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Vol.22 武蔵野台地に今も息づく開拓者たちの農業遺産 ―埼玉県―

川越イモとして親しまれているサツマイモや、越谷の伝統野菜とされるクワイなどを生産し、今でこそ開発が進み一大農産地となった埼玉県。
三百年もの昔、まだ荒れ野原で水も無かったこの土地を開拓し、くる日もくる日も土と向き合ってきた先人の根性と粘り強さが、開拓の歴史を紡いできました。

Part1 埼玉県の概要(4分1秒)
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0:00~2:34 プロローグ~武蔵野台地に今も息づく開拓者たちの農業遺産~ 埼玉県編
2:35~4:01 小江戸・川越、いもせんべい
埼玉県の概要

●埼玉県の概要

今回の映像の舞台は関東地方のちょうど中程に位置する埼玉県です。
面積としては3,798平方キロで47都道府県面積順位としては39位と、決して大きな県ではありませんが、埼玉県は東京のベットタウンとして急速に発展したこともあり、人口は「東京」「神奈川」「大阪」「愛知」に続く全国第5位。
県の経済力を表す「県内総生産」でもこれらの都県に続く第5位と、日本の都道府県の中では有数の規模を誇り、今ではすっかり都会的なイメージが定着しています。

しかし現在でもその面積の20%は農地。
(現在農地が県の面積の20%以上なのは、47都道府県でも「茨城」「千葉」「佐賀」とこの「埼玉」だけです)
大消費地である東京と隣接するとういう好条件を背景に、野菜の生産量では全国第7位。
さといも、こまつな、小麦、花き、茶などで全国トップクラス生産量を誇る立派な農業県でもあるのです。

埼玉県の概要

●埼玉の地勢と気候

埼玉は関東地域のほぼ真ん中あたり、したがって海のない内陸県で、神奈川県以外の関東地域すべての都県に隣接しています。
地形としては南北に狭く、東西に広い台形のような形。
千葉県に接する東側は、利根川や荒川・中川などの川が作った沖積平野が広がります。
先にお話ししたように、埼玉県は海のない内陸県ですが、県の面積に対する河川面積割合では日本一。埼玉は「川の国」とも呼ばれているほど、河川の流域面積が大きい県でもあるのです。
中央部分は関東ローム層に覆われた「武蔵野台地」「大宮大地」などの台地が続いています。
そして山梨県側に接する西側は、関東地方と中部地方を隔てる関東山地に属する秩父山と、その盆地である秩父盆地が広がる山岳地域となっています。

今回の舞台になる「川越」、三富新田が広がる「三芳町」と「所沢市」は、この埼玉県の中央部に広がる「武蔵野台地」に。
クワイの産地である「越谷」は県の東側、中川が作った「沖積平野」の中に。
そして細川紙(ほそかわし)と呼ばれる手すき和紙の産地「東秩父」は、「秩父山地」の中にあります。

気候的には東側の低地と中央の台地は、太平洋側に属していますが、気温が上がることで有名な熊谷に代表されるように、関東の中でも、どちらかというと温暖で雨の少ない「内陸性」の特徴があります。
西部に広がる秩父地域は山岳気候で、平地に比べて気温も2〜3度低く、冬が長く続いて山間部ではかなりの雪が降ります。また夏は雷雨が多く発生し、降水量も多いのが特徴です。

埼玉県の概要

●埼玉の農業

埼玉県は、先ほどもお話ししたように、東京などに通勤する人たちのベットタウンという側面だけなく、現在でも農業の盛んな農業県の一つという側面を持っています。
農業産出額は1,987 億円で全国第17位。(平成27年度調べ)
その生産の内訳は、東京に隣接する立地を生かし、全国第7位の生産量を誇る、「野菜」が1,003億円でその半分を占め、以下全国第17位の「米」が約18%、全国25位「畜産業」が約16%、全国第5位の「花き」が約9%と続いています。

もともと埼玉県は、利根川などの大きな川が作った沖積平野の広がる県。東側の低地では水田による米作りが、中央部に広がる大地では「麦」や「サツマイモ」「野菜」が作られ、秩父のような山間部では畑作と養蚕が行われていました。

しかし、秩父を中心に行われていた養蚕は、絹織物「秩父銘仙」を作り出すなど、戦後に至るまで、秩父の主要な地場産業であり続けたましたが、戦後化学繊維などの台頭によって需要が減り衰退。
また「米作」も昭和50年代まで野菜と同適度の生産高がありましたが、近年の生産調整や食の多様化による「米離れ」など、需要の減少によって生産量が減少。
逆に、東京を中心として都市での新鮮な野菜の需要が拡大。
東京に隣接する埼玉県はその立地の良さを生かして、こうした需要の受け皿として、野菜の生産量を拡大。昭和50年代には20%程度であった野菜の生産量は、平成27年度には50%以上になっています。

現在、埼玉県の主な農産物は、県内作付面積が最も広く、産出額全国第2位を誇る「ネギ」、同じく産出額全国量第2位の「ほうれん草」、産出額全国第1位の「さといも」「小松菜」、産出額全国3位の「きゅうり」「ブロッコリー」など、家庭の台所になくてはならないお馴染みの野菜が生産されているのです。

埼玉県は千葉県や茨城県と並んで、膨張を続け、増え続ける首都圏の人口とその台所を支える、一大農産地なのです。

Part2 埼玉の農業の歴史(5分21秒)
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4:02~6:06 三富新田、上富村地割絵図、三芳町上富、雑木林
6:07~9:22 5月 三芳町上富、サツマイモの苗取り
埼玉の農業の歴史

●埼玉の農業の歴史

今でこそこうして一大農産地となった埼玉県ですが、特に現在の東京に近い…東部や中央部の開発が本格的に始まったのは江戸時代になってから。
歴史的に決して古いことではありません。

そして意外にも歴史的に一番早く開発が始まったのは、山間部の秩父でした。
私たちは、「山間部」と聞くと多くの場所で人口減少が進んでいる現実もあり、あまり人の住まない、寂しい場所を思い浮かべます。
しかしそれは日本が明治以降、欧米の産業革命にならって近代化してからのこと。
実際に江戸期までの山間部は、林業をはじめとして、炭焼きを行う人、漆器などの食器をつくる木地師、イノシシやクマを狩る「マタギ」のような猟師、金銀銅などを掘る山師など、日々の生活を支えるためになくてはならない物資を調達し、また生産する拠点として、たくさんの人が住み暮らしていました。
このため、現在のように海浜の平野を中心に人々が集中していたわけではなく、むしろ秩父のように山間部がいち早く開発され、人や物が集まる場所になっていた地域も、非常に多いのです。

埼玉の農業の歴史

例えば、秩父では飛鳥時代、日本最初の銅銭である「和同開珎(和同開宝)」を作るきっかけとなった「銅」が産出されるなど、早くから開発が行われていた場所。
これに伴い、農業も早くから始まり、この時代、律令体制のもとで行われた土地区画制度「条里制」の跡が、秩父には今も数多く残っています。
また、今回の映像の後半でご紹介する、東秩父村で行われている「細川紙」の生産も、ごくわずかな人々の手によって守られ、現在ではユネスコの無形文化遺産に登録されているのですが、私たちはひなびた山間部の手仕事のように思いがちです。
しかし、特に識字率も高く一般の民衆も含めて高度な情報社会になった江戸時代では、大福帳などの記録用冊子、今でいえばノートや出版用の紙はもとより、障子などの建材として利用されていました。さらには柿渋などを塗って防水し、傘、カッパなどのような、現在でいうビニールの代わりにも使用されるなど、大変な需要があり、秩父のような和紙の生産地には、多くの人々が集まり、大量の和紙を生産する、一大生産拠点だったのです。
秩父ではこのほかにも、江戸時代から昭和初期にかけて養蚕が盛んに行われ、それを使っての織物産業が生まれ、明治には「秩父銘仙」というブランドが大ヒットするなど、関東でも指折りの主工業地帯として、農産物に直結した産業が発展していたのです。

埼玉の農業の歴史

こうして古くから開発が行われてきた秩父に対して、埼玉の東部の低地と中央部の台地では、部分的な開拓はされていたものの、大部分は放置されたまま、大規模な開発は江戸時代まで始まりませんでした。

その原因は川。 ご存じのように、この地域には「利根川」を「荒川」「渡良瀬川」など日本を代表するような大河とその支流が数多く流れています。
もちろん日本各地には多くの川があり、その地域の環境を決める重要なポイントになっていますが、これほど大きな川が交錯して流れる地域はあまりありません。
こうした大河が色々な形で、大規模な開発を阻んでいたのが、埼玉県の東部と中央部だったのです。

江戸時代まで東部の低地の多くは広大な湿地でした。
この湿原を作ったのは、もちろんこの地域を流れる何本もの川です。
当時これらの川は毎年のように氾濫して水害を起こす「あばれ川」でした。
というのも、もともとこの地域は海だった場所。それが気候の変化や土地の隆起などで、陸地になりました。そのために土地は起伏がなく平坦なのです。
こうした平坦な土地では、川は常に流れが定まらず、ちょっとした雨でも水量が増え、西に東に、自由気ままに流れを変えてしまいます。
小さな川が流れを変えるのであれば、まだ対処ができますが、ここを流れるのは「坂東太郎」の異名を誇る、まさに日本有数の大河ばかり。現代の土木技術で整備してもなお、氾濫を起こし、水害を起こしている川なのです。当時の技術で土手や堤を築いても、あっという間に流されてしまい、村や水田を維持することはできませんでした。
そのため、局地的な開発は行われたものの、大々的な開発はなかなか行われず、広大な湿原が広がる土地となったのです。

埼玉の農業の歴史

こうした状況にピリオドを打ったのが、江戸時代の徳川幕府です。
この時代、長らく続いた戦国の時代が終わり、江戸幕府という全国的で安定的な政権が始まります。
また、この時代は築城などが頻繁に行われ、土木技術が飛躍的に発達。技術的にも、利根川のような大河に挑むだけの下地ができていったのです。

そして行われたのが、家康による利根川の東遷です。
現在の利根川は、群馬県の三国山脈から関東平野の東、茨城県と埼玉県の県境を流れ、そして千葉の銚子で太平洋に注いでいます。
しかし、この時代まで利根川の流れは、現在の江戸川の流れとほぼ同じ、東京湾へ注ぐ大河だったのです。そのため、徳川のお膝元となった江戸も、この暴れ川である利根川の脅威にさらされていました。幕府としてはこうした水害の憂いを早急に振り払う必要があったのです。
また、湿地は整備をすればいい水田になります。当時の江戸幕府は、関ヶ原から大阪夏の陣・冬の陣を経て、ようやく一応の安定をみましたが、まだまだ諸藩の力は大きく、そのためにも幕府の経済力をより高めることが必要でした。
さらに、年々人口が増える江戸の食料事情を考慮すると、その根本となる米の増産が求められ、新田開発を行う必要がありました。
こうしたさまざまな要因から、利根川の整備は急務だったのです。
加えて、当時、貨物の運搬手段として最も重要だったのが水運です。
関東を縦に貫く利根川を整備すれば、現在の高速道路に匹敵する一大物流幹線を、関東平野に誕生させることができるのです。

埼玉の農業の歴史

そこで行われたのが東京湾に注いでいる川の流れを、銚子に向かって曲げる「利根川東遷事業」だったのです。
江戸時代初頭から始まったこの事業は、まず現在の茨城県古河市に当たる場所で、利根川と並行していた赤堀川や渡良瀬川の流れる方向へ向きを変えさせて、海への出口を東京湾から銚子に変更します。また、利根川へ流れこんでいた、荒川も切り離し、荒川そのものの流れを安定させるなど、この地帯の川の流れを総合的に整備し制御する大工事が行われました。
この「利根川東遷事業」が完成したことで、ようやくこの地域に安定して人の住める環境が誕生。また埼玉や江戸周辺に広がっていた広範囲な水害を防ぐとともに、農業のために「見沼用水路」のような用水路も整備され、この地域は関東の一大穀倉地帯へと変化していくのです。

今回後半でご紹介している「クワイ」の生産も、この開発があってこその産物。
クワイの別名である「田草」が表しているように、クワイは水性多年草で水田の中などに生える植物。実際の栽培も水田で行います。
米だけでなくこうした作物も、この事業のおかげで栽培できるようになったといえるでしょう。

埼玉の農業の歴史

さて、もう一つ、中央部の台地も川の作り出した地形です。この一帯の台地は、これらの川が作った河岸段丘の上に残る段丘面。もともとこのあたりは、富士山などの火山が噴火してできた分厚い関東ローム層でした。
こうした土地を荒川などの何本もの川が侵食し、深い谷を作ったことで、台地となり残ってしまったのです。

こうした台地もやはり水が問題になって、開発が遅れてしまいます。
実は関東ローム層は非常に水を通しやすい性質を持っています。このために地表近くに水を留められず、地下水もかなり深いところにあります。さらに、そばに川は流れていますが、谷は深く、台地のはるか下。
そのため、台地の上は飲料水にも困るほど水が不足しており、江戸時代までは葦や雑木の生える原野が広がっていたのです。

こうした原野で開発が始まったのも江戸時代初期のこと。
その一つが今回の映像でご紹介している「三富新田」などの、川越藩による、武蔵野台地での新田開発です。

武蔵野台地は荒川と多摩川に挟まれた台地。
西東京一帯と埼玉県の所沢、入間市などが含まれる広大な台地。
その北端になるのが川越です。

もともと川越地域は関東武蔵野国のちょうど中程にあり、軍事的にも重要なポイントでした。
そこで江戸時代にも江戸防衛の拠点として、老中など幕閣の中枢を務めるような、徳川にゆかりの深い譜代大名が、川越藩藩主として配置されていきます。

この川越で新田開発を最初に始めたのは、三代将軍家光に仕え重用された老中、松平信綱。川越藩の5代藩主です。
信綱は川越藩主となってすぐさま、武蔵野台地に広がるこうした荒地を、新田として開発する事業に乗り出します。
しかし、やはりその開発の障害となったのは、不足している水の問題でした。

埼玉の農業の歴史

そこでまず考えられるのは、用水路を開削し、水を引いてくること。通常こうした用水を引くことは、それなりにノウハウが必要です。
しかし、藩主信綱は「知恵伊豆」とも呼ばれた、有能な人材。幕閣にあっては、それまで苦戦していた「島原の乱」を平定し、武家書法度を改正。鎖国を行い、その後の徳川幕府の体制を固める重要な役割を担った人物。川越藩主となってからも、街の区画整理や、江戸との舟運のために河川を改修。その後、川越の街の繁栄の基礎となる多くの善政を行った人でもあり、さらに江戸を水不足から救うため、用水である「玉川上水」開削工事の総指揮を老中としてとるなど、こうした土木工事にも精通した人物でした。
玉川上水に関しては、これを設計したのも、自分の家臣である川越藩士安松金右衛門ですから、藩の中にもこうした土木開発のエキスパートが揃っており、用水の開発はまさにお手の物。さっそく先に完成させた「玉川上水」の小平に分水地点を作り、現在の埼玉県新座市にある野火止まで、全長25キロの用水を計画します。
こうして作られたのが「野火止用水」。
用水の開削は順調に進み、玉川上水では全長43キロの用水を作るのに約半年かかりましたが、この用水は全長25キロを約40日で作り上げています。
そして、この野火止用水の開削のおかげで、野火止周辺の新田開発が進み、この地域に4つの開拓村が作られるのです。

とはいえ、この川越周辺の地域すべてがすぐに開発されたわけではありません。
というのも、これらの土地はたしかに農地ではありませんでしたが、周辺の農民にとっては、肥料などに使うための下草を刈る入会地として使用されていました。
この地域は畑作がメイン。
畑作は水田とは違い、常に多くの肥料を必要としています。特にこの地域は土地も痩せていて、こうした肥料のもとになる下草は、農民たちにとって非常に重要なものでした。ですから、こうした土地が開発されてしまうと、肥料が得られないことになってしまうのです。
しかし、農地であれば検地などもされるため所有者がはっきりしていますが、入会地のような場所はその所有権がはっきりしません。そのため、こうした荒地の開発を進めようとする藩と、もともと周辺に住んでいた農民たちとの間で、その土地の所有権に関して争いが起こってしまったのです。
結局その争いは50年以上も続き、幕府の評定で決着が着くまで、新田開発のペースは停滞することになります。

それが再び加速するのは、信綱の2代あと、柳沢吉保が川越藩藩主として川越に入ってからのことです。
柳沢吉保は、5代将軍綱吉の側用人として重用された人物。もともと将軍の幼少期、そのそばに遣える小姓となり、そのまま将軍に重用され、次第に幕閣のなかでその地位を高め出世し、最後は老中など幕閣政治の中心的な地位を確立。まさに前川越藩藩主となった松平信綱と同じコースをたどり川越藩主になっています。

埼玉の農業の歴史

さて吉保が藩主となったのは、この地域の土地争いにちょうど決着がついた年。さっそく吉保は、さらなる新田開発に取りかかります。
それが「三富新田」。
「三富新田」は川越の南、先に新田開発が行われた新座市の間に挟まれた、現在の埼玉県入間郡三芳町上富と、同県所沢市中富・下富に広がる地域。
ここには、まだ約1,400ヘクタール、東京ドーム約300個分が入るほどの広大な土地が、やはり入会地のような形で残っていました。
もちろん、ここでも水はありませんから、当初、吉保は新座市の野火止まで来ている「野火止用水」を延長し、ここまで引いてくることを考えていたようです。
しかし、それは技術的に困難だったようで、この区域に11箇所の深井戸を掘ることで対応しています。
そして、「上富村」「中富村」「下富村」の3つの村に分け、近隣の武蔵野周辺から集めた合計241戸の農民をここに入植。現在に続いている「三富新田」が完成するのです。
ただ、こうした台地はもともと土が痩せているために、開拓事業は非常に難しい面がありました。
実際に「三富新田」でも、2年後の検地ではあまりにも土地が痩せて作物ができないので、向こう5年間の年貢が免除されたほど。
当時は「麦」や「雑穀」「蕎麦」「大豆」が主な産物でしたが、やはり水不足もあって思ったほど収穫ができず、開拓農民は非常に苦しむことになるのです。

こうした台地農民を救ったのが、今回の映像でご紹介をしている「サツマイモ」です。
水が無く痩せた土地でもよく実る「サツマイモ」がこの地方にもたらされることにより、ようやくこの地域は、安定した農業を行うことができるようになったのです。

Part3 三富新田の形態とサツマイモの歴史(10分46秒)
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9:23~11:24 東松山市、唐子神社(お諏訪様)、下唐子獅子舞 
11:25~16:45 ベニアズマの収穫、世界一のいも掘りまつり
16:46~20:08 上富まつり、ベニアカの収穫
三富新田の形態とサツマイモの歴史

●短冊型の区画

今回映像でご紹介している「三富新田」の特徴は、なんといってもその区画の形と配置です。
三富新田では、開拓民は間口40間(約72m)、奥行き375間(約675m)という縦に細長い短冊状の区画が一コマとなり、これを幅6間(約11m)という広い道路を挟んで向かい合わせに配置しています。
こうした開拓農地の区画配置は、松平信綱が行った野火止エリアの新田開発でも行われており、武蔵野台地の新田開発ではよく取り入れられていた区画の方式。現在でも、西東京を貫く青梅街道沿いでは、荻窪から小平にかけて、こうした道を挟んで短冊状に配置する区画が、数多く残っています。
さて、このような区画と配置は、全国的に見ると農地ではなく、人の多く住む街の再開発でよく用いられた方式です。
例えば、京の鰻の寝床と呼ばれるような町屋の並びもそうですし、黒田官兵衛が整備した博多の街並みも、このように道路を挟んで向かい合わせの短冊状に区画を割っています。
商店が多い街では、表通りに家が面していることは非常に重要です。表通りは人々が行き交うだけでなく、物の運搬などにも便利です。誰しもが表通りに面して、家を配置したいのです。
こうした願いを数多く実現するためには、当然ながら、間口を狭めて、数多くの家を並べられるようにするのが効率的です。
例えば、100mの道に、同じ面積の家を並べるとして、道路沿いに間口1mの幅の家を並べていけば100軒並びますが、間口10mの家を並べてしまうと10軒しか作ることができません。
京の町屋も、京都が平安貴族の住む街であった時は、碁盤の目にそって大きな家が並ぶ街並みでした。時代が下がって多くの貴族が没落し、一般の商家が建ち並ぶようになってから、こうした細い短冊状の区画が道に沿って並ぶ、町屋の形態に変化したといわれています。京の町屋で間口が狭いのは、一般的に税金が間口の広さで決まったからだそう。
しかし、豊臣政権以降の街づくりで、博多や広島でこうした区画作りが行われたことを思うと、むしろ街の経済的効果や生活効率を考えた区画割りとして行われていたということができそうです。
いわば、当時の土地開発手法として、こうした細い短冊状の区画整備は、一つのスタンダードな方法だったのです。

三富新田の形態とサツマイモの歴史

しかし、これが農地の区画配置となると、この地域ではともかく、全国的にはあまり多くはありません。

このような形で開拓地がつくられたのは、この地域の農業が基本的に畑作中心であったからだと思われます。
当時多くの新田開発は、やはり水田を整備することがメインでした。水田では、田に効率的に水をため、さらにその水を次の田へと流していく必要があり、どうしても水の流れと地形に合わせた区画でつくっていかなければなりません。そのため、水田は水田でまとまっているほうが効率的で、さらにその形も、その地形の描く等高線に合わせて曲線を描くことになります。
その最も顕著な例が棚田の風景。さまざまな形の田んぼが、斜面の等高線に合わせるように、曲線を描いて並んでいくことになります。幾何学的に水田を配置することは、現代のようにポンプなどで強制的に水の流れをコントロールできない当時の技術では、限りなく不可能に近いのです。(その後近代になり、土木技術の発展や農機具の大型化が始まることで、水田は効率の良い幾何学的な形に改良されていきます。特に昨今は、大型のトラクターなどで作業が行いやすいように、小さな田んぼを統合し、なるべく大きな四角形に改良された水田が増えてきています)

その点畑作は、水そのものは必要でも、水田のようにためたり排水したりする必要がなく、こうした条件に耕作地を合わせる必要もありません。
逆に、畑にまく水を運び、また作物の搬出や肥料の搬入などで、家の前の道に対するアクセスが重要になるため、必然的に町屋と同じような短冊型の区画になったものと思われます。

三富新田の形態とサツマイモの歴史

●持続可能な農業ができる設計

こうして短冊型に区切られた区画は1戸あたり5ヘクタール。現在、全国平均で1戸あたりの耕作面積が1.5ヘクタール、さらに明治になって開拓された北海道でも1960年ごろまでは農家1戸あたりの平均耕地面積は3.5ヘクタール(現在は農家の経営集約化が進み、北海道の耕地面積は20ヘクタール以上になっています)であることを考えると、その中に居住区を含んでいるとはいえ、かなりの大きさです。
当時一人前の男性が1日に耕せる畑が5ヘクタールといわれており、この区画の大きさはその基準に合わせて決められたとされています。
それにしても、これだけの十分な土地を用意した背景には、もともとその土地が水もなく痩せた土地で、当初からあまり多くの収穫を望めないことがわかっていたからかもしれません。

痩せた土地への対策は単に広い耕作地を与える以外にも、さまざまに行われています。
それがこの武蔵野台地の畑作地開拓事業のもう一つの特徴であり、その後、代表的な武蔵野景観を作り出すことになった、三富新田でいう「山」=「雑木林」の存在です。

三富新田など武蔵野台地の開拓では、その区画ごとにこうした「雑木林」を設置します。
三富新田では、道に面したところにまず「屋敷」を配置し、その後ろに耕作地、区画の一番後ろにこの「山」と呼ばれる「雑木林」を作り配置していました。
しかし、こうしたレイアウトは同じ武蔵野台地の開拓地ごとに違っていたようで、同じ時期に開拓された現在の小平市にある小川村では、道に面して屋敷がつくられているのは同じですが、「雑木林」はその屋敷にすぐ続いて配置されています。

三富新田の形態とサツマイモの歴史

さて、この雑木林の役割が農家にとって非常に重要であった理由は、この痩せた土地で農業をするためにどうしても多くの肥料を必要としていた、ということに起因しています。もともと畑は、常に山などから養分を含んだ水が流れ込み、一定の肥料が供給される状態の水田と違って、養分の定期的な供給が必要です。
さらに、この地域の土は作物が育ちにくい強酸性であるうえに、水がなく乾燥した台地で、強い季節風が吹くため、まいた肥料もどんどん飛ばされ土に溜まりません。このため、この地での農業では、他の地域に比べ毎年多くの肥料を必要としていたのです。
そもそも開発する以前、この地域の荒地の多くは、ここで暮らす農民が肥料となる萱や落ち葉などを採取する「入会地」でした。その重要性は、この入会地を手放すことに対し、近隣の村が総出で、川越藩と何十年もの間争っていたことにも現れています。
また、近隣の村では肥料になる萱や木の盗みに対して、盗んだものだけでなく、それを見逃した者にまで罰金を科す「掟」を作っていますから、この地域においてこの問題が非常に切実であったことが伺えます。
そのため、この地域の農地開発では、耕地と肥料のための雑木林がワンセットで作られることになったのです。そして、こうして作られた雑木林は、その落ち葉が重要な堆肥の原料となるほか、小枝などが薪として燃料になり、風の強いこの地域にとっては暴風林にもなりました。
よって、この地の農民たちにとって、この雑木林は生活と農業にかけがえのない重要なシステムとして、長い間、非常に大切にされていたのです。

ただし、こうしたいくつかの配慮があったとしても、この痩せた武蔵野台地で農業を行うことはなかなか大変だったことは、前述の通り。肥料も自前の雑木林だけでは賄えず、結局農業経営の苦しい中でお金を出し、足りない肥料を買わなければなりませんでした。
その後、江戸の街で出る人糞などを回収して使用するエコシステムができるまで、こうした肥料不足はこの地域の人々を苦しめます。

武蔵野台地の農民たちの農業が軌道に乗ったのは、それから50年後。一つの作物がもたらされることで、好転していきます。 それが今回映像のもう一つの主役、「サツマイモ」です。



三富新田の形態とサツマイモの歴史

●サツマイモの歴史

今でこそ、サツマイモは私たちにとって非常に一般的な野菜ですが、江戸時代になるまで日本には存在さえしなかった野菜です。

「サツマイモ」は1600年代に、中国から琉球に伝えられています。
それが薩摩に伝わったのは諸説がありますが、1600年の中頃には、奄美大島などで栽培されはじめ、薩摩藩にもたらされたのは1705年のこと。船乗りであった前田利右衛門が、現在の鹿児島県山川にあたる土地へ伝えたのが、始まりといわれています。

実は、鹿児島県も武蔵野台地と同じように、火山灰で作られた台地がほとんどを占める環境。水不足で水田は作れず、痩せた土地では他の作物も思うように栽培ができない状況で、江戸時代まで、農民はこうした環境に苦しめられていました。

それを救ったのが「サツマイモ」。
水不足の高温で乾燥した土地でも育つうえに、養分の少ない痩せた土地でも育ち、連作も可能という、非常に育てやすい作物。蔓を土にさせば増やせるなど、繁殖力が強いという利点や、食栄養価が高く保存もきく面からも、農家にとっていいことずくめの作物でした。

ということで、鹿児島ではあっという間に普及しましたが、当時薩摩藩はこれを藩のご禁制品として門外不出にしていたため、すぐに全国へ普及することはありませんでした。

三富新田の形態とサツマイモの歴史

この状況が変わったのが、1732年の享保の大飢饉です。
この時、西日本一帯の水田が、壊滅的な状況となりました。ところが薩摩藩は、この飢饉でも餓死者が出なかったとされています。
もちろん薩摩の農民を救ったのはこのサツマイモ。この飢饉がきっかけで、サツマイモは、急激な環境悪化があってもしっかり育ち、栄養価の高い食料となる作物であることが、人々の間に知られるようになったのです。
これに注目したのが、江戸幕府第8代将軍の吉宗でした。
彼はこの作物を、飢饉の時などに備える「救荒作物」として全国に広めるために、1735年、当時サツマイモをテーマとした『蕃薯考』という農学書を書いた儒学者兼蘭学者でもある青木昆陽に命じ、小石川薬園や千葉でサツマイモの試験的な栽培を行わせます。当初、南方系のサツマイモを関東で育てることには苦労したようですが、ついに栽培に成功。その芋を各地に配布し、大々的に栽培を奨励することになります。

武蔵野台地の村々にサツマイモが普及し始めるのは、さらに15年ほど後の1751年。
現在の所沢市にあった南永井村の名主、吉田弥右衛門によって広められます。もともと吉田家は、松平信綱のころにこの地にやってきて、所沢で開墾した開拓の家系。代々、名主として苦労しながら築き上げたのが、この村でした。
しかし、水不足の痩せた台地にあるこの村の生活は、決して楽ではありません。この苦境をなんとかしようと思いついたのが、当時関東で少しずつ栽培が広まっていたサツマイモでした。
そこで、サツマイモ栽培で先行していた千葉に向かい、種芋を貰い受け、栽培を始めたのが、この地域でのサツマイモ栽培の始まりです。

三富新田の形態とサツマイモの歴史

前述のように、サツマイモは水がなくとも、また痩せた土地でも育ち、むしろ肥料は無いほうが甘い芋が取れるといわれるほど。まさに武蔵野台地にぴったりの作物だったのです。
ただ1点問題だったのは、もともと南方系の作物であるサツマイモを、この関東の気候で発芽させることができるかという点。そのため、映像にもあるように、この地域では落ち葉で作る堆肥の発酵熱を使うことで、その課題を解決しています。
こうしたところでも、「山=雑木林」でできる落ち葉が役立つことになるのです。

千葉や埼玉あたりで盛んに作られるようになったサツマイモ。当初は飢饉などの時に食料となる「救荒作物」と考えられていましたが、江戸の庶民の間では「焼き芋」としておやつに食べられるようになり、大ヒット。何しろ、この当時世界有数の人口を誇った江戸も街ですから、その需要も膨大です。
そこで、その需要に応えたのが武蔵野台地のサツマイモでした。サツマイモはかなり重さがあるので、大量に運ぶとなると輸送が大変です。ここで、川越と江戸の舟運を結ぶために、信綱が川越の川と河岸を整備したことが生きてきます。トラックも鉄道もないこの時代、大量輸送手段は舟しかありません。武蔵野で作られたサツマイモは、川越に集められ、舟で一気に江戸へ送り込むことができたのです。
こうして川越からのサツマイモが大量に江戸運ばれたことで、「川越いも」が誕生。
サツマイモの一大ブランドとして江戸で人気になるとともに、武蔵野台地の農家の暮らしを大いに助けることになるのです。

Part4 クワイ・うどん・細川紙(13分11秒)
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20:09~21:40 さつま掘り正月、うどん ベニアカの天ぷら
21:41~22:55 12月 川越市、クワイの収穫
22:56~27:41 1月 東秩父村、道の駅 和紙の里ひがしちちぶ、紙漉き、伊勢型紙、江戸小紋染色
27:42~30:34 クズはきとフセコミ
30:35~33:19 エンディング
クワイうどん細川紙

●埼玉の伝統的農業産物1 クワイ

この映像では、サツマイモ以外に埼玉に根付いてきた農業産物を3つご紹介しています。

その一つが埼玉県の東部で作られている「クワイ」です。
クワイは別名が「田草」と呼ばれていたことからもわかるように、もともと湿地や沼地のようなところで自生していた植物。人口の湿原である水田にも自生します。
ですから、埼玉の東側、利根川などのいくつもの川がつくった湿原や、そこにできた水田は絶好の栽培場所でした。

クワイの原産は東南アジア。栽培は中国で始められたといわれ、日本には平安時代にもたらされたともいわれています。
ただし、この時代のクワイは現在とは別種である可能性もあり、現在私たちが食べているものと同じクワイが確認できるのは江戸時代から。
1704年に本草学で有名な貝原益軒が書いた、当時の野菜を解説したガイド本「菜譜」の中の、水辺でとれる野菜の項目で、この「クワイ」の栽培方法や食べ方を書いていますから、少なくともその頃には、かなり普及している野菜の一つとして、人々の食卓に上っていたことがわかります。

もちろん水がふんだんにないと育たない植物ですから、埼玉県では、江戸時代から、湿原や水田が続く東部を中心に作られていたようです。
しかし、当時はまだあくまでも水田の裏作。当時のクワイは、現在のようにおせちに必ず入れるものといった意識もなく、サツマイモのように大ブームを起こした食べ物というわけでもないので、多くの農家が特に力を入れて栽培していた野菜ではありませんでした。

実際にクワイ栽培が本格的に行われるようになったのは、明治になってから。
この頃から、冬の野菜として全国的に普及し、需要も増え、草加市や川口市・越谷市など綾瀬川や中川流域の水田農家にとって、大変重要な換金作物となったようです。
さらに昭和30年代になって、デパートなどでおせちが販売されるようになると、その芽が出ている形状から、おめでたい食材として宣伝されるようになり、さらなる需要が生まれます。
こうしたなかで生産量を増やしてきた埼玉県のクワイは、生産量全国第1位となっていくのですが、ちょうどこの時期以降、草加市や川口市・越谷市は東京のベッドタウンとして、開発の波が押し寄せます。
そのため、水田などの農地の宅地化が進み、農家そのものが減少。残った農家も、手間や難しさのあるクワイ栽培から離れ、都市で需要が増大する一般的な野菜作りへの転換が進み、生産量が減少。平成になって広島県の福山にその座をあけ渡し、現在は全国2位の生産量となっています。

クワイうどん細川紙

●埼玉の伝統的農業産物2 うどんは埼玉?

映像でもご紹介しているように、埼玉県の中部の武蔵野台地を中心に、伝統的にうどんが作られ、食されてきた歴史があります。

埼玉県中部に広がる武蔵野台地は、水がありあまる東部と対照的に、飲み水にも不自由するほど水が不足してる台地です。
そのため、今回映像でご紹介している「三富新田」など、新しく江戸時代に開発された農地は「新田」の名前が付いていても、その多くは水田ではなく、畑でした。
その主産物が「小麦」。
その後、この地域では江戸でのサツマイモブームにより、サツマイモ栽培が大々的に行われるようになりますが、それでも「小麦」の生産がなくなることはありませんでした。そのため、小麦を使ったうどんが、この地域一帯で広く食べられていたのです。

しかし、こうして家で作られる「うどん」や「蕎麦」は、映像でもご紹介しているように、つい最近までは、あくまでもお祝い事や特別な行事があるときにだけ作られる、いわばおもてなしのための特別な食べ物でした。それにしては、ちょっと意外な感じがするのではないでしょうか?
今、私たちは普通に「蕎麦」や「うどん」を食べています。それもむしろ手軽なファーストフード的な感覚で。さらに、小麦を古くからメインの作物として作っていたこの地なら、「うどん」はなおさら日々主食のように食べていたと思ってしまいます。

しかし、そうではないのです。
うどんや蕎麦など、日本の麺類を食文化史的に見ると、そこには3つの流れがあります。

1つめは都市部におけるファーストフードとしての発展です。
当時、江戸や大阪はすでに商人や職人の街。現在のビジネス街のように、忙しい庶民が仕事の合間に手軽に食事ができる飲食店が数多く造られていきます。中でもうどんやソバは値段も安く、麺さえあれば調理にはほとんど時間がかからない、まさにファーストフードですから、人気もあり、都市部では重要な外食文化として発展していきます。

2つめは、お参りで賑わう寺や神社の参道で出す、名物としてのうどんや蕎麦です。
江戸時代は、神社仏閣参りが庶民の観光旅行として大ブームになります。この時、参道でその地の名物料理として参拝客が食べたのが、うどんや蕎麦。
例えば、蕎麦であれば、出雲神社の「出雲蕎麦」、善光寺の「善光寺蕎麦」、戸隠神社の「戸隠蕎麦」、うどんであれば伊勢神社の「伊勢うどん」があります。
実は、現在の香川県でうどんがあれだけ食べられるのも、もともとは「金比羅神社」の参道に数多くあった「うどん屋」がルーツといわれています。

3つ目は小麦や蕎麦の産地の農家が作るうどんや蕎麦。
まさに、今回の映像でご紹介しているうどんは、こうした自家製のものです。日本では蕎麦やうどんの原料となる小麦の生産は少なくとも、遡れば弥生時代から畑で栽培されていたといわれています。
だからといって、蕎麦も小麦も現在のような「麺」として、こうした古代から日本人に食べられていたかというと、そうではありません。現在の「麺」が日本で普及し始めるのは。鎌倉時代以降。その頃、中国に渡って禅を学んだ留学僧が、その修行の一部として、こうした製麺の技術学んで帰国してからのこと。それまでの日本では「麺」としての蕎麦やうどんではなく、畑で取れた実をそのまま食べ、あるいは砕いで団子状にして食べることが多かったのです。

クワイうどん細川紙

その理由として、日本を代表する民俗学者である柳田國男は、日本にはその時代まで粉を細かく引く「石臼」が普及していなかったと述べています。
例えば、小麦をパンなどにして食べる食文化のあるヨーロッパでは、「小麦」はいったんその実を粉にする「製粉」という過程が必要です。メソポタミアなどでは、小麦から作るパンを古くから主食としていたため、それを作るために粉を引く「製粉」という工程がどうしても必要であり、そのための「石臼」が古代から普通に使われていました。
「石臼」はこうして、古代メソポタミアなどで生まれ、広く世界に普及し中国に伝わると、今度は多くの「中華麺」を生むことになります。
しかし、日本は小麦も栽培されていましたが、その食文化の中心は米。米は食べるときに、その実をそのままに煮たり、蒸したりして調理します。ですから、日本で「臼」といえば、蒸したお米などを餅にするためにつく木製の「臼」。これではやわらかい蒸したお米をつくことができても、硬い蕎麦の実や小麦を、細かい粉にすることはできません。そのため「製粉」という発想そのものがなかったのです。
このため、日本では「石臼」が一般的に普及することはなく、普通の農家にまでいき渡るのは、江戸時代になってからのことなのです。

よって、長らく石臼がなかった日本で、「麺」は一般的な家では到底作ることができず、当初は禅宗のお寺が客人などに振る舞う特別な料理として、普及していきます。
つまりこれが、各地の神社仏閣で振る舞われる「蕎麦」や「うどん」の始まり。
その後、石臼がある程度広まると、一般的な家でも作ることができるようになりますが、水を入れて火にかければ食べることができる「米」に比べて、「麺」は「製粉」して、こねて、切って、茹でて、さらにだし汁を作ってなど、大変手間がかかる食べ物。とても毎日作ることができる食べ物ではありません。
だからこそ都市では、これを専門的に打つことができる職人が「蕎麦屋」や「うどん屋」で作るものであり、たとえ小麦を作っている農家でも、特別な日にだけに作るご馳走であったのです。

ところで、現在埼玉県は小麦の生産でも全国5位。さらに、和風麺の生産量では全国1位(経済産業省 平成26年度工業統計調査)。
さすがに消費量では、讃岐うどんの本場香川県にはかないませんが、全国有数のうどんの産地。それは、水もなく荒れた武蔵野台地を耕してきた農家が築いた歴史の形でもあるのです。

クワイうどん細川紙

●埼玉の伝統的農業産物3 高野山生まれの細川紙

今回映像でご紹介している「細川紙」。
そもそもなぜ「細川紙」と呼ばれるのでしょうか?

日本で紙の生産が始まったのは飛鳥時代。仏教など中国の文化が大量にもたらされた時代に、紙の生産技術も日本に入っていきます。
しかし、当時「紙」は大変貴重なもの。宮廷や貴族、あるいは写経などのために仏教寺院で限定的に使われるものでした。ですから、大量生産の必要もなく、作られるのもこうした都やお寺の多い地域が中心でした。

その一つが空海の開いた密教の総本山である高野山の麓にあった細川村。現在の和歌山県伊都郡高野町細川地区です。
高野山は現在にまで続く日本仏教の一大拠点。日本において、高野山は宗教のみならず、学問の中心地でもあり、写経をはじめ多くの紙が必要になります。
そこで、こうした需要に答えるべく、その麓にある細川村を中心に作られたのが「細川奉書」「高野紙」とも「古沢紙」とも呼ばれる「和紙」です。
もともと和紙の生産には原料となるコウゾなどの栽培や、コウゾを白くするための晒しなどの工程で水が必要であり、かつ、こうした作業は低温で行われる必要がありました。このため、自然と細川村のような山間農村の、冬の副業として行われるようになったのです。

こうした紙の生産は江戸時代、庶民にまで読み書きが広まり、帳簿などの今でいうノートのようなものや、大量に発行される出版物などで必要になるばかりか、障子紙や傘など生活用品にも使用されたため、その生産量は大きく拡大。
細川村周辺でも、江戸時代の天保3年(1839)には、合わせて500戸以上の家が紙の生産を行っていました。

クワイうどん細川紙

さて、秩父でも古くから紙の生産が行われていたようで、平安時代にこの場所で作った紙が朝廷に収められていたという記録があります。しかし、その後大きく発展するということもなく、江戸時代を迎えます。
当然、日本最大の都市へと成長していった江戸では、大量の紙が必要とされていました。この需要に応えたのが秩父だったのです。

この時代、秩父には、まだ紙の生産の技術が伝えられていませんでした。そこで、先進的な紙生産技術を持つ、高野山の細川村から、その生産技術を導入。それが由縁で「細川紙」と呼ばれるようになったのです。
実は、本場高野山細川村の「細川奉書」は、明治時代に最盛期を迎え、当時は1000戸以上がその地で紙の生産を行っていましたが、製紙業が近代化され和紙から洋紙へ変わっていくなかで、急激に衰退。昭和32年にはまだ20戸が残っていましたが、平成18年頃には、ついに最後の紙漉き職人が引退し、その紙生産の伝統は潰えてしまいます。(その後、後継者の育成などが行われています)
本家では潰えた紙の生産ですが、最盛期に比べ、その生産量や生産者が激変したとはいえ、秩父には未だに7軒の工房が存続し、和紙作りを行っているのです。

現在、秩父の細川紙は、島根県浜田市の「石州半紙」、岐阜県美濃市「本美濃紙」とともに、世界無形文化遺産に登録されています。
各地に残る和紙の文化で、この3つの和紙が選ばれたのはなぜでしょうか?
その理由は、日本の伝統的な「コウゾ」を原料とする、「手漉き和紙」の製法形態を残しているからです。
明治以降、近代的な製紙工場で大量に作られる洋紙に対抗するために、和紙もその生産方法を近代化し、大量生産できるようになっていきます。ですから明治・大正時代になって、和紙の生産量を増やした地域もあります。
実際、洋紙と和紙の生産比率は大正期に逆転されますが、その後も「障子紙」などの需要があり、1960年代までは、一定数の生産がこのような近代化された和紙工場で行われていたのです。
ただし、このような大量生産をされた和紙は、いわば洋紙的な和紙。「コウゾ」「ミツマタ」などの、日本の伝統的な材料だけを使用し、手漉きで作る和紙とはからは大きく異なります。その中で、現在でも手漉きで作る和紙の技術を守っていたからこそ、この3箇所が、ユネスコの世界無形文化財として登録されたのです。
そして、たんに文化財としてだけではなく、現在も産業として残されている秩父の「細川紙」は、日本文化にとっても、非常に貴重な財産であるのです。

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