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Vol.15 信州の宝、山里に連綿と ―長野県―

365日、休みなく農作業に精を出す農民にとって、かつてはなによりの楽しみだったという農村歌舞伎。信州地方では、今もなおその伝統が途切れることなく受け継がれ、若い世代の晴れ舞台として輝いています。 そして、山あいの集落で代々受け継がれてきた門外不出の郷土野菜。日本各地で失われつつある伝統の作物を復活させるために、情熱をかたむける人々がいます。

Part 1 農民美術運動と大正デモクラシー(5分8秒)
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0:00~2:02 プロローグ~信州の宝、山里に連綿と~ 長野県編
2:03~3:05 上田城跡公園、山本鼎記念館
3:06~5:08 上田市山口 山口大根の歴史
農民美術運動と大正デモクラシー

この映像でご紹介している「農村美術運動」とは、冬の農村の副業として農民が芸術的美しさを備えた生活雑貨や木彫人形を作り、都市へ向けて販売しようとする運動のことをいいます。大正8年(1919年)に版画家山本鼎等が長野県で始めました。
こう書くと単に農家の副業販売を促進する宣伝活動のようですが、当時の歴史的背景と、その時代に置かれていた農村の状況を見ていくと、こうした「運動」の本来の姿が見えてきます。

「農村美術運動」が始まった大正時代、世界はまさに激動の時代に入ろうとしていました。大正3年(1914年)に第一次世界大戦が起こり、大正7年(1918年)に終結。1917年にはロシア革命が起こり、民衆を主体とする世界最初の社会主義政権が樹立されます。
日本も日清・日露戦争を経て欧米列強と肩を並べたという自覚が生まれ、国内での工業化近代化も進み、交通・流通や商業が飛躍的に発展し、急激な都市化へと進んでいきました。

こうした中で、一般の人々の意識も変わっていきます。
今までの封建的で抑圧的な社会に対する疑問、個人の自由と権利への欲求。人々の意識が大きく高まり、いわゆる「大正デモクラシー」という政治・社会・芸術文化等全般にわたる民主主義、自由主義的な運動が起こるのです。

農民美術運動と大正デモクラシー

当時日本では第一次世界大戦中は好景気に沸きますが、大正7年(1918年)に対戦が終結するとその反動で不景気になり、大正12年(1923年)に「関東大震災」が起こったことでさらに悪化。昭和2年(1927年)「昭和金融恐慌」金融不況、そして昭和4年(1929年)には「世界大恐慌」と、経済は悪化していく一方でした。
農村部も、もちろん不況の影響を受けることになります。経済的な打撃に加え、若い世代の大都市への大量流出、小作料を巡る地主との対立などさまざまな問題を抱え、社会的な大問題となっていきました。

農民美術運動と大正デモクラシー

そんな中、人々は「農村を何とかしなければならない」と思い始めます。こうした思いは「大正デモクラシー」のもと、農村内部だけでなく、社会のさまざまな人々に広がり、新しい農村社会と農村文化をつくる運動につながっていくのです。

その運動の一つが、山本鼎と長野・上田の人々が始めた「農村美術運動」でした。

山本鼎は、最初は版画職人として版画工房に弟子入りしますが、職人的な版画に飽き足らず、自由な創作活動を求めて東京美術学校西洋画科選科予科に入学。その後、画家・版画家として活躍した人物です。 彼は明治45年(1912年)にフランスへ留学し、大正5年(1916年)に帰国しますが、帰国途中に立ち寄ったのが革命前夜のロシア・モスクワでした。彼はここに半年ほど滞在することになります。

そこで出会ったのがロシアの民衆芸術です。当時のロシアは、それまで主流だったフランスなどの印象派や、台頭してきたキュービズムなどへの追従をやめ、ロシアの伝統的なフォークロアの中に芸術性を見出そうとする気運が高まっていました。
またトルストイのように「芸術は一部の特権階級のスノビズムを満足させるためだけの贅沢物ではなく、社会に生活する一般庶民の幸福に貢献する役割を果たすべきである」という考え方が出てきた時期でもあります。

農民美術運動と大正デモクラシー

こうした新しい芸術の考え方に触れた彼が帰国して目の当たりにしたのが、不況のあおりを受けた農村の悲惨な状態でした。
そこで思い出したのがロシアの民衆芸術です。
農閑期に農民が創作活動を行い、それによって収入を得るだけでなく、何よりも農民の生活に生きがいと誇りを持つこと。経済と文化、生活と芸術を両立させ、新しい農村社会と文化をつくること。それが彼らの考える「農村美術運動」だったのです。

そのほかにもこうした運動は各所で起きています。
尾張徳川家第19代当主、徳川義親は北海道・八雲で、冬の農閑期、農業のできない農民のために、やはり同じような農村美術品制作運動を、大正14年(1925年)から始めています。
北海道土産としてよく見る木彫りの熊は、実はこの運動によって作られたものなのです。

農民美術運動と大正デモクラシー

文学でも大正13年(1924年)犬田卯、佐伯郁郎、中村星湖らは農民文芸研究会をつくり、雑誌『農民』を刊行し、農民の精神文化確立を主張しています。

そして『家の光』も、農村が混乱している大正14年(1925年)5月に創刊されました。『家の光』が目指すものも同じです。
こうした新しい時代、変化する時代の中で、農村が新しい農村文化を建設し、生活の豊かさを農村に創り上げること。
このために『家の光』は農村部から広く文芸作品を投稿募集しました。さらに、次世代の農村歌舞伎ともいえる「農村演劇」を提唱するなど、農村芸術運動に力を入れた誌面づくりを創刊号から行っています。 また当時、女性の地位は本当に低いものでした。参政権はもちろんなく、社会的地位も、家庭内においてもその存在は非常に軽んじられていたのです。
「大正デモクラシー」中でもこうした婦人解放運動が徐々に高まっていきますが、『家の光』は、農村の生活を向上させるキーパーソンは女性・婦人であるという考えのもと、婦人の地位向上のための記事作りを、創刊当時から行っていたのです。

Part2 下條歌舞伎と農村歌舞伎(6分18秒)
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5:09~6:56 信州ソバ、種蒔き
6:57~8:00 合原皇太神宮
8:01~11:26 下條村民センター、下條歌舞伎の稽古
下條歌舞伎と農村歌舞伎

この映像でご紹介している「下條歌舞伎」は、vol.4「香川県小豆島編」でご紹介した「肥土山の農村歌舞伎」や、vol.9「和歌山県編」の「二川歌舞伎芝居」と同じ「農村歌舞伎」、あるいは「地芝居」と呼ばれる地域住民や地域の子ども達で行われる歌舞伎芝居の一つです。

さて、このような「農村歌舞伎・地芝居」ですが、現在全国には、毎年開かれる「地芝居サミット」を主催する「全国地芝居連絡協議会」に所属する団体が56団体あります。そのほかのさまざまな団体を合わせると、約200近い団体が今でも農村歌舞伎の上演や、存続させるための活動を行っています。
これだけでもかなりの数ですが、実は昭和42年頃に行った調査によると、全国にはこうした「農村歌舞伎」を行うための常設舞台が約1200軒も残っており、廃棄されたものを含めると、1700軒以上の舞台が全国で確認されました(角田一郎著 『農村舞台訪問』和泉書院刊1994年)。これは現在『公立文化施設協会』に登録されている劇場やホールの数が2277軒であることを考えると、少し前の日本では、いかに多くの人々がこれら常設舞台にて「農村歌舞伎」を上演していたかがわかります。

下條歌舞伎と農村歌舞伎

ところが農村歌舞伎に関わる人々は、東京や大阪で行われる歌舞伎舞台の熱狂的なファンで、それが講じて自分達も演じ始めた……というわけではありません。
それどころか多くの人々は、本当の歌舞伎を見たことさえなかったそうです。

それではこうした農村歌舞伎は、なぜ始まったのでしょう。

下條歌舞伎と農村歌舞伎

「農村歌舞伎・地芝居」が行われるようになったのは1700年代の江戸時代中期。この時代は、今にいたる歌舞伎の要素がすべてそろった時代でした。
江戸時代初期に出現した歌舞伎は、室町時代に出現した武家を中心とした格式の高い「能」に変わり、当初出雲阿国に象徴される「歌舞伎踊り」として始まりました。ところが、風紀を乱すということで、禁制という事態に陥ります。しかしその後「若衆歌舞伎」「野郎歌舞伎」などを経て、元禄時代にかけて次第にストーリー性の高い演劇としての要素を確立。さらに人気役者を多数輩出したことで、上方や江戸で人気エンターテインメントして次第に地位を確立していきます。
その後、享保年間前後に、それまでの屋根のない簡素な造りの歌舞伎小屋から、舞台装置のある本格的な劇場が建てられるように。そこで花道やセリなどの装置を使った、今に通じる歌舞伎独自の演出が数々行われるようになりました。

下條歌舞伎と農村歌舞伎

ちょうどその時代、農村部では祭礼を中心に「能」が祭りの中で奉納されていました。
特にその中心となった演目が、五穀豊穣を祈る「三番叟」という「舞」です。vol.9「和歌山県編」の「二川歌舞伎芝居」で子ども達が練習をしていたあの演目です。
vol.9でも解説しましたが、この「舞」のテーマは豊作祈願。ですからこの舞を奉納することは、どの祭礼でも非常に重要なこととされ、広く各地で行われるようになりました。
こうした「能」は、「狂言」と組み合わせて演じられていました。
「能」がどちらかというと舞踊中心で、ストーリーも抽象的なのに対して、「狂言」は喜劇中心のわかりやすいストーリーが主になります。
ある意味、現在の「コント」といってもいいようなコメディ舞台ですから、人々にとっては儀式というより、まさに観劇気分。それが祭りの新しい楽しみになっていきました。
こうして「儀式」+「観劇」というペアが祭礼の構成の中心として定着していくのです。そうなると次第に、儀式である「三番叟」の部分は残しつつ、観劇部分はさらに面白いものが見たいという要望が出てきました。
こうしたニーズから、さらにわかりやすく面白い「歌舞伎」への転換を望む声が上がり、当初専門の演者を雇っていたものが、いつしか自分たちで演じることを楽しむものに変化していきました。このような背景から「農村歌舞伎・地芝居」という、都市部とは異なる地域独自の演劇文化が各地で育っていったのです。

下條歌舞伎と農村歌舞伎

こうして「農村歌舞伎・地芝居」の流行は、当時「歌舞伎」の中心地であった上方(江戸時代中期まで、歌舞伎や人形浄瑠璃などのエンターテインメントは、近松門左衛門などが活躍した大阪・京都が江戸よりも先行していました)の周辺部から発展していきます。
特に数が多かったのは「名古屋・三河地区」、「岐阜・美濃地区」、そして今回ご紹介している「下條歌舞伎」のある南信州飯田市周辺の「下伊那」周辺です。
これらの地域はさまざまな街道でつながる隣接した地域ですが、中山間地も多く、米作には不向きな土地でした。しかし重要な街道や川が多く、農民は「中馬」といわれる馬を使った物資の運搬業や、早くから養蚕業を副業として営むなど現金収入も多く、比較的余裕な土地柄でした。

「農村歌舞伎・地芝居」の全盛は江戸時代後期から明治時代の初めにかけてです。この時期、これらの地域にはそれぞれ100カ所以上の「地芝居小屋」があり、さらに大きな村には複数の芝居小屋がありました。山奥の炭焼きで生計を立てている戸数わずか7戸の村にまで自前の「歌舞伎」があったという普及ぶり。そして「歌舞伎」があると聞くと、そんな小さな村の歌舞伎にさえ、近隣から見物客が訪れるというほど、この地域では「農村歌舞伎・地芝居」が大流行しました。
村民あげて歌舞伎にのめり込みすぎて、麦の種まきをほったらかすといった村まで出てくるという始末。あまりののめり込みように、たびたび御上の「歌舞伎禁止令」や、明治になると警察の取り締まりにまで発展する事態も発生しています。
それでも歌舞伎をやりたい村民は、あえて普段は人の入らない山奥に臨時の舞台を作って真夜中に歌舞伎を行ったり、ほっかむりをして衣装を隠し、目立たぬように歌舞伎を演じたりしていました。罪に問われるリスクを犯しても歌舞伎は辞めなかったというのですから、その熱狂ぶりも相当なもの。
さらにこうして地域の村々がみな「歌舞伎」を行うため、その競争心があおられます。
「あの村の今年の演目は何だ」とか、「どの村の誰それは名役者だ」とか、逆に下手だとか……。こうした評判を聞くと、それを確かめるため、遠く「美濃」や「三河」の人が「伊那」まで山を越えて観劇に出かけることもあったとか(こうした証拠が今回の映像の中に、小屋の落書きとして、紹介されています)。

下條歌舞伎と農村歌舞伎

当然近隣の村の中で、特別に上手いという村も出てきます。こうした村は「狂言村」と称され、他の地域に呼ばれて巡業の公演を行うなど、周囲の村からも一目置かれる存在に。さらに代々名役者を生み、家業もそっちのけで徹底して歌舞伎にのめり込む家を、「狂言系」の家と呼ぶようになりました(こうなると、あまりにのめり込みすぎて家業が傾いたとか、こうした家に入った婿の演技が下手すぎて家を追い出されたといった、ちょっと笑えないような話もいくつもあったようです)。
このように、村や役者が行う芝居がかかると「木戸(チケット)」は予約ですでに完売、村の宿は遠来の客でいっぱいに。普通の民家にまで観劇客が宿泊したといいますから、すでにプロの歌舞伎も顔負けの人気ぶりでした。

ところが近代明治に入ると、公演の場である「祭り」を管理していた村の自治能力や村自体の共生関係が弱くなり、若い人達は都市部へ流出。さらに大正期に農家を襲った不況や戦争など、時代の流れの中、「農村歌舞伎」は次第に衰退していきました。
そして戦後昭和30年代以降の高度成長期には、歌舞伎の担い手だった若い男性達が、出稼ぎや集団就職でさらに村から流出していくことに。それに加えてテレビの出現で娯楽の構造の変化とともに全国から一挙に消え、昭和から平成になるとその団体数は全国ですべて合わせても30団体程度まで落ち込んだといいます。

下條歌舞伎と農村歌舞伎

こうしてしばらく「農村歌舞伎・地芝居」は、時代からも人々の心の中からも忘れ去られていました。

それが近年、復活の兆しを見せ、冒頭でご紹介したように、すでに200近い団体が全国で活動するようになっています。

今回ご紹介する「下條歌舞伎」は、その復活の先鞭をつけた団体の一つです。
現在の下條村は明治時代、近隣にあった小さな村の粒良脇、親田、北又などが合併してできました。これらの村には、それぞれ「粒良脇歌舞伎」「親田歌舞伎」「北又歌舞伎」など、地域独自の歌舞伎がありました。
これら地域独自の歌舞伎は江戸時代中期・享保年間以降、300年間綿々と続き、一時はその名声から他の地域に招かれて公演をしたというほど。戦後も昭和30年代までは活発に活動を続けていましたが、昭和40年代以降、それぞれの地域で続けていくことが困難になり、昭和46年に「下條歌舞伎保存会」として統合され、再スタートを切ることになります。

この「下條歌舞伎」の特徴は、映像でご覧いただけるように、年長のメンバーに混ざって若いメンバーが多く参加していること。
ここでは中学生の歌舞伎同好会などを設立し、積極的に若いメンバーを育成。さまざまな世代が入り交じる「下條歌舞伎」は、本来の村という地域の活力の源となる、世代間コミュニケーションを作り出す絶好の場所になっているのです。

下條歌舞伎と農村歌舞伎

3.11以降、特に地方を中心に、学校や職場という組織を越え、地域が本来持つべき共生の力、地域全体を強く結び付ける力が見直されています。
本来「農村歌舞伎・地芝居」は、地域の人々が立場や世代を超え、熱い思いや、自己表現を力に共創して作られた文化です。
こうした力は災害のような非常時だけでなく、地域の活力や新たな創造性を生み、地域の明日を作る力となるのです。
「農村歌舞伎・地芝居」の持つ力は地域活性化の重要なキーとなり、一度消滅した「農村歌舞伎・地芝居」の復活プロジェクトは、全国各地で数多く行われるようになりました。

ちなみに直接の関係性はありませんが「下條村」の出生率は全国平均1.42人を大きく上回る2.03人(平成26年)。人口4000人の小さなこの村は、独自の子育て支援を行っており、村外から子育て世代を集めていることで、近年「奇跡の村」と称されています。また今どき珍しい「全村あげての運動会」や「消防団活動」など、村独自の共生関係や活性化をはかる村として、全国各地の自治体から大きな注目を浴びている村でもあります。

Part3 ダイコン (9分21秒)
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11:27~13:43 8月 親田辛味大根の種蒔き
13:44~14:29 9月
14:30~17:11 10月 下條村 親田辛味大根の収穫
17:12~20:48 上田市 山口大根の収穫
ダイコン

今、スーパーや青果店でダイコンというと、「白く」「太く」「みずみずしい」、首の青い「青首大根」が多く出荷されています。しかし映像でご紹介している2品種をはじめ、かつてダイコンは非常に多くの品種が各地で栽培されていました。

例えば江戸時代、1700年代享保年間に書かれた『享保・元文諸国産物』という、全国の藩の作物を調査・分析した『野菜の日本史』(青葉高著 八坂書房刊)によると、諸藩の中で一番多くの品種が記録されたのがダイコンでした。
記録のある30藩で平均すると、1藩当たり12.1品種も記録されている野菜はダイコンのみ。その品種の多さは、江戸時代当時からダントツでした。

現在、長野県で生産されるダイコンの主流は「青首大根」です。しかし長野各地では、ご紹介した「山口大根」「親田辛味大根」など、合わせて13種類の在来種といわれるダイコンが今でも栽培されています(信州大学農学部『長野県のダイコン品種』1998,1999)。
また前述の2種類と合わせて「上野大根」「切葉松本地大根」「たたら大根」「戸隠大根(戸隠おろし)」「ねずみ大根」「灰原辛味大根」「前坂大根」「牧大根」「上平大根」「後山地大根」など合計12種が長野県の「信州伝統野菜認定制度」に選定されています。

ダイコン

こうして長野県に残された多くの貴重な伝統的在来種には、非常に珍しい特徴があります。それが今や大変珍しいといわれる「北支系のダイコン」なのです。

ダイコンには大きく分けて世界で4つの品種の系統群があり、その中で日本は、中国から渡ってきたと思われる2系統がルーツとして広まったといわれています。中国南部から渡ってきたといわれる「南支系」、中国中北部から渡ってきたといわれる「北支系」のダイコンです。

しかし現在、私達がよく食べているのは「青首大根」に代表される「南支系」の要素を多く持ったダイコンです。
「南支系」のダイコンは根の部分が太く大きく、肉質は水分を含んでみずみずしく、甘く、柔らかいのが特徴で、一般的な料理に使われます。

ダイコン

これに対して「北支系」のダイコンは、根の部分が短く小型。肉質は堅く締まり、デンプン量が多いため保存性が良いのが特徴です。このため漬け物や干し大根など保存食として、また辛味成分を多く持つ品種が多いため、蕎麦の薬味などに多く使用されてきました。
しかし生活スタイルの変化とともに、「北支系」のダイコンの持つ保存性や辛みなど、品種としてのメリットは次第に薄れていきます。小さな根にしかならず、生産性が低いため、「北支系ダイコン」は全国から次々に姿を消していくことになります。

今回映像でご紹介した「山口大根」も、戦前はかなりの栽培面積で作付けされていました。しかし栽培する農家が減り、最近ではとうとう1件にまで落ち込み、まさに風前の灯火。幻のダイコンになるところだったのです。
こうした中で、10種類以上の「北支系ダイコン」の品種を残した地域は全国でも長野県しかなく、それはまさに奇跡的ともいえることなのです。

ダイコン

それではなぜ、こうしたダイコンが長野県に数多く残っているのでしょう。

もちろんダイコンは、日本で米作が始まる前に日本に渡来した可能性も指摘される古い野菜です。確かな記録や決定的な証拠はありませんが、それを推論するヒントはいくつかあります。

その重要な手がかりとなりそうなのが長野県でやはり多く作られている「ソバ」です。
「親田辛味大根」を栽培する「下條村」では、長年こうしたダイコン作りと合わせて「ソバ」の栽培も行われています。

実は山間地が多く平地が少ない長野県、信州信濃の各地域では、古くから「焼畑」による農業が行われていました。『日本の秘境100選』にも選ばれた長野県北端の栄村にある「秋山郷」では、昭和30年代まで実際に「焼畑」が行われていました。

一般的に日本の「焼畑」は、一回焼いた土地で何種類かの作物をローテションで植えていきます。そして何回か使用した後、その畑での耕作をやめてほかの場所で「焼畑」をすることにより、最初に焼畑をした部分の地力や自然を回復させていきます。日本各地では、環境への負荷をなるべく抑えながら農業を続けていました。
長野県ではこうした焼畑で「ソバ」と「ダイコン」、あるいは「カブ」を主要な作物として、そのほかにも「アワ」などの雑穀や「エゴマ」などを作っていたのです。

ダイコン

この「焼畑」における「ソバ」と「ダイコン」という組み合わせの重要性を指摘したのが、民俗学者の宮本常一です。
彼はその著書『日本文化の形成』(講談社 講談社学術文庫刊)の中で、日本の焼畑には二つの系統があるといいます。

一つは「ソバ」と「サトイモ」を中心とした「焼畑」。これは太平洋側に多く分布し、「海」の文化とのつながりが深いといいます。
もう一つが日本海側に分布するタイプの「焼畑」。こちらは「サトイモ」の代わりに「ダイコン」あるいは「カブ」を「ソバ」とともに植え、そして「山」の文化との結び付きが深いと考察しています。
つまり長野県の「焼畑」はまさしくこの「日本海側型」。 そのほかにも「富山」「能登」「佐渡」などで同じような焼き畑が残っているのです。

そしてこれらは同じく焼畑が多かった「中国北東部」から「朝鮮半島」を経由して、渡来人が日本に持ってきた農耕システムだと、推論を組み立てているのです。

「中国北東部」といえば、まさに「北支系ダイコン」の産地とも重なります。
このような考察を組み合わせると、「北支系ダイコン」は「ソバ」とともに「中国北方地方の焼畑」という農耕文化が日本海側から日本に上陸し、長野各地に持ち込まれた可能性が非常に高いのです。

ダイコン

さて、さらにこの地域でこうした種類の「ダイコン」が残った理由を考えてみましょう。

先ほど引用した青葉高氏は日本の野菜に関する本を何冊も書いていますが、その一つ『野菜の博物誌』(八坂書房刊)に収録された『日本の食文化と野菜』の中で、山間部など環境の厳しい地域では、ダイコンは「カテモノ」であったと述べています。
「カテモノ」とは「糧」、つまり「食糧」のことでもあり、「生活の糧」などと使うように、大元になるものという意味があります。つまり「食糧の大元」ということで、「主食」的な位置付けの食べ物のことを指すようです。
また「糧」には、「混ぜ加える」という意味もあり「主食に混ぜる」という調理方法も指し示しています。 つまり「カテモノ」とは「主食に混ぜて、主食として食べるもの」という意味になり、「カテモノ」を混ぜた主食のご飯を「かて飯」と呼んでいました。
「かて飯」は、山間地のような厳しい環境では日常的に、さらに平地の農家でも作物が不作だった時期や、飢饉の際はよく食べられていました。
例えば「秋山郷」には「早蕎麦」といわれる、ゆでた千切り大根に水溶きソバ粉をからめた郷土食があります。「蕎麦」を打つより早くできるから「早蕎麦」といわれる所以でしょうが、これなどは本来「ソバの粥」に「ダイコン」を混ぜた「かて飯」だったと思われます。

ダイコン

通常、ダイコンはおかずなどの副食として食べられるのが多いものです。副食的な扱いなら、味や歯ざわり、見た目なども重要でしょう。
こうした点では現在の青首大根のように、甘く歯ざわりがよく、みずみずしいダイコンが欲しくなります。
でもここでは、ダイコンはまず命をつなぎ、生き残るための食べ物でした。おいしさや商品価値を求め、ほかの作物や、異なる品種に変更するというリスクを犯すのではなく、その土地になじみ、確実に収穫できるダイコンの品種が守られてきたのです。


■長野県の「信州伝統野菜認定制度」とは

昭和30年代以前から長野で栽培され、固有の品種特性が明確で、地域の食文化を支えている野菜を認定。その貴重な品種を保護し、地域の特産品として育成、広くアピールするためにするために設立されました。2015年5月11日、現在71種類の野菜が選定されています。

Part4 蕎麦(10分4秒)
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20:49~22:43 11月 下條村、ソバの実
22:44~27:00 下條歌舞伎
27:01~29:59 12月 新ソバのお披露目、エンディング
蕎麦

「ダイコン」をご紹介する項で明記したように、長野県各地で栽培される「ソバ」は、古墳時代以前から行われていたようです。
しかし意外に思われるかもしれませんが、ソバが現在のように「麺」として作られるようになったのは、最も古い文献でも室町時代からということです。蕎麦好きで知られる江戸でも、庶民が普通に麺の蕎麦を食べるようになったのは、江戸幕府が開かれてから60年程度後のこと。長いソバ栽培の歴史からすると、案外最近のことなのです。

しかしそれではなぜ、それまで麺の形にすることができなかったのでしょう。
麺を作るには「ソバの実」を一端挽き、そば粉にする必要があります。ところが日本ではソバだけでなく、さまざまな穀物を細かい粉にする石臼が普及していなかったのです。

蕎麦

石臼自体は紀元前、ギリシャあたりで発明されたともいわれ、日本にも奈良時代に中国からもたらされていたようです。しかし意外にも、江戸時代の初期になるまで、日本では石臼が一般に広まることはありませんでした。

そもそも石臼がオリエントで発明された背景には、「麦」を主食とする食文化が背景となっています。
麦は皮が厚いため、食べる部分との分離が難しく、いったん粉状にしてから皮と実を分けるほうが簡単でした。このために石臼ができ、それで作られた粉を固めて食べる「パン」が主食として広まっていきます。

しかし日本の「米」は脱穀も簡単で、そのまま炊いてしまえばすぐ食べられてしまうため、何かをつぶすとしても、せいぜい木製の「杵」と「臼」があればよく、一般の農家でも石臼の必要性があまりありませんでした。

それは「ソバの実」も同じです。
ソバは殻を取ったあと、同じく焼畑などで栽培された「アワ」や「ヒエ」といった雑穀と一緒に炊かれ、粥のようにして食べるか、簡単につぶして団子や餅状にし、それを焼いたり、つゆの中に入れたりして食べていました。

蕎麦

それでは、このようなソバがどうやって「麺の蕎麦」になったのでしょう。

実は「麺」としての蕎麦を最初に作ったのは、寺の僧侶ではないかといわれています。
例えば麺である蕎麦を表す「切り蕎麦」という言葉が初めて記録されているのが、室町時代(1574年)に信州木曽にある臨済宗の定勝寺という寺の改修工事記録です。その工事を行う際、寺が「切り蕎麦」を振るまったという記載が、現存する最も古い記録だといわれています。
その次の古い記録も同じく臨済宗のお寺です。尾張一宮にある「妙興報恩禅寺」には、「妙興禅林沙門恵順 寺方蕎麦覚書」という蕎麦の作り方を書いた書き付けが残っているとされています。
さらに蕎麦発祥という言い伝えのある山梨県甲州市の「天目山 栖雲寺」も、臨済宗のお寺です。
こうして「麺」としてのソバの古い記録や言い伝えを見ると、どうもそこには「臨済宗」のお寺が深く関係しているようです。

蕎麦

実は臨済宗には鎌倉時代の僧で、後に臨済宗東福寺派大本山を開山する「円爾」がいます。円爾は「ふるさとに生きるVol.12 静岡編」でもご紹介していますが、鎌倉時代に南宋へ渡り、中国五山の一つである「径山・萬寿寺」で、当時最も権威があった僧「無準師範」から禅の教えを受けた人物です。円爾は仏典だけでなく儒書、易書、漢方の医薬書など当時の最新情報が描かれた貴重な書籍を南宋から数多く持ち帰りました。「うどん」「素麺」「お茶」「饅頭」といったものを日本に持ち帰って広めたともいわれています。 そんな彼が南宋から帰国する際、石臼と水力を組み合わせた製粉技術を日本に持ち帰り、その技術によって「素麺」や「うどん」を作ったとされているのです。
実際に円爾が開山した京都の東福寺には、今でもこの製粉機の図面が残り、これによって作られた「素麺」を供える行事も残っているのです。
また臨済宗などの禅宗の寺では「精進料理」に代表されるように、「食事」を作ることも修行の一環としています。
こうしたことを考えると、「製粉」とそれを利用した「麺」を作る技術は、時代を経て臨済宗などの禅宗のお寺に伝えられている可能性が高くなってきます。
そしてそれがソバという素材と出会ったとき、自然と「切り蕎麦」という形になったと考えるのが最も自然な形ではないでしょうか。

蕎麦

この後、江戸時代の初めになると一般的な農家にも石臼が普及し、いろいろな製粉が簡単に家でできるようになり、ソバがあれば誰でも「麺の蕎麦」を打てるよう時代になります。だからといって、信州のようなソバどころでは、毎日家で「蕎麦」を打って食べるようになった……というではありません。 どうも現代人は、蕎麦というと「立ち食い蕎麦」「即席麺」などに象徴される「ファストフード」的なイメージが強いため、簡単にできてしまうように思われがちです。
しかし、手打ち蕎麦をよく考えると、「製粉」から「打ち」「切り」「ゆで」まで行うことが、忙しい日々の中で果たして可能でしょうか。
「麺」は、実に手間のかかる面倒な料理です。ですから「麺としての蕎麦」は、特に農村部では、その後も特別な料理として人々の中で位置付けられていきます。

その良い例が「Vol.13 島根県編」で見ることができます。
ここでは「出雲大社の御師」が全国で「いずもそばの蕎麦券」を配って「出雲大社」への参詣を宣伝していたことが語られています。
「出雲にいって蕎麦を食べよう!!」が心に響くキャッチになるほど「蕎麦」は特別なイメージを与える食べ物だったのです。
こうした例はここだけでありません。「長野の善光寺」「福井の永平寺」など、「門前の名物」が蕎麦であった寺や神社が数多くありました。

もちろん家で作る場合も、蕎麦は特別な食べ物とされています。信州や甲州では冠婚葬祭ではもてなしの料理として、最後に必ず蕎麦とうどんを出すといいます。
また「正月」や「小正月」など、いろいろな「節句」に、蕎麦を打つ地域は今でも数多くあります。

蕎麦

日本民俗学の父である柳田國男は、その著作「餅と臼と擂り鉢」(『木綿以前のこと』岩波文庫 岩波書店刊に収録)の中で、「いわゆる麺類はこの意味において、今なお村落では晴の日の食べ物である」と記しています。
「晴の日」とは、「晴れと褻」という言い方で対比される、祭りや節句といった「特別な日」のことを表します。
日本人は「褻」という日常と、明確に差別化された「晴の日」を作り、普段と違う「晴れ着を着て」、いつもと違う食べ物を食べることで日々にアクセントをつけながら、季節の変化を感じ、またそれを農業などの区切りとしてきました。
こうした晴の日の食べ物を「カワリモノ」といいますが、これは決して豪華でおいしい食べ物という意味ではないと、柳田國男は言っています。むしろそれは「普段の日では作る事の難しい、手間のかかる食べ物をあえて作る」ことに意味があるというのです。
こうした意味で「麺の蕎麦」は、農村部において特別な食べ物であるとされていました。
そしてこうした蕎麦への思いは、映像にある「新ソバ」で打つ蕎麦への思いのように、色々な形で今に続いているのです。

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