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Vol.25 未来に繋ぐ人々の想い ー愛知県ー

愛知県は、天下統一へ導いた戦国時代の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を排出した歴史ある土地。そして現代では繊維産業から自動車、重化学工業まで、幅広く日本の製造分野を支えるエリアとなりました。しかし、そこはまた全国第8位(平成28年度)という農業産出額を誇る、全国有数の農業県でもあるのです。

Part 1 愛知県の農業の概要(5分16秒)
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0:00~5:16 プロローグ 愛知の歴史と八丁みそ
愛知県の概要

愛知県は、製造品出荷額が昭和52年以降全国第1位を誇り、トヨタや三菱重工など、日本を代表する自動車や機械メーカーなどが集まる工業県です。
しかし、こうしたイメージが強いせいか、愛知県が全国第8位(平成28年度)の農業産出額を誇る全国有数の農業県でもあるというと、驚かれる方も多いのではないでしょうか。

愛知県にはもともと木曽川・矢作川・豊川の豊かな水と、濃尾平野に代表される平坦な土地があり、古来より農業の盛んな地域でした。
また明治から昭和にかけて、数々の農業用水が造られ、さらに多くの農地が開墾されることによって、現在に至る日本有数の農業地帯として発展したのです。
例えば、現在愛知県の耕地面積は76,900haで、全国で16番目の広さ。県の総面積は516,943ha(全国27番目)ですから、じつに総面積の15%を農地が占め、総農家数は 73,833戸(全国第6位)で、年間農業産出額は全国第8位の3,063億円(2015年の数値)を誇ります。
作目別に見ると、「花き」は全国第1位、「野菜」は第4位、「麦類」は第7位。他にも、「乳用牛」「豚」「鶉卵」などが全国順位で上位を占めています。

愛知県の概要

こうした愛知県の農業の特徴は、生産性・収益性が非常に高いことです。 例えば、愛知県の農家1戸当たりの平均耕地面積は103.3a。これは全国平均の207.5aと比べると約半分ですが、耕地10a当たりの生産農業所得は全国第6 位の151 千円で、全国平均の1.8 倍の金額です。
また、農産物販売金額が1,500 万円以上の販売農家数は、北海道に次ぐ全国第2 位の3,974 戸と、収益性の高い農家が多いことが分かります。
こうした背景には、特に農業産出額の高い花きや野菜などの園芸部門を中心に、施設を活用した生産性・収益性の高い農業を実施していることがあります。

この「ふるさとに生きる 愛知県編 未来に繋ぐ人々の想い」では、こうした野菜や花きを中心に、愛知県の農業の今と、そこに生きる人々をご紹介します。

Part2 碧南のニンジン (6分05秒)
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5:17~11:21 碧南のニンジン
碧南のニンジン

現在ニンジンは、「北海道」「千葉」「徳島」などが主な産地ですが、愛知県も出荷量では全国第7位。なかでも、11月から翌年3月までを主な出荷時期として生産される「冬ニンジン」は、千葉県などにつづく第3位の出荷量を誇ります。
その愛知県の中でもっとも多くニンジンを作っているのが、今回映像でご紹介している「碧南市」です。
碧南市は名古屋市から40㎞圏内にあり、愛知県のほぼ中央に位置しています。ニンジンが作られているのは、この地区の南部、矢作川沖積層からなる砂地の平坦地。
愛知県で生産されているニンジンの約7割は、ここで作られています。

碧南のニンジン

そもそも愛知県では、大正末期頃から県内各所でニンジンが生産されていました。当時は現在より短い3寸型の系統が主で、碧南市周辺でもこの短いタイプのニンジンが作られていたようです。
その後、各地でこの短いタイプの中から大きく育つものが選別され、栽培されるようになり、地域独自のニンジンが生まれるようになります。

碧南のニンジン

こうしたなか、碧南の地で生まれたのが「碧南鮮紅5寸ニンジン」。現在では、県の伝統野菜に指定されています。このニンジンは、その名の通り色鮮やかなオレンジで見た目も味も良く、収量性も高いことから、この地域は昭和42年、「冬ニンジン指定産地」として認められ、愛知のみならず中部地域を代表するニンジン産地になっていきます。

碧南のニンジン

さらにこの碧南鮮紅5寸ニンジンを改良し作られたのが、今回ご紹介している「へきなん美人」という品種です。
へきなん美人は碧南鮮紅5寸ニンジンの持つ特徴に加え、甘みが強くて味も濃く、形状やそろいも良いニンジンです。特にスーパーなどの流通市場での評価が高く、さらに生産量が拡大しています。

Part3 「日本のデンマーク」と呼ばれた安城市の農業(4分14秒)
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11:22~15:35 「日本のデンマーク」と呼ばれた安城市の農業
「日本のデンマーク」と呼ばれた安城市の農業

映像でもご紹介をしている安城市。
この地域は大正10年から昭和15年頃まで、農業先進国のデンマークをなぞらえて「日本のデンマーク」と呼ばれていました。

なぜこの地域は、「日本のデンマーク」と呼ばれていたのでしょうか?
その歴史は、明治初期頃までさかのぼります。当時この地域は「安城が原」という、洪積台地が広がる広大な荒れ地でした。
そもそも愛知県は、濃尾平野が大部分を占め、ここには木曽三川(木曾川・長良川・揖斐川)などの川によって作られた沖積平野と洪積台地が広がっています。川が運んだ堆積物でつくられた沖積平野部分は早くから農地として利用されてきましたが、一方で河川段丘などがある洪積台地は、水利が不便ために開発が遅れていました。
この安城が原の周辺にも矢作川という川が流れていました。ところが、川岸から一段上がった標高30~50mに位置する洪積台地だったため、この高さまで水をくみ上げることができず、明治初期頃までは荒地の状態が続いていました。

「日本のデンマーク」と呼ばれた安城市の農業

しかし、この近辺の農家がこうした状況を打開するために動き出します。
まず、幕末に和泉村(現在の安城市和泉町)の豪農・都築弥厚(つづきやこう)が、矢作川上流の越戸村(現在の豊田市)から30kmにも及ぶ用水の開削を計画しました。
しかしこのときは、用水の途中にある村の農民などから反対を受けます。どうにか5年もの歳月をかけ測量図を完成させたものの、都築弥厚が病没してしまったことで、この計画は中止になってしまいました。
その後も何度か計画はされたものの、実施までには至らず……。
ようやく明治5年に愛知県ができ、こうした計画の有効性が認められ、明治12年、用水の建設工事が着工されます。
そして明治17年、やっとの思いで現在の「明治用水」が完成しました。

「日本のデンマーク」と呼ばれた安城市の農業

この用水によって安城が原は劇的に変化します。
それまで2,000haほどだった水田は、明治40年には4倍の8,000haに拡大。また、広大な水田地帯に生まれ変わるだけでなく、明治30年代に入ると、農会(第二次世界大戦前の主要農業団体の一つ。農事改良を目的とした組織)が結成され、愛知県立農林学校や愛知県農事試験場などの施設が、次々とこの地に開設されることとなりました。

「日本のデンマーク」と呼ばれた安城市の農業

そして、こうした団体や施設の指導のもと、当時としては先進的な農業改良や農業指導が、積極的に行われます。
例えば、水田での米作に偏った農業ではなく、畜産、野菜栽培、園芸などをあわせて行う多角経営農業の展開です。用水は自然の河川に比べて水量の調節が簡単で、耕地に供給する水の量をコントロールできます。そのため、水田から水を抜き畑にすることで、米だけでなく野菜作りや酪農といった、さまざまな用途に転用することができたのです。
さらには、農産物の販売や肥料などを共同で購入するなどといった方法も取り入れられました。

こうした歴史と環境が、安城市を「日本のデンマーク」を呼ばれるような農業産地に育て上げていったのです。

Part4 渥美半島 田原市 電照菊の歴史(4分58秒)
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15:36~20:33 渥美半島 田原市 電照菊の歴史
渥美半島 田原市 電照菊の歴史

愛知県の主要農産物でもある「花き」。
その中でももっとも生産量の多いものが、映像でご紹介している「電照菊」をメインとした菊です。 なかでも渥美半島のほとんどの面積を占める田原市では、全国で流通している菊の約四分の一の量を生産するなど、全国最大の菊の生産地です(2011年の数値)。

もともと愛知県周辺では、200年ほど前から菊の生産が行われていたようです。
現在の電照菊のように、光を当てることで開花時期を早めたり遅らせたりする技術を最初に試みたのは、第二次世界大戦に日本が突入する前の1939年。渥美半島の付け根に当たる渥美郡牟呂吉田村(現・豊橋市北島町)が、最初だったといわれています。
当時はまだ電気の供給が十分でなかったため、電球での栽培ができず、屋台などで使われていたアセチレンガスで照明するアセチレンランプが使用されていました。
実際に電気を使用した電照菊が始まったのは、戦後の1947年。渥美郡伊良湖岬村(現・田原市)の小久保英男(こくぼひでお)と藤井縫次(ふじいぬいじ)によって実用化され、これ以降、菊の電照栽培が本格化したといわれています。
しかし、すぐにこの電照菊栽培が渥美半島全域に拡大したわけではありません。

渥美半島 田原市 電照菊の歴史

細長く海に突き出た渥美半島にはこれといった川もなく、水はため池や地下水・天水に頼らざるを得ないような土地柄。
さらにこの地域は、通常の農作物には不向きな強い酸性の土壌でした。もちろん水がないので米は作れず、比較的荒れた土地でも収穫できるサツマイモでさえも満足に実らない土地だったのです。 そのため、多くの農家は満足に育てられる作物もなく、何度も大きな干ばつの被害を受けるなど、大変な貧困にあえいでいました。
電照菊の栽培技術が完成しても、この地にはそれを行えるだけの環境がそろわず、戦後もなお農家は貧困状態から脱することができなかったのです。

渥美半島 田原市 電照菊の歴史

この状態を解消させたのは、1968年に全面通水した豊川用水でした。
この地域に用水を引く計画は、大正時代から存在していました。特に渥美半島出身の愛知県会議員 近藤寿市郎(こんどうじゅいちろう)は、こうした渥美半島の現状を憂い、愛知県や国に対して積極的な働きかけを行います。
しかし、この計画はなかなか受け入れられませんでした。
というのも、渥美半島の近くには水源とするだけの水量をもった川がなかったのです。
たしかに渥美半島の付け根にある豊川市には、その名前にもなった「豊川」が流れています。
しかしこの川は、愛知県を流れる木曽川や矢作川に比べて川の長さは約3分の1、流域面積は約7分の1と圧倒的に小さく、水量が圧倒的に足りませんでした。
そのため、近藤寿市郎の計画では水源を豊川にせず、ダムのような巨大な溜池を「鳳来寺山」に造り、渥美半島の先まで水路を引こうと考えました。
しかしその開発予算は莫大で、国家予算を使ってもなお実現が難しかったため、実現しませんでした。
その後も渥美半島に用水を引く計画は何度も検討されるのですが、戦争や財政難から実現しません。 ようやく実施が決まったのは、戦後の1949年のこと。
国営事業として豊川上流に宇連ダムを建設することがきっかけで、「豊川農業水利改良事業」として「豊川用水」が着工されることになったのです。
そして念願の用水が完成したのは、さらにその20年後の1968年です。
この用水が完成することで初めて、渥美半島の各地に安定的に水が供給され、土地改良や大規模な生産基盤の整備が可能になりました。
そして菊栽培用の温室団地などが造成されるようになり、ようやくこの地域で菊栽培が拡大していったのです。
じつは今回映像でご紹介している田原市は、平成26年から28年まで3年連続、市町村別農業産出額全国1位に輝いています。
痩せた土地で日照りなどの災害に悩まされ、貧困にあえいでいたこの地域は、豊川用水と電照菊のおかげで、いまや全国でもっとも農業生産力がある地域になったのです。

渥美半島 田原市 電照菊の歴史

ところで、電照栽培があったが故に、全国的に広まったものがあります。
それはお葬式用の白菊です。
最近はお葬式の形態も多様化していますが、少し前までお葬式の祭壇を埋めているのは白菊でした。 しかしこのお葬式に白い菊を使う習慣は、必ずしも昔からあったものではありません。 なぜなら、季節によって白菊は咲いておらず、その場合は他の色の菊を使うしかなかったのです。 つまり電照栽培で、菊の開花をコントロールし白い菊をどんな季節でも咲かせ、販売できるようになって初めて、白菊はお葬式の花となったのです。

Part5 ペコロス産地 知多市日長地区(10分30秒)
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20:34~31:03 ペコロス産地 知多市日長地区
ペコロス産地 知多市日長地区

「ペコロス」は直径5㎝以下の一口玉ねぎです。
甘味が強く、一般的なタマネギの糖度が9度程であるのに対して、その糖度は11度。高級食材として料理の付け合わせに使われるほか、カレーやシチューなどに入れ丸ごと煮込むのによく利用されます。
かつてはこの映像でご紹介をしている愛知県知多市日長地区が、全国生産量の7~8割のペコロスを生産し、市場をほぼ独占していました。しかし現在では、北海道北見市などでの生産も増えており、この二つの産地で市場を二分するようになってきています。

現在ペコロスは、専用品種として販売されている品種もありますが、基本的には一般的なタマネギと同じものです。
普通のタマネギをより少ない肥料で、10倍程度過密状態で育成し、食用になる球根の部分の成長を抑えることで作り出されています。
しかしペコロスの栽培は、このように通常の10倍程度過密状態で育てるが故に、細かい作業が多く機械化ができません。
そのため、栽培には普通のタマネギの何倍もの労力や手間暇がかかるといわれています。
また高密度での育成は、ベト病や腐敗病などが発生しやすいという欠点もあり、なかなか難しい作物なのです。

ペコロス産地 知多市日長地区

さて、このペコロスの栽培ですが、なぜ知多半島で始まったのでしょうか。
一説には大正時代、外国船の船員からもたらされたという話もありますが、実際には1919年頃、この地域に住む佐野爲左ヱ門(さのためざえもん)が、新しく栽培する作物を探していたとき、名古屋の伏見の西洋料理に使う高級野菜を扱う八百屋から、レタスやパセリなどと一緒に将来有望な高収益作物として、ペコロスを紹介されたのが始まりといわれています。
もともと知多半島は、明治から一般的なタマネギが栽培されていたこともあって、佐野爲左ヱ門はすぐペコロスの栽培を行おうとしましたが、はじめはなかなか商品になるような小さなタマネギができなかったようです。
数年間の試行錯誤の末、ようやく販売できるペコロスができるようになり、やがてその技術が日長地区に広まりました。

ペコロス産地 知多市日長地区

こうして大正時代から昭和初期に始まった、日長地区のペコロス栽培。
地元の中京圏ではほとんど売れませんでしたが、洋食のレストランが多い東京や関西では高値で売れたため、次第にこの地域で栽培する人が増えていきます。
特に知多半島も渥美半島のように水不足に悩まされていましたが、1961年に愛知用水が通水されることで解消します。
こうしたことで、さらに生産者が増え、1980年代には100戸以上の農家で700t以上生産されるようになりました。

こうして順調に生産量を増やしてきたペコロスですが、その後急激に生産量を減らしていくことになります。
その要因はやはりペコロス栽培の難しさです。
前述のようにペコロスは密生させて栽培します。このためにどうしても病気に弱いという問題を抱えていました。さらにこの地域では、栽培用の種子を自家受精させて作っていたために、こうした病気などに対する免疫力が、世代の更新により弱まってしまう問題を深刻化させます。そのため、次第に生産量は減少。さらに、他の作物に比べて何倍も手間暇がかかることもあって、知多市の多くの生産者がペコロス栽培から撤退。後継者も育たなかったため、2010年代には生産者も20戸を切り、生産量も30~60t程度にまで減少してしまいました。

しかし、ペコロスの商品価値がなくなったわけではなく、知多市のペコロス生産量の減少をうめるように、北海道産が増えてきています。

ペコロス産地 知多市日長地区

こうした状況を受けて、地元の日長ペコロス生産組合を中心に、知多市日長地区が育て上げてきた特産品・ペコロスを再興しようという機運が高まっています。
この映像でご紹介している近藤さんもその一人。
知多市日長地区では、この近藤さんたちを中心に、自家受精を繰り返し、遺伝的に弱くなった品種の改良を行うなど、日長地区のペコロスを再興させるさまざまな試みが始まっています。

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