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Vol.23 伝統に育まれた美し国 ―三重県―

日本人の心のふるさととも呼ばれている伊勢神宮はじめ、そこで古より脈々と続く、行事や祭りの数々。また真珠の養殖や米・お茶・松阪牛。伊勢型紙作りの伝統の技・・・。三重県は、日本を形作る様々な魅力に触れることができる場所、「 美し国(うましくに)」なのです。

Part 1 三重県の概要(2分6秒)
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0:00~2:06 プロローグ~伝統に育まれた美し国~ 三重県編
三重県の概要

●三重県の概要

三重県は日本のちょうど中央部、太平洋側に位置する、東海地方の一番西側、紀伊半島の北東部に位置する県です。
県土は、東を伊勢湾と熊野灘、西を鈴鹿山脈と紀伊山地に挟まれ、東西に約80キロメートル、南北に170キロメートルと、南北に細長く伸びているのが特徴です。

その面積は5,774㎢、全国25位。
人口は182万人で全国22位と、県の規模としては全国でも中位ですが、一人当たりの県民所得は全国6位と、「大阪」や「京都」などの関西圏の府県を上回る順位です。
これは、県の北中部、四日市市や鈴鹿市などが、日本最大の製造出荷額をほこる中京工業地帯に含まれ、化学製品・自動車・電機製品などの大規模な工場が数多く存在しているためで、平成24年の全国の生産額(製造品出荷額)でも、三重県は全国第9位。製造業の従業者数も、全国第3位と日本有数の工業県になっています。

こうした北中部に対して、南部は伊勢神宮や真珠の養殖などで有名なリアス式海岸の広がる志摩半島など、日本の歴史的な伝統文化や自然が豊かで、この環境を生かした観光産業が盛んな県でもあります。

気候は、東側が海に面しており、暖かい黒潮の影を受けることから、温暖な太平洋側気候に分類されます。また、南部の熊野灘沿岸はこうした南からの湿った空気が背後の紀州山地にぶつかって雨を降らせるために、日本有数多雨地域としても知られています。

三重県の概要

●三重県の農業

三重県の農業算出額は平成28年で1,107億円、全国31位。東海地域でも最も少ない産出額です。
従来、三重県の農業は県北中部に広がる「伊勢平野」を中心とした米作が中心でした。
しかし、近年こうした地域にはさまざまな工場が建設され、農業従事者は貴重な労働力として雇用されたために兼業化が進み、加えて農業従事者が高齢化することで、米作を中心とした農業はさらに減少する傾向にあるのです。
また、本来近畿圏と中京圏という大消費地域の間に位置することから、こうした地域の農家は、大都市圏での野菜需要に応えるために、米作から野菜作りへの転作が積極的に行われる傾向があります。
しかし、このような事情から三重県ではあまり野菜への転作が進まず、野菜の生産も増えていません。
このため三重県の農業産物の割合は、現在でも品目別に見れば米が24%でトップですが、以下2位:鶏卵14.7%、 3位:肉用牛7.9%、 4位:豚5.6% 、5位:生乳5.2%と畜産業が続き、すでに畜産業全体では米を上回る規模に。野菜はトマトがようやく10位:2.1%と、ミカンやお茶の生産量よりも低くなっています。
そんな中、三重県内で全国的な規模の産出を誇っているのが「茶」です。
三重県のお茶の生葉の生産量は12,900トン。これは静岡、鹿児島に続く第3位 。日本有数のお茶の生産地です。

これに対して、東側が全面海に面している三重県では水産業が盛んです。
その生産量は全国8位、漁業従事者の数も全国4位、漁船数3位。カツオの一本釣り業も2~3位。養殖業も盛んで真鯛の養殖3位、真珠の養殖3位、ノリやカキの養殖も7位と、それぞれ全国有数の規模を誇っています。

Part2 御田植祭(2分54秒)
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2:07~4:00 志摩市磯部町 伊雑宮御田植祭
御田植祭

●御田植祭

最初に映像でご紹介するのは「伊雑宮」で行われる「御田植祭」です。
伊雑宮は伊勢神宮の別宮の一つ。
伊勢神宮は単に一つの神社でなく、天照大御神を祀る「内宮・皇大神宮」と食物・穀物を司る豊受大御神を祀る「下宮・豊受大神宮」の2社が中心となる「正宮」と、この「正宮」と関わりの深い神を祀る「別宮」が14社。さらに関連する「摂社」「末社」「所管社」が109社。これら125社を含めての総称が「伊勢神宮」となります。

この別宮のひとつが「伊雑宮」。
ほかの別宮が伊勢市内にあるのに対して、ひとつだけ遠く志摩にあることから「遥宮」(とおのみや)とも呼ばれています。
その起源は古く、伊勢神宮を創建したといわれる「倭姫命」が、伊勢に立ち寄る前に志摩立ち寄り、この土地に住んでいた「磯部氏」に造らせたのがこの「伊雑宮」といわれています。
この「磯部」という名前は古事記では海人・海女など磯で魚介類を取る人々のことを指し「伊勢部」とも書き表していますから、これがこの周辺の伊勢という地名の起源につながっていったのかもしれません。
またこうしたことから伊雑宮こそ伊勢神宮の最初の姿だという説も古くからあり、江戸時代には実際にこうした説を唱えた本が出版され、禁書になる事件も起こっています。実際の起源は定かではありませんが、どちらにせよ伊勢神宮の正宮にも劣らない、むしろその前からこの地域の守り神として祀られていた可能性の高い、由緒ある神社が「伊雑宮」です。

御田植祭

ところで、この御田植祭はどのようにして始まったのでしょうか?
伊勢神宮の重要な別宮である伊雑宮ですから、いかにも伊勢神宮に関連する祭りのようにも思えます。
しかし、この祭り、実は伊勢神宮の正式な祭には含まれません。
したがって伊勢神宮ではこの祭のことを「伊雑宮御田植式」とよび、年中行事のイベントの一つとしています。

伊勢神宮には神嘗祭をはじめとして、お米を中心に五穀豊穣を祈願する祭りが数多く催されています。
田植えに関しても、「神田下種祭」という、神に備えるための米を育てる「神田」に種をまく祭りが行われます。
実は、伊勢神宮の神嘗祭などで神に捧げられるのは、この神田で神官によって清浄に育てられたお米だけ。
伊勢神宮には日本各地から稲が奉納されますが、こうしたお米は神前には供えられないのです。

御田植祭

では「伊雑宮の御田植祭」は、誰のための田植祭りなのでしょうか。
それは日本に古くからある「田の神」への祈りから始まったものと思われます。
日本では、山にいる神が春になると山からおりてきて田の神になり、そして収穫が終わると山に帰って再び山の神になると考えていました。
そのため、田植えには山の神が田におりてきてもらう必要がありました。この神様におりてきていただくために行う祭りが、こうした田植祭りの原型です。
日本各地では、こうした田の神を「サンバイ」などと呼び、神をおろすための行事ということで「サンバイオロシ」「サビラキ」「サオリ」と呼ばれるような祭りを、田植えが始まる前に、催していたのです。
特に江戸時代以降は、こうした祭が次第に大規模なイベントに変わっていきます。
着飾った「早乙女」が太鼓や鉦の囃しをバックに「田植え唄」を歌う「花田植」「大田植」と呼ばれるような、華やかな祭りに変化していくのです。

伊雑宮の御田植祭も、こうした流れの中にある祭りの一つ。
『ふるさとに生きる』の他の都道府県編でも同様のお祭が紹介されており、「広島編」では新庄市に残る「はやし田」、「鹿児島編」では同じように若者たちが田の中で跳ね回る「せっぺとべ」をご覧いただけます。
もちろんそれぞれディテールは違いますが、基本は同じ。田の神への想いです。
こうした日本の祭りに託された農民たちの想いを、ぜひ見比べてみてください。

Part3 伊勢型紙(3分13秒)
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4:01~7:13 伊勢型紙
伊勢型紙

●伊勢型紙

着物などに使う布地に模様をつけるには、「染め」と「織り」という二つの方法があります。
「織り」とはまさしく一本一本の違う色の糸を「織り機」などで織り込んでいく方法。「西陣織」「結城紬」「久留米絣」といった織物が有名です。
これに対して、型紙などを置いて布を染色して模様をつける方法があります。
それが「江戸小紋」「加賀友禅」などの「染め織物」。

今回の映像でご紹介しているのが、この「江戸小紋」に使われた「伊勢型紙」です。

型紙で染色する方法は、平安時代からあったといいます。
ただし、当初は木で作られた型を使ったものが多かったようで、正倉院にもこうした木製の型で染められた布が残っています。伊勢型紙のような紙が型紙に使用されるようになったのは、室町時代以降だそう。
その中で型紙作りが発展し全国的に有名となったのが、伊勢型紙です。なぜこの地で伊勢型紙が盛んになったのかはよくわかっていません。
ただ、伊勢はふるさとに生きる「埼玉編」でご紹介している「細川紙」のルーツとなった「高野紙」が作られている高野山にも近く、こうした和紙の生産技術が近隣で容易に手に入れることができたことも、その一因だと思われます。

伊勢型紙

さらに伊勢型紙が全国で有名になったのは、この型紙販売を紀州藩が独占する形で販売を行ったからだといわれています。
江戸時代、三重県は「桑名藩」「長島藩」「伊勢亀山藩」「津藩」など、細かく国が分けられて統治されていましたが、そのなかでこの伊勢型紙が作られていた「白子」地区は、紀州藩領となっていました。その紀州藩ですが、江戸時代は常に慢性的な財政難が続いていて、その経済の建て直しが課題だったのです。
よって、藩内で作られているさまざまな物産を藩の専売として、江戸や大阪で盛んにビジネスを行なっていました。
この伊勢型紙もその一つ。
このように紀州藩が専売制を引き、全国で商売を展開したものとしては、ふるさとに生きる「和歌山県編」でご紹介した「梅」「備長炭」、そして有名な「紀州みかん」。「湯浅醤油」などの醤油や味噌・酢・砂糖などの調味料類も、紀州藩の専売品でした。

伊勢型紙

こうして伊勢型紙は紀州藩の保護下に置かれ、これを特に多く使用したのが、「江戸小紋」といわれる染め柄で仕立てられた着物。小紋とは、小さなドットや線の繰り返しを組み合わせた模様の柄です。
あまりに模様が細かいので遠目では無地に見えるのが特長。
この柄ができたきっかけは、大名などが着る裃が派手になりすぎるということで、幕府や藩から倹約令が出されたことでした。派手になりすぎず、目立たないけれどセンスやおしゃれ感は確保し、他の人とはしっかり差をつけたいという、ダンディな大名たちの要望に応えるために作られました。
そのため、大名たちは自分専用の小紋柄を作るほど凝っていたといいます。
これが次第に、大名から普通の武士に、そして同じくお上から倹約を強いられていた江戸の町民にも大ヒット。
はじめは小さな半円や四角いドットが一面に並ぶようなシンプルなものが定番でしたが、次第に江戸で人気の縞模様や植物や動物をモチーフにしたものなど、遊び心に富んだ模様へとバリエーションも広がり、現在も着物の定番の柄として定着しています。

こうした小紋を支えたのが伊勢型紙。
一見、同じような柄が続く小紋は簡単そうに見えますが、この小さな模様を小刀一つで均等に、正確に掘り抜いていくのは決して容易なことではありません。
ぜひその技の一端を映像でご確認ください。

Part4 伊勢茶(2分34秒)
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7:14~9:47 伊勢茶 伊勢緑茶加工センター
伊勢茶

●伊勢茶

三重県の農業産品で代表的なものといえば、やはりお茶です。
平成29年度農林水産統計で、三重県のお茶(生葉)の生産収穫量は12,900トン。
これは第1位の静岡53,500トン、第2位鹿児島県41,100トンに続く第3位の生産量を誇ります。
北勢と呼ばれる県北部の四日市市・鈴鹿市・亀山市では「かぶせ茶」を中心に生産が行われ、また南勢と呼ばれる県中央部の松坂市にある飯南、そして映像でご紹介している度会郡度会町などでは「深蒸し茶」を中心に生産しています。

伊勢茶

日本茶生産地としての伊勢の歴史は、京都宇治と並んで古く、南北朝時代の文献にもお茶の産地として、その名前がすでに記載されているといいます。
また江戸時代には、戦国時代から木綿の商いで全国的に商売を広げていた伊勢商人のネットワークに乗せられ伊勢茶が流通したために、その名が広く知られるようになりました。
現在、お茶の生産第1位の静岡県でも、お茶の生産が本格的に拡大したのは、明治以降。さらに、第2位の鹿児島県でお茶の栽培が始まったのは戦後のことです。
江戸時代になると、それまで一部の武士や豪商といった特権階級の嗜みであった「茶の湯」が一般の町人にも普及。さらに煎茶という、形にこだわらない新しいお茶が一般的になったこともあり、まさにお茶を飲むという習慣が人々に根付いた時代です。
それを支えていたのは、京都・宇治茶とともにこの伊勢茶だったのです。

「ふるさとに生きる」ではこのほかにも「静岡編」で牧之原台地のお茶作りの様子、
「福岡県編」では八女の玉露づくりの様子がご覧になれます。

Part5 真珠(4分9秒)
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9:48~13:56 真珠 真珠養殖
真珠

●志摩の真珠物語

美しく神秘的な光沢を放つ真珠。今でこそ、比較的安価で手に入れることができますが、それはこの映像でご紹介している三重県志摩市周辺の海で、真珠の養殖に成功してからのことです。

真珠は紀元前から、「人魚の涙」「月のしづく」などと称され、神秘的で希少な宝石として、あるいは非常に高価な薬として珍重されてきました。
もちろんこれらは天然の真珠。
養殖が始まるまで、世界各地ではこの貴重で神秘的な宝石を求めて、多くの真珠とりが、世界の海に潜っていたのです。
特に中東では紀元前から伝統的に天然真珠の採取が盛んで、20世紀前半になっても、その中心地であったバーレーンでは数万人の真珠とり専門ダイバーがいたといいます。

養殖の試みも、中国では11世紀頃にはじまっていました。
中国では淡水二枚貝の貝殻と柔らかい身の部分の間に、金属できた球や小さな仏像などを入れ、貝殻の内側にできる真珠層がその球や仏像を覆うのを待って採取。それを貝殻から切り取って、仏具や装飾品に使用していました。
しかし、こうした方法でできるものは、あくまでも貝殻にできる突起物のような形。
あの神秘的な真円状の真珠ではないために、半円真珠といわれています。
しかしこの半円真珠が世界にもたらされたことで、真珠は養殖できるということが明確になり、19世紀には養殖による真円真珠制作の試みが、広く世界で行われるようになるのです。

真珠

そして、日本でもこうした試みにチャレンジする男が登場します。
三重県志摩市のうどん屋の息子「御木本幸吉」です。
明治11年(1858年)、彼が東京・横浜へ旅行した際、故郷でとれた天然真珠が高価で取引されるのをみることになります。
実は伊勢・志摩に広がるリアス式の海は、日本における天然真珠の代表的な産地だったのです。これは商売になる。そう直感した当時、東京帝国大学の箕作佳吉博士の協力のもと、まず真珠貝の養殖を志摩の海で始め、そして程なく真珠の制作にも手を染めます。
その時に手本にしたのは、やはり中国の半円真珠。そして明治26年(1893年)には半円真珠の養殖にも成功、この手法の特許を取得しています。

真珠

しかし、中国の半円真珠を基にした方法では、やはり真円真珠はできませんでした。
実は貝殻の裏側を利用するこうした方法では、いくら改良しても真円真珠はできないのです。
真珠は貝殻の部分ではなく、その貝殻の細胞が何かしらの原因で剥がれて貝の内側に落ちることでできる「真珠袋」という袋の中で育つことで、初めて真円の形に成長します。
真円の真珠を作るキーポイントは真珠に何かを入れることではなく、この真珠袋をいかに人工的に作り出すことができるかにかかっていたのです。
こうした理論は1858年にドイツ人のヘスリングによって発見され、日本でも研究も始まります。
その1人が、箕作佳吉博士の弟子で東京帝国大学の卒業生。後に御木本幸吉の次女と結婚する「西川藤吉」です。
彼はこの真珠袋をいかに貝の体内で作り出すかを研究。明治40年(1907年)に貝の外皮膜を小さく切り取り、それを貝の体内に戻す「西川式ピース式」を考案します。
同時期、志摩郡的矢で、同じように真円真珠の研究をしていた人物に「見瀨辰平」がいます。彼も明治33年(1900年)頃から研究を始め、明治40年(1907年)に真珠袋を作る細胞を0.5ミリの核に付着させ、これを注射器で体内に送り込む方法で特許を取得します。
しかし、2人はまったく同時期に同じような手法で真円真珠の技術を発明したために、特許取得に関しての紛争が起こってしまいました。
結局、当時西川がガンに侵されており病状が悪化していたことから、見瀨が折れ、名義は西川の名前、権利は共有するということで決着します。
こうしたゴタゴタはあったものの、日本は世界にさきがけて真円の真珠作りに成功。
この映像にある志摩の海から美しい真珠が生まれ、世界中の人々へ送られていくことになるのです。

Part6 多度神社の上げ馬神事(5分58秒)
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13:57~19:54 多度大社 神占い 上げ馬神事
多度神社の上げ馬神事

●多度の上げ馬と馬の祭り

映像でご紹介している多度神社の「上げ馬神事」。多度神社大祭に行われる、人馬が坂を駆け上がる勇壮な行事です。

このように、日本には馬が活躍する祭りが数多く存在します。

一番有名なのは、走る馬から矢を射る「流鏑馬」です。
現在は多くの神社で「流鏑馬神事」ということで、この「流鏑馬」が祭りに合わせて行われています。しかし、本来流鏑馬は奉納行事であり、祭りそのものの本質ではない場合が多いのです。

日本では神に対してお金や食べ物だけでなく様々なものを奉納し、お供えします。私たちのお賽銭もその一つと考えられるでしょう。
「相撲」も奉納相撲として、昔から神社の境内で興行を行い神にその技や力を奉納します。
能や歌舞音曲もその境内で奉納され、神を楽しませるのです。

流鏑馬は、本来武士が戦場で馬から矢を射る精度を上げるためのトレーニングとして行われていました。
これが次第に競技的な意味を持つようになり、またその技を極めていくことで「小笠原流」などの流派も生まれています。
その中で、祭りなどの時にその優秀な技を神に披露することが、広く行われるようになったのです。
ですから、流鏑馬自体が「神事」ではなく、あくまでお供え物の一つと考えるのが一般的です。

多度神社の上げ馬神事

こうした馬が活躍する奉納行事は流鏑馬だけはありません。
世界遺産にも指定されている京都の代表的な神社、「上賀茂神社」。
その「葵祭」にも、馬の奉納行事があります。こちらは「流鏑馬」ではなく、なんと「競馬」です。
「葵祭」は京都で「祇園祭」と並ぶ大祭です。
しかし、この祭りに合わせて「賀茂競馬」(かもうまくらべ)と呼ばれる「競馬」が行われているとは、知らない方も多いのではないでしょうか?
もともとこの「競馬」は、宮中で行われていたものが1093年にこの地に移されて、行われるようになりました。
「乗尻」(のりじり)と呼ばれる騎手は、雅に舞楽装束をつけていますので、競馬といっても京都らしく優雅に馬が行進するだけかと思いきやさにあらず。左右二手に分かれて、全速力でその速さを競います。その迫力は昔から京都の名物だったようで、吉田兼好が鎌倉時代に書いた「徒然草」にも「これを見にいったが、あまりの人出でよく見えなかった」というような記述が残っています。

これとは別に、馬が重要な役割を果たす祭りも数多くあります。
その代表的なものといえば岩手県で行われる「チャグチャグ馬コ」です。
もともと岩手県は南部駒の産地。馬が武士だけでなく、農民にとっては農業を助ける農耕馬として、非常に大切にされてきました。この祭りは農家にとって、こうした馬の日頃の労働に感謝するとともに、馬の無病息災を祈願するために行われるもの。まさに馬のための、馬が主役のお祭りです。
岩手県滝沢市の鬼越蒼前神社から盛岡市の盛岡八幡宮までの15キロを、100頭の着飾った馬がゆっくり行進する様は、東北の遅い春の風物詩です。

また、「花馬」といって馬を美しく飾り、神社へ行進していく祭りも、全国に多く見受けられます。
これらの祭りで、馬は神の乗り物、あるいは神自身の化身として登場します。
代表的なものが木曽地方に残る「花馬祭り」ですが、出雲あたりには同じ「花馬」といってもその美しく飾った飾り部分だけが残り、今はそれを人が担ぐといった場所も残っています。

多度神社の上げ馬神事

さて今回の多度神社の「上げ馬神事」です。
この神事を見ると、馬を全力で走らせるところでは「流鏑馬」的な要素も見受けられます。もともとこの行事は武士が始めたものという言い伝えもあるようです。
しかしこの祭りでは、ここに参加する馬を「花馬」と呼んでいます。
さらに多度神社では、「流鏑馬」自体は別に行われているのです。
こうしたことから見ても、多度神社の「上げ馬」は「神を運ぶ化身あるいは神の乗りものとしての花馬をこの神社にお運びする」という意味で行われていたと考えるのがよさそうです。
ところがそこに急な坂があり、その困難を乗り越えられるかどうかが、いつしか祭りのクライマックスになってしまった。それがこの祭りの今の姿なのでしょう。
実際、この祭りでは「馬が坂を登りきると豊作」「登りきらないと不作」になるという言い伝えがあります。つまり「神を無事お届けできたか否か」が、この祭りで非常に重要なポイントだったのです。
現在この祭りでは、その馬に乗る乗り手にスポットが当たりがちですし、実際私たちも、こうした部分に目が行きがちです。
しかし、実は坂を登る馬にも大きな意味があるのです。

Part7 三重県の海女(2分37秒)
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19:55~22:31 魚介 海女漁 海女小屋体験
三重県の海女

●三重県の海女

志摩地方は深く入り組んだ海岸線が続き、古来より絶好の漁場となっていました。このため、漁業を営む人が早くから住み着きます。
例えば御田植祭の項で解説した「磯部氏」もこうした人々。その名の通り磯での漁をする専門集団ということで「磯部」と呼ばれていたのです。
こうした人たちの流れを組むのが、志摩地方で有名な、素潜りでアワビやウニなどを採る「海女・海人」です。
ところで、こうした人たちは現在三重県にどのくらいいて、どのような漁を行なっているのでしょうか?三重県教育委員会が行った平成24年に発表の「海女習俗基礎調査」からその実態をのぞいてみましょう。

さて、現在三重県内で海女を行なっている人はどの程度いるのでしょうか?
この調査にはよれば、2011年には1,294人 の海女が記録されています(男性の海女である海士を含む)。
しかしその後2014年の調査では、700人台まで落ち込んでいます。戦後間もなくでは6,000人以上いたということですから、この70年間で10分の1近くに減少しているのです。
さらに、こうした人たちの60%以上が60歳以上。すでに専業で海女を行う人は全くおらず、多くはサービス業などとの兼業で暮らしています。
また、海女には磯周辺の浅瀬で漁をする「徒人」、船に乗って沖合の深いところで漁をする「舟人」がいます。当然、深いところで漁をする「舟人」は潜水のテクニックも必要ですが、こうした熟練の技を持つ海女はすでに60人程度とさらに少なくなっており、熟練者も減っているのが現状のようです。
そんな海女たちですが、年間にどの程度海に出ているのでしょうか?
これは地域によっても変わってきます。鳥羽市の海女が出漁するのは、平均して70~80日、多くても100日程度ですが、志摩市では平均して150日程度、多い地域では200日以上。
そして1日の出漁で60分から2時間弱の漁を、午前と午後に分けて1日2回程度おこなっているようです。

三重県の海女

さて、高齢化し人数も減少しているこの地域の海女ですが、当然収穫量にも影響してきます。
この調査の年には、アワビの収穫は鳥羽や志摩の全地区合わせて約58トン。しかし、明治18年には鳥羽市の答志郡というごく一部の地域だけで142トン収穫されていますので、全体で見れば大きく資源が減少していることが見て取れます。
ただこれは海女の減少だけの問題ではなく、アワビそのものの資源が減ってきているということも影響しているようです。
昨今はこの地域の海も温暖化がはじまっており、アワビの食べ物である海草が減っていることがその主な原因として考えられています。このために、この地域ではアワビの稚貝を放流したり、海女の出漁時間や出漁日数などを制限したりと、資源の保護に努めています。
しかしこうした資源の減少も、結局は海女の収入減につながり、海女という職業そのものの減少につながっていくことは間違いありません。
遠く縄文時代から続いているという、この地域の海女の漁。
伊勢神宮でも、米と並んでアワビは特別な神への捧げものとして、ことさら大切にされてきました。
しかし、海女が海に潜りアワビを取り、そして神に捧げるという、この何千年繰り返されてきたこの光景は、今まさに失われようとしてるのかもしれません。

Part8 松坂牛(9分16秒)
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22:32~30:04 永田牧場 松阪牛
30:05~31:47 エンディング
松坂牛

●和牛と牛肉の話

さて映像では日本を代表するブランド牛「松阪牛」をご紹介しています。
こうした「松阪牛」など、いまや世界でも注目される「和牛」。
「焼肉店」や「ステーキハウス」などの肉専門店だけでなく、スーパーでも手軽に買えるようになり、すっかり身近な存在になりました。
しかし、その名前の由来や本当の意味をご存じでしょうか?
ここではクイズ形式で知っているようで知らない、和牛の知識をご紹介します。

松坂牛

第1問 
国産牛はみんな和牛である。これって正解?

これは間違いです。
国産牛=和牛ではありません。もちろん和牛は国産であることが条件ですが、国内で生産される牛には和牛以外に「ホルスタイン」など、海外由来の牛も肉用牛として数多く飼育されています。これらは国産牛ですが和牛ではありません。


第2問 
和牛はみんな黒毛。国産で黒毛なら和牛である。これって正解?

これも間違いです。
「黒毛和牛」というくらいですから、黒毛であることが和牛の条件と思っていらっしゃる方も多いと思います。しかし、和牛には赤毛の種類もいます。逆に、黒毛でもこうした黒い和牛とホルスタインなどを掛け合わせて作られた黒い毛並みの牛もいます。したがって黒毛であること=和牛ではないのです。


第3問
日本古来の在来の牛が和牛である。これって正解?

これも間違い。
実は、和牛は日本古来より飼育されていた在来種ではないのです。
これが一番意外かもしれませんが、現在日本古来の在来種としてDNA鑑定などで確かめられているのは『ふるさとに生きる ~山口編~ 』でご紹介した「見島牛」と、鹿児島県沖の薩南諸島に属するトカラ列島の「吐火羅牛」の2種類だけ。
和牛は、明治以降、それまで日本にいた在来種と海外の牛を交配させ、大型で強い牛、肉をたくさんとれる牛を作ろうとした結果誕生した、いわば新種の牛。
それも2種類ではなく、現在「黒毛和牛」としてよく知られる「黒毛和種」、
熊本や高知にいる赤毛牛「褐色和種」、東北地方に多い「日本短角種」、山口県にごく少数だけ残っている「無角和種」の4種類を総称して「和牛」といいます。
いわば、「秋田犬」・「土佐犬」・「柴犬」などを総称して「日本犬」と呼んでいるようなもの。ただし、日本犬は日本由来の犬を指しますが、「和牛」はすべて海外品種との交配の末に誕生した、「新日本牛」なのです。

松坂牛

第4問 
和牛の特徴は肉にサシが入ることである。これって正解?

すべての和牛に「サシ」が入るわけではありません。
よく和牛の特徴として、肉の中に霜降り状に脂肪が入る「サシ」が上げられます。
確かに「サシ」は、海外からの輸入牛にはない独特の食感や味の決め手とされ、それ自体が「和牛」の重要なポイントとして語られることが多いようです。
しかし、この特徴は「和牛」のなかでも「黒毛和種」、その中でも映像でご紹介している兵庫県但馬地方で生産される「但馬牛」に強く残っていた特徴です。
「褐色和種」「日本短角種」「無角和種」には、「黒毛和種」ほどの「サシ」は見られません。もともとこれらの牛は「赤身」のおいしい牛として市場で評価を得ていたのです。
従来はこうした牛たちも「和牛」として数多く流通していました。
ところがその後、牛肉の輸入自由化が行われ、大量に安い赤身肉が国内に流通したことで、こうした和牛の赤身肉は市場にあまり出回らなくなってしまったのです。
昨今の健康志向などで「サシ」が入らない赤身肉が見直され、こうした中で「サシ」の入らない系統の牛肉が注目され始めています。まだまだ生産量では「黒毛和種」に及びませんが、スーパーなどで「サシ」のない和牛の赤身肉が並ぶ日も、そう遠くないかもしれません。


第5問 
現在の黒毛和種は、ほぼすべて同じ父親から始まっている。これって正解?

これは正解です。
一般的に「和牛」といって思い浮かべるのは、霜降り状に入った「サシ」。
この「サシ」は「黒毛和種」だからといって、必ずしも全て同じよう入るわけではありません。
こうした中で、もともと「サシ」が入りやすい肉質で評価されていたのが、今回ご紹介している「松阪牛」のもとになる、兵庫県の但馬地方の但馬牛。
なかでも昭和初期にこの但馬に生まれた「田尻号」は、優秀な肉質を子どもに伝える遺伝能力が高く、優秀な子ども約1,500頭を作るとともに、次世代の種牡牛を但馬に残すことになります。
とくに近年の和牛ブームで「サシ」の入った牛が好まれるようになると、さらに「田尻号」の遺伝子を引き継ぐ但馬の牛が重要になりました。
そこで、全国の黒毛和種の生産地ではこの但馬牛を購入し、もともと地元で飼っていた牛などと独自に交配させながら、「サシ」の入る肉質のよい黒毛和種をそれぞれの地域で生み出すようになったのです。

結果的に、現在生産される「黒毛和種」の約99.9%が、なんとこの「田尻号」の子孫ということになっています。

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