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Vol.12 人々の愛がはぐくむ茶のかおり ―静岡県―

日本人の心の山・世界文化遺産の富士山に見守られている静岡県は、土地の特徴や気候がお茶の栽培に適し、質の良い美味しいお茶が出来るため、江戸時代からお茶の名産地として知られていました。
さらに明治以降、多くの茶畑が開墾され、今も日本の茶所として、生産農家の人々のお茶への情熱が活きいきと響いています。

Part 1 プロローグ 豊かな水、茶の産地 静岡県編(1分54秒)
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0:00~1:54 プロローグ ~人々の愛がはぐくむ茶のかおり~ ―静岡県編―
プロローグ 豊かな水、茶の産地 静岡県編

日本のほぼ中央に位置する静岡県は、南側は太平洋に面した約500キロメートルの海岸線、北側には富士山など3000メートル級の山々からなる北部山岳地帯を持つ、自然の豊かな土地です。
全国平均を上回る降水量があるほか、湧き水の豊富な富士山、浜名湖、数々の一級河川などの存在により、この場所は水の都とも呼ばれています。
更には水はけと日当たりがよい土地が多いのも特徴。

プロローグ 豊かな水、茶の産地 静岡県編

こうした豊かな自然や水、土地や気候などにより、静岡県で作られているお茶は年間およそ10万トン。全国の茶園面積の40%、荒茶産出額の35%を占める日本一の茶どころとなりました。

プロローグ 豊かな水、茶の産地 静岡県編

こうしたお茶の文化や富士山の存在により海外からの観光客も年々増えており、そこにはふるさとを伝えようとする人々の活動が見られます。

Part2 日本人とお茶の出会い(3分24秒)
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1:55~2:40 静岡のお茶の歴史
2:41~4:02 駿府本山お茶壺道中行列
4:03~5:19 静岡のお茶の歴史と牧之原台地
日本人とお茶の出会い

お茶の歴史 
喫茶文化を日本に作った3人の禅僧

本編でもご紹介しているように静岡県にお茶の栽培を持ち込んだと言われる「円爾(えんに)」は京都臨済宗東福寺派の大本山「東福寺」を開山させた禅僧。
実は日本人がお茶を飲むという習慣を日本に広めたのは12世紀から13世紀に中国(当時の宋)へ留学した禅僧達でした。
ここではこうした喫茶文化を日本に広めた3人の禅僧をご紹介しましょう。


■喫茶文化を広めるために本まで書いた「茶聖・栄西」

お茶と言えば、まずなんと言ってもこの人「栄西」をご紹介しなくてはいけないでしょう。
実は「円爾」もこのあとご紹介する「道元」もこの栄西の孫弟子。 つまりこの人から始まった強いお茶への思いが、弟子達にも連綿とつながれて、今の日本のお茶文化というものが生まれたと言っても過言で無いほど。 「茶聖」と呼ばれる由縁です。

栄西は鎌倉幕府に禅を広めた人でもあります。
その栄西には有名な逸話があります。
あるとき鎌倉幕府三代将軍・源実朝がひどい二日酔いに 悩んでいました。 そこで栄西は一杯の茶を進め、さらにそのときお茶の効用を書いたマニュアル?まで渡したというのです。 そのことが当時の公式記録的な歴史書でもある「吾妻鏡」の中に出てきますからかなり信憑性のある話なのですが、さらに栄西はこの時のマニュアルをまとめ直して、「喫茶養生記」という今で言うところの健康本のようなものまで作ってしまいます。
中身はズバリ「お茶と桑の葉健康法」
特にお茶については「薬はいろいろあるけどお茶だけは万病に効くからたくさん飲みましょう」とベタほめ。 さらに現代の茶道に引き継がれている、お茶の作り方などをこの本の中で解説しています。

実はこの人は宋へ2回も渡っている当時有数の国際人。
この2回の渡航で当時最先端の仏教である禅を学ぶだけで無く、当時の中国の僧達の間で広く行われていた喫茶の習慣もしっかり取り入れていたのです。

日本人とお茶の出会い

■「円爾」は静岡にお茶を持ち込んだだけじゃ無い、そばもうどんもまんじゅうも 

静岡にお茶をもたらしたという「円爾」も栄西と同じく「宋」へ渡航した文化人。 実は円爾はこの宋から日本に多くのものを持ち込んだり、新しい事を始めたりと、なにかと「初めて日本で○○した」という逸話が多い人なのです。
その筆頭が「そば・うどん」
実際そばやうどんはそれまでに日本でも食されていたのですが、円爾はそばやうどんの粉を水車の力で砕いて引くという「製粉技術」を持ち込んで、これらの製法に革新的な進歩をもたらしたことになっています。
さらに自分が休んだお茶屋に「饅頭」の作り方を伝えたという逸話も。
そしてなんと言っても勇壮な舁き山が出ることで有名な祭り「博多祇園山笠」も円爾の発であると言われています。

ところで円爾が静岡でお茶の栽培を広めたということについては定かな資料があまりありません。
ただ晩年彼が京都から自分の故郷である駿河に戻り「医王山回春院」という、いかにも体に良さそうな名前のお寺を建て暮らしていたこと。すでに「そばやうどん」などを日本に持ち込んだ人と称されていること。そして茶聖である栄西の孫弟子で、茶の効用を説く禅の教えを受けていたことなどが、こうしたストーリーを自然に連想させたものと思われます。

日本人とお茶の出会い

■お茶を戒律にまで組み入れた禅を作った「道元」

さてここにもう一人、栄西の孫弟子でやはり宋へ渡航して禅を勉強した人がいます。
それが「道元」
今も禅の大きな一派である「曹洞宗」で有名な「永平寺」を作った禅僧です。

実はこの3人には渡航する共通の思いがありました。それは当時の天台宗・比叡山を中心とする仏教への不信・不満。
すでに朝廷を中心とする権力と強い結びつきを持っていたこれらの宗派の人々は、修行や勉学よりも当時の朝廷を巻き込んだ権力争いに明け暮れていました。
当然、若く理想に燃える若者達は、こうした仏教の乱れに憤りを感じます。
「ほんとうの教えとはこのようなものでは無い」「本当の仏教を自らの力で取り戻したい」こうした思いが「栄西」「円爾」「道元」を宋へ渡航させた一番の理由なのです。 (実際栄西は西遊記の玄奘三蔵のようにインドへの渡航計画まで実行しようとしていました) こうした思いに駆られた3人が中国で出会ったのが禅の教えだったのです。

特に道元が中国で悟ったのが「日常の行いそれ自体がすでに仏道の実践である」という禅修行の真の姿でした。
こうしたことから、座禅や経典の勉強と言ったことだけで無く、日々の「料理を作り、食べる」ことや「お茶を飲む」といったことも重要な修行であると言う考えにつながっていきます。
このために道元は喫茶、行茶、大座茶湯(だいざさとう)などの茶礼をはっきり経典の中に明記し、日々の中でお茶を飲むということを一つの修行として実践させていきます。

これがしだいに僧から当時の武家へ、そして町人へと広がり、そして茶道や日々お茶を嗜むという日本人の習慣へつながって行くのです。

Part3 牧之原台地の茶畑(5分29秒)
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5:20~7:12 赤堀家の家族全員会議
7:13~10:49 茶樹の手入れ
牧之原台地の茶畑

明治維新という大きな構造改革の中で、一番大きな変化に見舞われた人達といえば、やはり「武士」。
藩という大企業の終身雇用サラリーマンとして、いくつかの問題は有ったにせよ、安定した雇用を保障されていたはずの武士達の多くがこの時代、職を失い、人生設計の変更を否応なしに求められることに。

こうした武士達の受け皿となったのが、各地で行われた開拓でした。 日本全国でこの時期、こうした武士達による開拓が一斉に始まります。
例えば北海道の石狩、関東の千葉など、現在日本の農業地帯として、日本の農業生産を支える土地の多くは、この時期の開拓によってできています。 この牧ノ原台地も、旧徳川幕府の旗本達によって切り開かれた台地です。

その中心人物は「中條金之助」
北辰一刀流の使い手で、幕府の部下訓練所の 剣術教授方というのですから、剣豪としても超一流。最後は徳川慶喜を警護する精鋭隊の隊長として、最後まで徳川慶喜に付き添い、徳川家が江戸から駿河に移されるとともに、この駿河にやってきます。

牧之原台地の茶畑

しかし明治の時代、徳川慶喜を警護する部隊は不要となり、「中條金之助」以下数百名の隊員は一挙に路頭に迷うことになります。
隊員達の職を何とかしなくてはならない。 そこで思い立ったのがこの牧ノ原台地の開拓でした。

当時の牧ノ原台地は旧徳側幕府の直轄地ではありましたが、台地のため水がなくほとんど なく、荒れ地として放置されていました。 しかし、放置されている土地でも勝手に開墾して言い訳ではありません。 新政府や新しく出来た静岡藩(県)に許可を得る必要があったのです。
このとき、彼らを支援したのが維新の立役者の一人「勝海舟」。 かれは当時、旧徳川家や旧幕臣の再就職の世話や資金援助などに尽力していました。 こうした援助もあり、明治2年7月、「中條金之助」のもとに集まった約250戸の元幕臣たちによって牧之原荒野の開墾が開始されたのです。

しかしこうして新たに開拓される土地というのは、それまで何かしら不利な条件があって、そのまま放置されてきた土地。 必ず多くの困難がつきまとい、これを克服できずに失敗に終わった開拓も多いのです。
この牧ノ原台地も水不足の上、養分の少ないやせた台地のため、茶の生育も遅く、開拓はかなりの困難に直面していました。

こうしたときに重要なのは開拓団をまとめるリーダーシップ。
不利な条件の土地で生きていくためには、なるべく多くの人々で助け合いながら、組織として問題に立ち向かう必要があります。 こうした点でも「中條金之助」は優秀だったと言います。それまでほとんど農業など縁の無かった人々をまとめるために取り決めや仕組みをつくり、最後は株式会社をつくり、お茶の輸出や紅茶の生産までも構想していたと言います。
こうして2年後の明治4年には500ヘクタールの茶園を造成。 これが現在日本でも有数の茶所となった牧ノ原台地の礎となりました。

牧之原台地の茶畑

さてこうして始まった牧ノ原台地のお茶づくりですが、その後も数々の困難に直面しています。その中でも一番の問題点は水。
牧ノ原はすぐそばに「大井川」が流れていますが台地のため、高低差があり、その水を簡単に利用することが出来ませんでした。 このために溜池を作ったり、日頃から雨水を水槽にためておいたりなど工夫はしていても、いざ日照りが続くと、これだけではとうてい足りず、遠く台地の下に流れる大井川の流域まで水を求め、これを台地の上まで運ぶという重労働をくり返していたのです。

こうしたことから「牧ノ原に用水を」という人々の願いは非常に強いものでした。

こうした人々の願いを受けて、昭和53年度ついに、牧之原の広大な茶園地帯に、国営の牧之原農業水利事業が着手されることになります。 そしてついに牧ノ原農業用水が完成。総延長80km余りの水路が台地の茶園地帯を潤すことになるのです。
それは「中條金之助」達がこの地に入植して実に125年後、平成9年のことでした。

Part4 御船神事 (2分44秒)
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10:50~13:34  大江八幡宮の御船神事
御船神事

「牧ノ原の御船神事」
海に囲まれた日本。日本各地には、この牧ノ原地域で行われる「船神事」のように「船」をテーマにした祭事が数多く行われています。
しかしその多くはご神体を船に乗せて水の上を運んだり、やってくる神を船で迎える「船渡御(ふなとぎょ)」と呼ばれるタイプの行事が主。船は当然のことながら、移動の手段として祭りの中に登場します。

例えば有名な大阪の最大の夏祭りであり「日本三大船行事」に数えられる、大阪天満宮「天神祭」では、現在は上り50艘、下り50艘の合計100艘の船が出て、海上パレードを行い、さらに花火や七夕祭り、「ギャル神輿」まで出る総合観光イベント。この祭りは、もとはと言えば、天満宮の神が天満宮から出て、その目的地である「御旅所」へ「神」をお乗せして運ぶ船団と、その「御旅所」へお迎えするために出された地域の氏子達が乗る船が途中で出会い、「御旅所」へ神をお送りするという「船渡御(ふなとぎょ)」がその本来の祭礼の中心にあります。

しかし牧ノ原各地の御船行事と言えば少し趣が変わってきます。 御船神事も基本的には、ご神体が各地の「御旅所」を巡るという形式を取っています。 しかしご神体が巡っていくのは陸上だけ。 移動は人が担ぐ、普通の神輿です。

御船神事

それではこの地域の「船」はどのような役割をしているのでしょうか。
実はこの地域の祭りに参加する船には大きな特徴があります。 それはリアルに作られた樽廻船と菱垣廻船の模型であること。 決して神輿や他の船行事で用いられるような華美な装飾を施した船ではありません。
また映像で見られるように、船は実際の航海の様子を再現するように、帆柱を起こし、帆を張り、出帆し、そして荒海を乗り越えていくように、大きく揺さぶられながら、ご神体を先導していきます。
そこで行われるのはまさしくリアルな航海のシミュレーション。 つまり牧ノ原の「御船神事」がここで行っているのは実際の船とそれを操船する技術を、陸の上の神様に見て頂き、守って貰うための奉納だったのです。

御船神事

現在ではその後の鉄道や車の運搬が主となった物資の輸送ですが、江戸時代から明治の初めまでは船による海上輸送が主流でした。
ここ牧ノ原の沿岸にも天然の良港が多くあり、特に江戸時代は掛川藩の主要な港として 江戸へ米やお茶を運ぶ重要な拠点として栄えていたのです。
こうしたことから江戸時代にこの地域の産業としての海運の発展と安全を祈願するために生まれたのがこの祭り。 古くからの自然崇拝的な祭礼でも無く、祖先への畏敬でもなく、農耕への感謝と祈りでも無い、当時新しくできた海運という産業と操船というテクノロジーを、従来からいる神に新たに守って貰う。
江戸時代は現在日本各地で行われている様々な祭りが確立した時代。
この時代には従来の祈りの伝統を引き継ぐだけでなく、こうした新しい祈りも始まっていたのです。

Part5 茶畑でのお茶づくりについて(2分51秒)
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13:35~14:54 晩秋・来年に向けた茶樹の手入れ
14:55~16:26 新春・新たな願い
茶畑でのお茶づくりについて

お茶の栽培について

お茶の木の栽培・育成から、茶摘みを行い、さらにそのお茶を荒茶やパッケージにした製品にまで仕上げるお茶農家は、一般的な米や野菜をつくる農家とはかなり違った作業がもとめられます。
こうしたお茶農家の特徴的な仕事のいくつかをご紹介します。


■摘採=茶摘みという収穫は1回ではありません。

なによりお茶農家が一般的な農家と違うところ、それは収穫が1回で終わらない点です。多くの作物では収穫は基本的には1年に1度。 しかしお茶は常緑樹である「お茶の木」の若葉を収穫するのですから、若葉さえ出させることができればいつでも収穫できるのです。

そこで冬を越えて春一番4月から5月頃にその年最初の摘採「1番茶=新茶」を収穫。
一番茶の収穫から45日程度あと、5月下旬から6月かけて「二番茶」を収穫
7月下旬から8月下旬にかけて「3番茶」
9月に「4番茶」を収穫。 場所によってさらに10月から11月にかけてもう一回収穫する地域もあります。

この中ではもちろん「一番茶=新茶」がとかく「新米」「新そば」「初鰹」など「新」や「初」のつく食べ物が好きな日本人ですから最も高値になります。
確かに一冬じっくり時間をかけて成長した「一番茶」の新芽にはアミノ酸成分が多く、この意味では最もうまみ成分の多いお茶ということになりますが、実際お茶のおいしさはアミノ酸だけでなく、カテキンやそのほかのお茶の成分によってきまります。 こうした成分は日照時間が長く、気候の良いときに生成されるので、2番茶3番茶に多く含まれることに。どのお茶にもそれぞれの良さがあるのです。

茶畑でのお茶づくりについて

■土作りも年間通じて

1年に何度も若葉を育て、摘み取るということは、その分なんどもお茶の生育を促進させなければならなくなります。
このために、お茶畑には収穫前の2月頃から収穫が終わる秋まで、毎月のように肥料を与えることが必要になります。 しかしこのことで問題も起こっています。
従来こうした肥料は周辺の草や堆肥を使用していましたが、近年新茶のうまみ成分がアミノ酸である事が発見されたため、その成分を増やす「窒素肥料」を必要以上に大量に投下する傾向が起きるようになりました。 「窒素肥料」はすべて植物に吸収されれば問題が無いのですが、土に残留するとそれが動物に有害な硝酸態窒素へ変化します。これが溶け出して飲み水の水源を汚染すると、深刻な問題を引き起こす可能性があるのです。 さらに過剰な硝酸態窒素は茶の木の根の生育も阻害。根の生育が阻害されると、肥料の吸収が悪くなり、さらに大量の肥料が必要になるという悪循環をもたらします。
そこで現在お茶農家ではこうした「窒素肥料」に過度に頼らない栽培に向かって、様々な努力をしています。

茶畑でのお茶づくりについて

■世界農業遺産に認定された静岡県の「茶草場農法」は「サステナブル」で「エコ」な土づくり

こうした点からも、今見直されているのが、「茶草場」を利用したお茶づくりです。
「茶草場」とは茶畑の周辺にススキなどの生えた半自然の野草地を作り、ここで秋に枯れたススキや笹を刈り、冬の間に、細かくしてお茶の木と木の間の畝間に刈敷きを行う伝統的農法です。 畝間に刈敷きされたススキや笹は、敷かれたことでまず茶の木を保温します。実はお茶は南方系の植物で、寒さが大敵。冬の寒さから守ることは非常に重要な要素です。
そしてススキや笹は有機物として微生物によって分解され養分となり、お茶の木に吸収されて肥料になるだけで無く、さらに微生物を増やすという循環を行い、土壌の保肥力・保水力を増加させていきます。
さらに注目されているのは、こうした半自然の野草地が多くの生き物をやしない、自然界の生物多様性を維持してくれると言うことです。 実はこうした農法は静岡県だけなく、広く全国で行われていました。しかし手軽に購入できる肥料が使われるようになって、草刈りや裁断など手間が余分にかかるこうした農法は次第に減少。いつしか日本各地から消えてしまったのです。
しかし、前述のようにこうした肥料での栽培は決して好循環を生まず、どこかでその反動を受けることになります。 こうした農法は継続的に農業を維持するために、きわめて優れた農法であり、自然界の摂理にかなったエコシステムだったのです。
こうした点を評価され、静岡県の「茶草場農法」は2013年に「世界農業遺産」に認定されました。

Part6 さくらえび、その他の名物(3分46秒)
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16:27~20:44 4月末 桜えびの干潟
20:45~20:13 春・一番茶の収穫(摘採)
さくらえび、その他の名物

静岡にはお茶の他にも数多くの特産品があります。
その内の一つが、桜エビ。静岡県のみで漁が行われているため、漁獲量はもちろん日本一。駿河湾で漁が行われています。
元は透明ですが水揚げすると透き通ったピンク色になることから名前が付いたこのエビは、体長わずか4~5cmほど。豊富に栄様素を含んでおり、食卓では良くご飯に合わせてその色合いと共に愉しまれています。

さくらえび、その他の名物

映像にもあるように、桜エビを干す季節、富士山の麓で河川敷一面がピンク色に染まるその景色は圧巻です。

さくらえび、その他の名物

そのほか漁獲・生産ともに日本一位を占めるかつおや、全国有数の産地であるメロン、ミカン、天城の郷土料理でもある猪肉など、魚・果物・野菜・肉と幅広い分野での特産品が静岡県で作られています。

Part7 工場でのお茶の製造工程(荒茶)(4分25秒)
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20:14~22:57 ECOファーマー相良赤堀園での荒茶製造工程
22:58~24:39  相良総合センター「い~ら」おやじバンドはらの虫チャリティーコンサート
工場でのお茶の製造工程(荒茶)

お茶の製造

お茶農家が他の農家と最も違うところは、収穫するだけなく加工して「お茶」(荒茶)という製品にまで仕上げる点。
つまり茶畑で良い茶葉を育てるだけ無く、それを摘み取った後で、乾燥した「茶葉」にするという生産技術も求められると言うことです。
ここではその「荒茶」を作る工程から特徴的な作業を解説します。

■まず発酵を止めるために蒸す「蒸熱」

摘まれた茶葉は摘まれた時から酸化酵素が働いて発酵が始まります。りんごの皮をむいてほっておくと茶色くなる。あの現象が発酵です。この発酵を更に促進させて作るのが「紅茶」。
緑茶はその名の通り緑の水色(お茶の色)が命。発酵を蒸して止めて緑色を残すことが大前提です。 通常は20秒から50秒程度蒸しますが、これをその倍の時間蒸したのが、牧ノ原で生まれ、今全国的に注目されている「深蒸し茶」。 牧ノ原台地は日照時間が長く、カテキンなどのお茶の有効成分を多く持つお茶が生まれます。しかし逆にカテキンは渋みももたらすため、これを和らげるために生み出されたのがこの方法。
長く蒸すことで渋みがやわらぎマイルドな味わいに。しかもお茶の有効成分が多いと言うことで、非常に注目されているのです。

工場でのお茶の製造工程(荒茶)

■乾燥のために「揉む」

いったん蒸して冷まされたお茶の葉は、今度は乾燥させるために「揉む」という作業に入ります。 揉む作業は、従来は人が「手」で行ってきましたが、現在は人の手の動きを高度にシミュレーションした機器によって、機械化されています。
しかしこれは機械化されたと言っても、 粗揉(そじゅう)→揉捻(じゅうねん)→中揉(ちゅうじゅう)→精揉(せいじゅう) と何段階もわけて行われる緻密な作業。 紅茶では、乾燥機に掛けて高温で乾燥させてしまうこの作業を日本茶はこうして何段階にもわけて揉み出すという、非常に手間のかかった方法で行うのです。
そこには日本茶の持つお茶への美学のようなこだわりがあります。
お茶を点てるとき、なるべくお茶を摘んだ時の美しい状態に戻したい。そのためには葉はなるべく美しく広がり、そして美しい緑色を保ちたい。 日本人は味とともに、こうした美的な感覚をお茶に求めたのです。
このためにはお茶中の緑を発色する成分クロロフィルを壊さずに保つことが重要でした。 しかしクロロフィルは温度に弱く、高温では組織が壊れ、葉は変色して赤くなります。 しかし逆に低温過ぎるとこんどは植物の青臭さが残ってしまいます。 緑が残り青臭さが消える適温。
実はこれが34度から35度まさに人肌の温度だったのです。 そこで人の「手」でゆっくり揉みながら水分を抜いていく方法が考え出されました。

工場でのお茶の製造工程(荒茶)

現在ではこうした温度管理もコンピューターがきめ細かく対応出来るようになり、機械でも手もみのような乾燥が実現できるようになりました。
しかし名人と言われる人達の手業はさらにそのときの温度や湿度、お茶のコンディションによって、繊細に手もみの加減を変えて行くことができ、さらに奥深いお茶のおいしさを引き出していきます。

Part8 お茶の製造工程(手もみ茶)(7分1秒)
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24:40~27:18 手揉み茶づくり
27:19~29:13 赤堀家の団らん(新茶を楽しむ)
29:14~31:41 エピローグ 牧之原台地の大茶園
お茶の製造工程(手もみ茶)

お茶の種類はワインのよう?

従来日本茶はあまりに日常の飲み物として、普通の存在だったからでしょうか「宇治茶」など古くからブランド化されたお茶以外は「煎茶」などの大まかなお茶の種類が表示されているだけで、そのお茶の産地などを細かく指定して飲むと言うことはありませんでした。
しかし実はワインやコーヒーと同じく、日本茶もお茶の葉が育てられた地域お茶の木の品種、収穫の時期、製法など、細かい種類があり、あるいはもっと細かく畑の生産者、生産技術によっても、それぞれの要素の違いでお茶の味は大きく変化します。
つまりワインやコーヒーのように、日本茶も自分の好みの味を、こうした様々な要素を組み合わせることによって、見つけることができる、非常に奥深い飲み物なのです。 ここではそんなお茶の味を決めるいくつかの要素を解説します


■産地そして生産者による種別

例えばワインではボルドー地方のボルドーワインがあるように、日本茶にも現在は多くの地域ブランドがあり、それぞれが特有の味を持っています。
例えばおなじ静岡茶でも、「牧ノ原」は台地の特性を生かして、日当たりのよい茶畑で育ったお茶はまろやか。これに対して大井川中流の「川根」エリアは斜面で山霧なども発生し、日差しが適当に遮られるために「うまみ」や「渋み」が特徴とまるで違うお茶ができあがります。

さらにお茶はお茶の葉の生産者がお茶の葉から水分を取り除く乾燥作業をして「荒茶」をつくる一次加工まで行います。
最近はコンピューター制御の機器を使用した近代的な加工技術が普及して、昔ほど大きな差は出なくなりましたが、やはりお茶は味覚という非常に微妙な感覚が要求されるものですから、生産者ごとに味の差が出てくるのです。

お茶の製造工程(手もみ茶)

■お茶の木の種類による種別

本編で紹介された「やぶきた」のようにお茶の木の品種によっても、お茶の味は当然違ってきます。
煎茶用の品種では「やぶきた」があまりに優秀だったため、日本各地の茶園の主力品種となっていますが、そのほかにも、もともと紅茶用に開発されたのち、アレルギーを抑制する可能性があるメチル化カテキンを豊富に含むことで緑茶用茶葉として注目を浴びている「べにふうき」や甜茶用の品種「さみどり」玉露用の「うじみどり」など様々な品種があります。


■茶の摘み取り時期による種別

お茶にはお米などの収穫と違って、1年のうちに数回お茶の葉を摘み取る事が出来ます。この中でその年一番初め、例えば静岡ではだいたい4月から5月に摘みとる葉を「新茶」「一番茶」といい、次の二番茶は一番茶から大体45〜50日後、さらに35〜40日後の三番茶、秋に摘む秋番茶と続いて行きます。
実はこれはインドなど海外で紅茶用に収穫されるお茶の葉も同じで、紅茶用では一番茶にあたる「ファースフラッシュ」二番茶が「セカンドフラッシュ」秋摘みの茶葉を「オータムフラッシュ」と呼んでいます。 日本では「新米」や「新そば」のように「新」がつくものが喜ばれ「新茶」に対してもなんとなくその年の一番良いお茶のように解釈していますが、お茶の場合はそう単純ではありません。

たしかに「新茶・一番茶」には冬の間に養分が蓄積され2番茶よりも旨みの成分のアミノ酸が多く含まれているために、それ以降のお茶の数倍の価格で取引されています。ですが、実際には2番茶にも、今お茶の成分として最も注目されているカテキンなどの成分が一番茶より多く含まれるなど、良い部分がたくさんあるのです。
また紅茶茶葉の場合セカンドフラッシュがファーストフラッシュよりも一般においしいとされています。

お茶の製造工程(手もみ茶)

■製造法による種別

紅茶やほうじ茶などのように、明らかに製法が違うものだけでなく、おなじ緑茶でも製法によっていくつか種類があります。
一番オーソドックスなのが「煎茶」茶葉を蒸してもみながら乾燥させたお茶。
おなじ製法でも3番茶以降の茶葉や茎なども使用した「番茶」
茶葉の蒸し時間を倍以上のばした「深蒸し茶」
茶葉を摘み取る前に直射日光を遮って栽培することでうまみ成分を増やしてつくる「玉露」「かぶせ茶」など製法でもいろいろなバリエーションがあります。

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