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Vol.24 干拓の恵み 大地に息づく ー佐賀県ー

佐賀県白石町福富。 青々とした平坦な農地は、江戸時代初期から本格的に始まった有明海の干拓事業によって生み出されました。 しかし、その土地は水はけが悪く、台風などの災害にも弱い土地。人びとはさまざまな苦難を乗り越え、この土地を日本有数の生産量を誇るレンコンやタマネギの産地に変えたのです。

Part 1 佐賀県の地勢と気候(2分55秒)
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0:00~2:55 プロローグ~干拓の恵み 大地に息づく~ 佐賀県編
佐賀県の地勢と気候

●佐賀県の概要

佐賀県は九州の北西部に位置し、東は福岡県、西は長崎県の間に挟まれるよう広がっています。
面積は約2,400平方キロメートル。47都道府県中42位。
九州の中でも最も小さい面積の県です。
さらに人口も、83万人で全国42位。総人口も九州の中でもっとも少ない県となっています。

気候は、南北を海に挟まれているため、その影響を受けて湿潤多雨。寒暖の差は少なく、年間の平均気温は16度と穏やかな気候です。

地形は、県の北側には1000m程の山々が並ぶ「脊振山地」が、南側には「多良火山地」が、北西側で唐津市などがある東松浦半島には「上場台地」が広がっています。また、南東側には脊振山地から流れる川が作りだした三角州や干潟、そして長い年月をかけて干拓した700平方キロメートルの広大な「佐賀平野」が広がっています。

佐賀県の地勢と気候

●佐賀県の農業

佐賀県は九州でもっとも小さい面積の県ですが、その県土における農業耕地率は21.3%(平成29年度耕地面積 農林水産統計)。
全国でも「茨城県」「千葉県」に続く高い割合で、農業はとても盛んです。

佐賀県の農業といえば、水田での米作りで、現在でも水田は、県の耕地面積の約8割を占めます。

中でも佐賀平野は、日本でもっとも古くから米作りを盛んに行ってきた地域の一つ。
弥生時代を代表する「吉野ヶ里遺跡」も、佐賀平野にありますが、この遺跡を含め、周辺では古代の水田遺構が数多く見つかっています。
こうした佐賀の米作りは、古代から現代に至るまで、干潟を干拓した佐賀平野を中心に拡大していき、昭和初期には米作りにおいて単収量(10a=1,000㎡当たりの米の収穫量)が全国一になりました。
その後も、1960年代に全国1位を記録するなど、日本を代表する米どころだったのです。

しかし、国の減反政策が始まると、佐賀県の米作りも見直しが求められるようになります。
そこで、水田を他の作物にも転用できる汎用化を目指し「ほ場整備」を行いました。現在では全水田面積の約81%でほ場整備が完了。
米作りだけでなく、麦、タマネギ、大豆などを組み合わせた生産が積極的に行われるようになり、その耕地利用率は、131.3%(平成26年)。全国1位の利用率となっています。

そのほか、佐賀県ではその温暖な気候を利用してさまざまな農作物が作られています。
佐賀平野などの平坦部では、生産量全国第2位を誇る「二条麦」などの麦類とタマネギをはじめ、イチゴ、アスパラガスなどの栽培が盛んです。
また、中山間部では、ミカンなどの柑橘類やナシなど果樹栽培、「うれしの茶」で有名なお茶の生産、昨今ブランド牛として人気の高い「佐賀牛」を中心とした畜産も盛んに行われています。

Part2 佐賀県のレンコン栽培(10分25秒)
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2:56~13:20 佐賀県のレンコン栽培
佐賀県のレンコン栽培

●佐賀県のレンコン栽培

今回の映像でご紹介する「レンコン」の栽培が盛んな町「白石町」は、佐賀平野の一部である白石平野にあります。そのほとんどは、脊振山地から流れる大小の河川が作った沖積平野と、有明海に広がる干潟、そしてそれを干拓してつくられた干拓地で構成されています。

こうした土地は、川がもたらす栄養分に満ちた肥沃な土に恵まれていますが、その一方で水はけが悪く、耕すのも一苦労な重粘質の泥に覆われています。そのため、農業には過酷な環境でもあるのです。
それでも人びとは、長い年月と労力を費やして、こうした土地に堤防を築き、干拓し、クリーク(水路)を造るなどし、九州一の穀倉地帯ともいえる佐賀平野を築いていきました。

米のほかに、こうした土地でも作ることのできる作物として、大正時代に白石町の福富地区で始まったのが、レンコン作りです。
太平洋戦争などで一時期生産量は減りましたが、戦後復活。さらに米の減反政策が始まると、米の転換作物としても注目され、佐賀県のレンコンは「茨城県」「徳島県」に続く第3位の生産量を誇ります。
なかでも白石町は県内生産の85%を占め、現在では日本を代表するレンコンの生産地になっています。

日本におけるレンコン栽培の歴史

レンコンは非常に古い植物で、主に北半球の各地で、白亜紀の地層からその化石が見つかっています。
日本でも2000年以上昔の地層から「大賀ハス」の種が見つかっており、古くから自生していたことが想像できます。

また、レンコンは日本人との関わりも深く、美しい「蓮の花」は鑑賞の対象として、万葉集や古事記にも数多く記されており、はっきりとした栽培記録はないものの、ハスの根はその頃から食用にされていたということが分かっています。

例えば、奈良時代の正倉院に保管されていた「東寺写経所解案」にも、レンコンの記載があります。当時これらは、比較的高価な野菜として珍重されており、主に身分の高い貴族や皇族が食べていたようです。

その後、江戸時代には「河内レンコン」「岩国レンコン」「加賀レンコン」など、日本各地で食用のレンコンが栽培されています。
ただし、これらは今の私たちが食べているレンコンとは異なり、食用となる地下茎部は細く、食べると粘り気の強い在来種でした。
これに対し、現在私たちが食べているのは、明治時代に中国から輸入された中国産。地下茎が太く育つことで収穫量が多く、さらに在来種よりも浅い部分に伸びることから、栽培がしやすいということで、明治以降、急速に普及されました。 現在私たちの食べているのは、この中国産の品種を改良して生まれたレンコンなのです。

Part3 人びとが祭りにかける想い(2分45秒)
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13:21~16:05 人びとが祭りにかける想い
人びとが祭りにかける想い

●人びとが祭りにかける想い

この映像でご紹介をしている「潮塞(しおどめ)観音」の潮塞観音祭り。この観音様と祭りで踊られる「浮立(ふりゅう)」は、佐賀平野に暮らす人びとが常に直面してきた二つの苦難と関係しています。

その困難の一つが洪水。
台風などで海から堤防を越えて押し寄せる高潮は、干潟の干拓でつくられている佐賀平野の人びとにとって、大きな脅威でした。 土木技術がかなり進んだ現代でも、台風などによる高潮で甚大な被害が出ることがしばしばあります。
ましてや当時は、巨大な堤防などを造る技術に乏しかった時代。
台風などがやってくると、波は簡単に堤防を越えて高潮となり、ほとんど海面と変わらない高さに作られたこの地域の水田や住居は、その度、洪水で大きな被害を受けていたのです。

もう一つの困難は干ばつ。
佐賀平野の東端には、九州の代表的な河川「筑後川」が流れていますが、それ以外は大きな河川が少なく、日照りが続くと、直ちに干ばつになる危険がありました。
このために「クリーク」と呼ばれる水路を造ったり、干満の差を利用して有明海に流れ込んだ「アオ(淡水)」を再び取り込む「アオ取水」を造ったりするなどして、苦労しながら水を集めていました。そこまでしても、日照りが続くとすぐに水不足に見舞われていたのです。

雨が無ければ干ばつ、多く降れば洪水という佐賀平野の環境は、人びとを常に悩ませていたのです。
干ばつも洪水もなく、なんとか今年は平穏な一年にしたい。
そして実り豊かな収穫がある一年したい。
そんな想いを託して行われたのがこの地域の祭事なのです。

例えば、潮塞観音祭りが行われる潮塞観音は、「台風の被害を少なくしたい」という、この地域の人びとの想いが込められた観音様です。

もともとこの観音様は明治時代に勧請(神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)された千手観音で、当時はもっと海側に建立されていたものだといわれています。
しかし、大正3年、この地域は台風で、高潮に襲われます。その際、観音様も流されてしまいますが、高潮はかろうじて町をのみこまずに止まり、この地域は大きな被害を免れたといいます。
そして後日、その高潮の止まった位置から、この千手観音が掘り出されます。以来「潮を塞いでくれた観音様」ということで潮塞観音と名づけられ、潮が止まった位置に現在の観音堂が建立されたのです。

そしてこの潮塞観音祭りでは、子どもたちによって民俗芸能「浮立」が演じられます。浮立はこの祭りだけでなく、県内各地の祭事で演じられる伝統芸能です。
有名なのは佐賀県鹿島市を中心に行われる「面浮立(めんぶりゅう)」。
鬼面を付けた踊り手の一団が、太鼓や笛などを囃しながら舞いを披露します。

人びとが祭りにかける想い

現在、浮立は五穀豊穣などを祈願するものとされていますが、もともとは「雨乞い」の踊りだったとの説もあります。この地域を定期的に襲う干ばつを避けるために始まった行事なのでしょう。

浮立のルーツは室町時代に流行した「風流踊」といわれています。
この風流踊、「風流」という語感から、現代では「おちついた優雅で趣のある上品なもの」をイメージするかもしれませんが、当時は「派手で豪華でキラキラとしたもの」を指していました。
よって、風流踊でも趣向をこらした、派手できらびやかな扮装の人たちが、集団で笛・太鼓・鉦・鼓などの伴奏にあわせて踊る、娯楽のための踊りとされていました。
それが京都や奈良などで大流行。貴族や武家、町衆、近郊農民の若衆が中心となって、趣向をこらした踊りで競うようになります。 これが日本各地、主に西日本を中心に広く伝わることになるのです。

例えば各地に残る「花笠踊り」などもこうした風流踊の一形態。
また、私たちがお盆に踊る「盆踊り」や、歌舞伎の祖といわれる「出雲お国のかぶき踊り」も、この風流踊がルーツの一つといわれています。
こうして風流踊は各地に伝播していき、特に農村部では、この踊りの太鼓や鉦の響きが雷鳴に似ていることから、雨乞いの踊りとして演じられるようになったのです。

佐賀県の民俗芸能である浮立も、こうした流れの中にあります。
風流の文字はいつしか浮立という漢字に変わりましたが、趣向をこらした扮装の人たちが、集団で笛・太鼓・鉦・鼓などの伴奏で踊るという形態は、まさに風流踊の要素をよく残しています。
例えば、佐賀県武雄市の「袴野面浮立(はかまのめんぶりゅう)」は、元亨元(1321)年、武雄一帯の干ばつを期に始まったという記録があります。
また、有田町の喧嘩浮立「ドテマカショ」も、江戸時代の干ばつがきっかけだといわれています。
こうしたことからも分かるように、白石町に伝わる浮立も、この地域で困難の一つとされてきた干ばつを解消するため、雨乞いの意味で始まったものだと想像できるのです。

映像にあるように、子どもたちに引き継がれていく潮塞観音祭りの浮立。
その中には洪水と干ばつという、二つの災害に長年苦しんだこの地域の人びとの願いと想いが込められているのです。

Part4 白石タマネギ(3分2秒)
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16:06~19:07 白石タマネギ
白石タマネギ

●白石タマネギ

レンコンと並ぶ白石町の特産品が「タマネギ」です。
タマネギというと一般的には北海道や兵庫県淡路島が有名ですが、佐賀県は北海道に続く全国第2位の生産量を誇ります。
佐賀県産のタマネギの半分以上は、白石町で生産されており、日本でも有数のタマネギ生産の拠点なのです。

この地域でタマネギの生産が始まったのは、昭和30年代後半頃のこと。
それまでは、米と麦の二毛作を行っていました。
しかし、この頃から日本は高度成長期となり、主食であった米や麦中心の農業から野菜など園芸作物の栽培へ急速に転換し始めます。
さらに、アメリカなどの海外から大量に安い小麦が輸入され、日本における麦の生産は急激に減少していきました。
こうした状況を受けて、白石町では麦の代わりにタマネギが作られるようになったのです。

白石タマネギ

白石町のタマネギの特徴は、春から秋にかけて長期出荷ができることです。最早生品種の出荷が3月中旬から始まり、その後は早生、中生、晩生と品種をリレーして10月までの長期間にわたって出荷されていきます。

実は、タマネギは寒さに弱い作物で、最大の生産地である北海道では、その苗は厳しい北の冬を越すことができません。
このため、北海道のタマネギは春植えて秋に収穫し、冬にかけて出荷されていきます。
しかし、温暖な佐賀県では、タマネギの苗は充分に冬越しができます。
ですから、米の収穫が終わった秋に苗の植え付けをし、冬を越して、ちょうど北海道のタマネギの出荷が終わった春頃から出荷を開始。
北海道産が出荷されない時期に、その穴を埋めるように、秋まで出荷することができるのです。
このように、出荷量第1位の北海道産と第2位の佐賀県産が、時期をずらして市場に供給されることで、私たちは年間を通じて、安定的にタマネギを食べることができていて、生産農家としても無用な産地競合を避け、安定的な経営が望めることになります。

また、白石町のタマネギはその味にも特徴があります。
白石町がある佐賀平野の土は、ミネラル分が豊富な重粘土質。そのため、栄養価が高く、生で食べても甘くておいしいタマネギが生産できるのです。

Part5 福富神社とおくんち(9分5秒)
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19:08~28:12 福富神社とおくんち
福富神社とおくんち

●福富神社とおくんち

映像でご紹介している「福富神社」は、現在の白石町に合併された「旧福富町」にあります。
旧福富町の歴史は古く、江戸時代初期(1560年)頃、この地域に流れる「六角川」の干潟が干拓され、人びとが農業を始めたことにはじまります。
福富神社は江戸時代、元禄10年(1697年)にこの地域の安全や五穀豊穣を祈願して創建されました。
秋には、この神社でもっとも重要な例祭「おくんち」が行われます。

おくんちといえば「長崎くんち」「唐津くんち」「博多おくんち」が有名ですが、これ以外にも長崎県、佐賀県、福岡県などの九州北部では、このような秋の例祭をおくんちあるいはくんちと呼び、各地の神社で行われています。
白石町でも、福富神社だけでなく「妻山神社」「六角神社」「稲佐神社」でおくんちが行われています。

くんちの語源は、九月九日の重陽の節句にちなんで「九日」とするものや、秋にその年に収穫されたものを神に捧げることを意味する「供日」からきているとするものなど諸説あり、はっきりとした語源は分かっていません。
また同じくんちといっても、祭りの形態に特にきまった形がないことから、収穫を感謝する祭りである秋祭りを、いつしかこの地域では通称「くんち」「おくんち」と呼ぶようになったと考えるのが正しいのかもしれません。

福富神社とおくんち

●佐賀インターナショナルバルーンフェスタ

佐賀インターナショナルバルーンフェスタは、毎年11月に、佐賀市の嘉瀬川河川敷で行われる、来場者数80万人を超えるアジア最大級の熱気球のフェスティバルです。
この期間中、ここには100機以上の熱気球が集合します。競技を行うだけでなく、動物や人気アニメのキャラクターの形をした大きなシェイプド(変形)バルーンの展示や、ミュージシャンによるコンサートなどのイベントも開催。うまかもん市場やふるさと物産館では、地元産の食や名産品を楽しめます。

Part6 デコポンとは(7分54秒)
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28:13~36:06 デコポンとは
デコポンとは

●デコポンとは

デコポンとは本来「不知火(しらぬひ)」という品種のなかでも、糖度13度以上、クエン酸1.0%以下などの「全国統一糖酸品質基準」をクリアしたものにその名を付けることができる、登録商標、いわばブランド名です。

日本では明治以降、柑橘を掛け合わせて、新しい品種を生み出す試みが数多く行われてきました。

デコポンも、こうした品種改良の試みから生まれた品種の一つです。
1937年、静岡市にある農林水産省果樹試験場興津支場で、以前から日本にあった「温州ミカン」と、ネーブルの変種である「トロピタオレンジ」を掛け合わせ、温州ミカンの食べやすさや育てやすさと、オレンジの香りや甘さを兼ね備えた「清見」という品種が作られました。
そして1972年、長崎県の農林水産省果樹試験場口之津支場で、この清見に「ポンカン」を掛け合わせ作られたのがデコポン(不知火)でした。

しかし、当初このデコポン(不知火)は、ポンカンにも時々現れていた果梗部にできるコブ(通称デコ)が嫌われ、栽培も難しかったことから品種の登録もされず、本格的な栽培も行われませんでした。
ところが、実は食べてみると非常においしいということで、熊本県の不知火地区から栽培が始まり、これをきっかけに全国各地で栽培が広がります。

ところが、品種登録もされていない苗木から栽培が広がってしまったので、その果実には各地でさまざまな名前が付けられ、販売されます。
そのため、当然、市場や消費者から、分かりにくいという声が上がってきます。
そこで1993年、全国の柑橘関係農協県連合会を通じて、一定の基準(糖度13度以上、クエン酸1.0%以下)をクリアして出荷された不知火を、「デコポン」と呼ぶことにしたのです。

デコポンとは

●佐賀県の柑橘栽培

佐賀県では明治の中頃から、温暖な気候を利用した「温州ミカン」の栽培が行われるようになりました。
撮影でもご紹介している太良町や、唐津市、鹿島市、佐賀市(旧大和町)、多久市、小城市などで、現在も盛んにミカンの生産が行われています。
しかし、1970年代、温州ミカンを中心とした柑橘類の生産は、全国で生産が過剰気味になり、たたみかけるようにグレープフルーツやオレンジの輸入自由化が始まったことで、一時期は大変厳しい環境になっていました。

こうした環境に対して、佐賀県のミカン産地では、映像でご紹介した「デコポン」のような新たな品種への取り組みを行ったり、「ハウスミカン」のように栽培法を改良したり、「さが美人」に代表される温州ミカンのブランド化に努めたりなど、さまざまな対策を行ってきました。

とくに最近は、唐津市などを中心に、ハウスミカンの栽培に努め、その生産量は全国1位を誇っています。
ハウスミカンは文字通り、加温されたハウスの中で育てられた温州ミカンのこと。
露地で栽培されるミカンが秋口から3月にかけて出荷されるのに比べて、佐賀県産のハウスミカンは、露地ミカンが終わった4月から10月にかけて、時期をずらして出荷できることが特徴です。

また、佐賀県で生産された温州ミカンなかでも、糖度の高さ、酸味のほど良さ、そして見た目の良さなど、ある一定の基準を満たしたものは、「さが美人」の名前でブランド化して販売されており、他の商品との差別化につながっています。

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