岩手県

03.田植えの季節。胆沢平野の農業用水、茂井羅堰と寿安堰

田畑を潤す農業用水

Vol.05

Ep.03

かつて苛烈な水争いが頻発していたとされるこの地には、4本の用水路が開削されました。最も古いもので奥州藤原氏の三代目・藤原秀衡の家臣・照井三郎による「穴山(あなやま)用水堰」。そして室町から江戸初期にかけて、「茂井羅(しげいら)堰」「寿安(じゅあん)堰」「葦名(あしな)堰」が造られました。中でも今なお重要な役割を担っているのが、茂井羅堰と寿安堰です。

茂井羅というのは女性の名前で、元亀年間(1570〜1573年)、北郷茂井羅が胆沢川から水を引くことを提案し、自ら人夫を率いて工事を行い2年で完成させました。村人たちは「男も及ばない」と感嘆し、この用水に茂井羅の名を冠したといいます。

一方の寿安堰は、伊達政宗の家臣としてこの地を開拓した後藤寿安によるもの。諸国放浪中に洗礼を受けキリシタンとなった人物で、寿安という名はJohannes(ヨハネ)の漢字表記です。

また、円筒分水は、この寿安堰と茂井羅堰が胆沢川から直接取水していた時代の水争いを解消した、胆沢平野の米作りのシンボルでもあります。