤新宿試験場になります。
この試験場で実習生として学んでいたのが、「福羽逸人」という人物でした。彼はここで学んだ後、内務省の農事修学所に勤務。その後、農業関連の要職を歴任し、日本の園芸に関する第一人者になります。
1896年(明治29年)には宮内庁の式部官を兼務。ちょうど宮内省に移管された内藤新宿試験場の跡地、現在の新宿御苑のもとになる「新宿植物御苑」の掛長になり、そこで整備や造園を任されるようになりました。

ここで彼が手がけたのがイチゴの栽培です。フランスから取り寄せたジェネラル・シャンジー種の種子を、この新宿御苑で育て、さらにその中から大きな実が付いたものを選んで栽培しました。
1899年、早生で冬の間から形の良い長紡錘型の実を付ける品種を作り出すことに成功し、自分の名前を取って「福羽」と命名しました。
当時日本では、ヨーロッパから輸入された「ヴィクトリア」というイチゴが栽培されていましたが、1921年頃からは、「福羽」がそれに取って代わるようになります。なんと太平洋戦争の後、1950年代まで日本イチゴ生産の大半がこの「福羽」だったのです。

鳥居平柏尾山大善寺

さらにこのイチゴは、その後の日本におけるイチゴ栽培にとって大変重要な役割を果たすことになります。
「福羽」は、戦後、イチゴの品種改良が盛んになると、その元になる品種として、使われるようになったからです。

例えば1960年代から1970年代にかけて、日本で主力の品種として栽培された「はるのか」。この品種も「福羽」からできた「久留米103号」と、アメリカの品種「ダナー」を掛け合わせたものです。
次に、この「はるのか」をもとにして、1990年代の代表品種となった「女峰」や「とよのか」が生まれます。
さらにこの「女峰」や「とよのか」と、いくつかの品種を掛け合わせて作られたのが、現在栃木県の代表品種となった「とちおとめ」です。
そして「とちおとめ」と並ぶ高級イチゴブランドに成長した「あまおう」も、「とよのか」の系統として2000年代に登場しました。

このように日本で栽培されている多くのイチゴは、そのもとをたどれば、必ずどこかで新宿御苑生まれの「福羽」にたどり着くことになるのです。

福羽逸人はこの後、新宿御苑の改修をおこない、「日本庭園」、「イギリス風景式庭園」、「フランス式整形庭園」が組み合わされた現在の新宿御苑の原型を創り上げ、最後はこの庭園の苑長に就任しています。
まさに福羽逸人こそが新宿御苑の父であり、日本イチゴの父でもあるのです。

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