埼玉県

02.三富新田、開拓の歴史と三芳町の川越イモ作り

サツマイモの苗取り

Vol.22

Ep.02

「三富新田(さんとめしんでん)」とは、江戸時代に川越藩主・柳沢吉保によって開発された武蔵野台地の新田で、上富・中富・下富の総称です。

元禄7年(1694年)、長年土地争いが繰り返されてきた北武蔵野の地は、幕府の判断で川越藩の領地であることが認められ、柳沢吉保が新田開発を始めます。元禄9年(1696年)に検地が行われ、上富91戸、中富40戸、下富49戸による新しい村が誕生。水が少なく、風は強く、地力の乏しい武蔵野台地開拓の集大成、三富新田です。

農民は栄養分が少なく水はけの悪い赤土に大量の堆肥を投入し、三富全域で11ヶ所の深井戸を掘って共同利用することにしました。しかし日照りの時には水が枯渇し、数㎞離れた柳瀬川まで歩いて水を汲みに行ったとか。

また、季節風が畑の乾いた赤土を舞い上げて「赤い風」となって吹き荒れるため、畑の畦にウツギや茶の木を植えて防風。厳しい自然の中で、当時の開拓農民たちは根気よく土地を耕し続け、作物の収量を上げていきました。