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Vol.11 島を愛し、郷土を愛す ―愛媛県―

黒潮が流れ込む温暖な宇和海に抱かれた島「九島」には、現1,155名の島民が柑橘類の栽培と養殖を中心とした漁業で生活を営んでいます。 この島民の生活を支えてきたのが、農協が運航してきた珍しいフェリー「第八くしま」. 昭和27年に運航開始以来、島民の脚として、また生活物資を運ぶライフラインとして活躍してきました。

Part 1 プロローグ~島を愛し 郷土を愛す~ 愛媛県編
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0:00~2:15 プロローグ~島を愛し 郷土を愛す~ 愛媛県編
プロローグ~島を愛し 郷土を愛す~ 愛媛県編

四国地方に位置する愛媛県は、北川は瀬戸内海に面し、南西部は宇和海に面して200余りの島々を抱え、また南側は西日本最高峰の石鎚山がそびえる自然に恵まれた地域です。

プロローグ~島を愛し 郷土を愛す~ 愛媛県編

ミカンの花が県旗のモチーフになっているなどミカンの生産が盛んで、特に伊予柑の生産量は日本一。全国シェアの約8割を担っています。
そのほかキウイフルーツや養殖まだいなどの農林水産物をはじめ、タオルやしょうじ紙等といった工業製品にも全国1位を誇る特産品があります。

プロローグ~島を愛し 郷土を愛す~ 愛媛県編

また日本三古湯の1つとされる道後温泉があることや、その温泉がある松山で暮らした夏目漱石の体験を元に書かれた「坊ちゃん」でも知られている地域です。

Part2 宇和島概要(8分39秒)
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2:16~3:28 宇和島概要
3:20~9:21 宇和島 九島、第八くしま 一日の流れ
9:22~10:55 二十四輩様
宇和島概要

宇和島の歴史、そして農業

九州と四国をはさんだ宇和海に面した、宇和島市。現在、人口約8万人。愛媛県西南部の中心都市です。 ここは急峻な山々が、入り江と半島が複雑に交錯した典型的なリアス式海岸のすぐそばまで迫る起伏の多い複雑な地形。 平地は少なく、決して農耕に適した土地ではありません。
しかし、ここは九州と四国を結ぶ海上交通ということは重要な拠点となる地域。 そのためか歴史に登場するのも早く、4世紀前半、垂仁天皇から景行天皇およびヤマトタケルがまだ大和朝廷が日本を統一しつつある時代に制定された地方領主の称号の一つとして「伊予宇和別(いようわわけ)」という名前が作られています。特にこの時代は、ヤマトタケルが九州の熊襲を平定する「西征」の物語が「古事記」や「日本書紀」で語られるように、九州にはまだ大和朝廷に対抗する勢力が残っていた時代。これらに対抗する意味でも、海上交通としてだけでなく軍事的な拠点として、その重要度は高く評価されていました。
その後も宇和島は「藤原純友の乱」で藤原純友が本拠地(宇和島の対岸の日振島)とし、またその後も数多くの戦国大名ここに居を構え四国から西国の覇権を争うことになります。
そして江戸時代は伊達政宗の庶子「伊達秀宗」を開祖とする「伊予伊達藩」10万石の城下町となるなど、幕末まで宇和島は四国の重要な地域として存在していたのです。

宇和島概要

さて前述のように宇和島周辺地域は一方を宇和島海に開き、三方を山に囲まれた場所。
太平洋を流れる暖流「黒潮」の一部が流れ込んでくる影響で温暖ですが、一部の盆地を除いて、多くの場所が山からすぐ海に落ち込む急な傾斜地で、さらに大きな河川も無いために水利の便が悪いため、決して農業、特に米の栽培にはあまり適した土地ではありませんでした。
そのためこの地方では畑作が中心。
傾斜地に数多くの「段々畑」が作られ、麦や雑穀、江戸時代後期に入るとサツマイモなどが、栽培されてきました。 そしてこの段々畑のある風景が今も宇和島地域の代表的な景観となっています。

宇和島概要

この宇和島の農業に画期的な変化をもたらしたものが「温州ミカン」(一般的な手で皮をむくことができるみかん)を中心とした「みかん」の栽培です。
もともとみかんは江戸時代から紀州や静岡で栽培されていましたが、明治以降、愛媛県の各地で栽培が始まります。 宇和島周辺は温暖な気候の上に、急な斜面が逆に幸いして、日当たりが良く、また水はけも良いために、ミカン栽培には適しており、1970年代には収穫量日本一となるまでに生産が拡大していきます。
本編で紹介されている「九島」の代表的な農産物も「みかん」などの果樹栽培。島の斜面に作られた段々畑で、多くの「みかん」が栽培されています。

Part3 郷土料理(3分3秒)
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10:56~13:26 九島の郷土料理
13:27~13:59 納涼盆踊り
宇和島のグルメ

宇和島のグルメ

リアス式海岸が続き、入り江と半島が複雑に交錯する起伏の多い複雑な地形を持つ宇和島では、かつて交通の便が悪いことから自給自足を原則とした生活が営まれていました。
そうした事からも、この地には海の幸、山の幸を活かした幾つもの郷土料理が生まれます。

宇和島のグルメ

例えば「丸鮨」は、お米でつくるすし飯の代わりにおからを使い、それを酢でしめた鯵などの小魚を巻いて作ったもの。季節によって、イワシ、アジ、アマダイ、サヨリ、小ダイなど、旬の魚で味わえるこの地域ならではの保存食です。

宇和島のグルメ

その他にも宇和海でとれた小魚を、骨ごと皮付きのままスリミにして油で揚げた「じゃこ天」や、油揚げに魚のすり身を巻いて蒸した揚げ巻きなど、宇和島には代表的な郷土料理が数多くあります。

Part4 水荷浦の段畑(2分15秒)
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14:00~14:41  遊子水荷浦の段畑
14:42~16:15   じゃがいもの植え付け
水荷浦の段畑

四国 石積みの段々畑と棚田

もともと四国は高く険しい山脈こそないものの、本州・九州・北海道などに比べると平地が少なく、中山間地域が85%以上しめるという、傾斜地や山間部が非常に多いエリアです。 このために農業も、耕作の容易な平野部だけでなく、圧倒的に効率の悪い、斜面や山間部を利用することが求められてきました。

そこで自然と多く作られることになったのが「棚田」や「段々畑」。
実は日本の棚田のうちその総面積の45%はここ四国と中国地方に集中しているのです。

水荷浦の段畑

また急斜面を階段状に耕作して作られる四国の「棚田」や「段々畑」その特徴の一つが本編で紹介される「遊子水荷浦の段畑(段々畑)」に代表される「石積み」です。
石積みはこの急斜面から、少しでも多くの収穫を上げるための工夫の一つ。 収穫量を上げるために、広い場所を確保しようとすると、どうしても急な斜面から大きく張り出した土地を作らなければなりません。 当然一番張り出した先端部分(地元でこの先端の垂直面を「ギシ」とよんでいます)は高く土をもる必要があり、強度が必要になっていきます。
このために石壁として強度を補強する必要があったのです。
実際石積みのギシにすることにより耕地面積は約20%増加すると言われています。

水荷浦の段畑

また東日本にくらべ西日本には古くから「石積み」の技術が発達し、多くの土木作業に使われてきた歴史がありました。
特に九州・四国・中国から近畿にかけては、大陸からの様々な文化の伝来もあって、石積みの歴史が古く、これが戦国時代、織田信長の安土城から始まったと言われる城郭の「石垣」へと続いていくのです。
ちなみにその安土城の石垣を作ったという「石積み」専門の技能集団「穴太衆」の一派である「粟田家」はもともと四国阿波の人であったという言い伝えもあるようですから、四国はやはりこうした石積みの歴史が蓄積され「石積み」の「棚田」や「段々畑」を増やしてきたのかもしれません。

Part5 永長の大草履(2分18秒)
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16:16~18:34 永長の大草履
永長の大草履

村と村の境に置かれた「大草履」

本編で紹介される「大草履」を村境などに置く風習は「道切り」「辻きり」などと呼ばれ日本全国に古くから有る民俗習慣の一つです。
日本では古くから村の境を「災い」や「疫病」をもたらす魔物や神がやってくる入り口と考えていました。
そこで、そこからこうしたモノの侵入を防ぐために、例えば今回のような「大草履」や「しめ縄」を付けたり、あるいは「道祖神」を置いたりなどして、これらの侵入を防ぐこの「道切り」という風習が起こり、今も広く全国的に残っているのです。

永長の大草履

例えば愛媛県北部では「サエノカミ(塞の神)」という道祖神のような石仏や石のご神体を地域の境や山の峠の祠などにお祀りするという風習として残っています。

永長の大草履

またこの宇和島周辺では「オニノコンゴウ」(鬼の金剛)と呼ばれる行事があります。
この行事では正月の16日頃、その年最初の念仏を唱える「念仏はじめ」として寺などに集合し、「家内安全」や「五穀豊穣」を祈るとともに、「金剛草履」等と呼ばれる大きな草履をわらで作り、村の境となっているような「道」「川」のたもとに付けたり、吊るしたりすると言います。

Part6 宇和島の離島(4分40秒)
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18:35~20:10 伊予柑の収穫、出荷
20:11~22:00 九島小学校 6年生を送る会
22:01~23:15 九島診療所
宇和島の離島

宇和海に浮かぶ「海賊の島」と「猫の島」

宇和島の周りに広がる「宇和海」はリアス式の複雑な海岸線に囲まれた、黒潮の流れ込む穏やかな海に、本編でご紹介した「九島」のような島々が浮かぶ美しい海です。
ここでは本編で紹介された「九島」以外の宇和島の離島の中からいくつかご紹介しましょう。

■「海賊の財宝伝説のある島 日振島」

藤原純友の財宝が、今も隠されているという伝説の島。それが日振島です。
現在、宇和島市に属する人の住む5島のうちの一つである日振島は、人口343名(平成22年度統計)今はハマチなどの養殖を主体とする静かな漁業の島です。
しかし、この島は古くは海賊の島として、そして平安中期、「平将門の乱」とともに時の朝廷を揺るがせ、その後、権力の中心が武士階級へ移っていくことのきっかけともなった「藤原純友の乱」の舞台となった島なのです。
もともと九州との距離も近く、また瀬戸内海への入り口でもある日振島は海路の要衝。 こうした利点に目をつけたのが、平安時代に出現し、その後、水軍となって瀬戸内海周辺に勢力を伸ばしていくことになる「海賊」達でした。 その海賊を平定するように時に朝廷から派遣されたのが藤原純友。彼はこの日振島で地域の海賊数千名をほとんど武力を使わず平定します。
これで終われば、藤原純友は朝廷側の地方官僚の話として、歴史に名前が残る事はほとんど無かったかもしれません。 しかし彼は数ヶ月後、なんと平定した海賊達を逆に自分の配下として、この日振島を本拠地に朝廷を無視した動きを始め、ついには瀬戸内海全域から九州太宰府までをその影響下に置くようになるのです。
これが貴族の時代から武士の時代への発端となった「藤原純友の乱」。
同時期に起こった「平将門の乱」は数ヶ月で終結しましたが、こちらは約2年間も戦いを継続。 しかし最後には九州で朝廷との戦に敗れ、藤原純友はここ日振島に戻ってきたところを討ち取られることになります。 このとき藤原純友は九州の太宰府などで奪ってきた財宝をこの日振島のどこかに隠したと言うのです。
まさしく海賊伝説。
「海賊」=「隠し財宝」という夢物語は古今を問わず、また万国共通。 人々の創造力を大きくかき立ててくれます。
もちろん、その財宝は現在もまだ見つかっていませんが、ここ日振島には今でもその時代の屋敷跡・海賊達の物見台と言われる場所も残り、海賊のロマン漂う島でもあるのです。

宇和島の離島

■鼠の脅威にさらされた島 戸島

戸島は本編でご紹介している「遊子水荷浦」がある、宇和海に突き出した蒋淵(こもぶち)半島のさらに先にある島。人口361名(平成22年)やはり現在はハマチの養殖などを主な産業とする島です。やはり美しい宇和海に囲まれた、静かでのどかな島。 しかし戦後間もない昭和24年頃この島は、ある小さな動物のために、大変な脅威にさらされることになります。
それは「鼠」
その頃この島の人々は島周辺の海に数多く生息する鰯を利用したイリコ(煮干し)づくりと島の斜面を遊子水荷浦のように段畑にして、小麦やトウモロコシを作る半農半漁の生活。 もちろんそれまでは鼠などほとんどいない島でした。
それが突如どこからともなく鼠が海を渡って襲来。島の段畑の農作物や大量に干されているイリコを餌に、また段畑の石積みを格好の巣穴にして、あっという間に数を増やし、推定50万匹ともいう数に増えてしまったのです。 それはもう鼠を踏まないでは浜や道を歩けないという表現がオーバーでないほどの大発生だったとか。

もちろんこの事態に人々も「殺鼠剤」「罠」「猫やイタチ、フェレット」などの天敵を島に放つなど対抗策を講じますが、ほとんど効果がありません。 結局島から鼠がいなくなるまでに数年の歳月が必要でした。 それも、数々の鼠駆除策が成功したからでは無く、人々が諦めて段畑の耕作を辞めてしまったことと、折しも鰯が不良になりイリコづくりが減少したために、鼠の餌が無くなった事が原因だったといわれています。
それでは餌の無くなった鼠はどうなったのでしょう。そうです、鼠は再び海を渡って移動を開始したのです。 このためにまずとなりの「日振島」など周辺の島に鼠が襲来。さらに昭和30年代には、遊子水荷浦など四国本島側の地域まで鼠は進出。各地の段畑が被害を被り、その段々畑での栽培を減少させるきっかけとなってしまいました。
さて、今の戸島はその騒動が嘘のような静かな島。もちろん鼠はいなくなりましたが、島に残ったものもあります。それが猫。当時数千匹が島に放たれたと言います。同時期に放たれたイタチやフェレットなどは残念ながら島の生活に定着できませんでしたが、現在も島民の人数以上の数の猫がこの島に残っていると言われています。

宇和島の離島

■たった一人の生徒がいる小学校がある竹ヶ島

宇和島周辺で現在最も島民の少ない島が「竹ヶ島」島民わずか48名(平成22年度)真珠の養殖を主な生業とする、定期便の航路さえもない小さな島です。
今日本各地では児童の減少から町や村にあった小学校が廃校に追い込まれていますが、なんとここ「宇和島市立竹ヶ島小学校」は現在生徒数1名、教員1名ながら立派に存続しています。(平成25年現在)
「宇和島市立竹ヶ島小学校」の創立はなんと明治11年。以来130年以上、この小さな島の教育や文化の中心施設として島の人々の心と生活を支えているのです。
しかし数年後にはこの生徒も卒業。村の小さな小学校の行く末が案じられます。


■昭和40年に無人化してしまった「御五神島」

先に小学生が一人になってしまった竹ヶ島をご紹介しましたが、それでも「竹ヶ島」には真珠養殖という産業もあり、人々がしっかり生活を営んでいる元気な島。 しかし宇和島近隣の海には、最近まで人が住みながら放棄され、いまや無人島になってしまった島もあります。
それが「日振島」と「竹ヶ島」の間にある「御五神島」(おいつかみじま)。
周囲約5キロ、「竹ヶ島」が周囲3キロですから十分居住可能な大きさ。 そのために近年でも明治と昭和の計2回この島への入植が行われています。

明治の入植はかなり短期間で終わってしまったようですが、昭和の入植は戦後の復員対策としてかなりの規模と支援体制で始まりました。 周辺は現在でも非常に多くの魚が生息する豊かな漁場。 それを利用して、ここではサワラなどの1本釣り漁と段畑によるサツマイモ栽培を中心に半農半漁の生活が営まれていました。 人口も一時は住人が100名近くまで増え、小中学校、最後には火力発電所まで完成。 しかし昭和40年人々はこの島を去る決断をします。
その要因はやはり「鼠」の被害と台風などの災害と言われています。
さらに折しも昭和40年代は高度経済成長期。 どんどん都市部が便利になる中で、なにかと不便が多い離島の生活に、人々は希望を見いだせなくなっていたのです。
このほかにも「御五神島」のような入植事業は戦後の復員対策として、瀬戸内海の島を中心に、数多く実施されました。
しかしその大半の島が昭和40年代・高度経済成長期に、再び無人島化しているのです。

Part7 段畑 段畑の歴史(3分42秒)
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23:16~25:02  段畑の歴史
25:03~26:58 じゃがいもの収穫
段畑 段畑の歴史

宇和島の段々畑は何処へ かつては宇和島周辺の海岸や島々を覆うように存在していた段々畑。
しかし現在「遊子水荷浦の段畑」のような特徴的な段々畑はあまり見る事が出来なくなっています。
そこにかつて植えられた作物の変遷を通して なぜ段々畑が見られなくなったのかを考えてみます。

■サツマイモが段々畑を作り、段々畑を養う。

段々畑が宇和島周辺の沿岸部や島々を覆い尽くすようになったのは、江戸時代の後期1700年代から1800年代にかけて。
宇和島藩の記録を見ても1600年代に比べ、この周辺の耕地はこの時期に一気に面積が倍増しているのです。
耕地が倍増した原因は人口の増加と言われています。 もともとこの地は周りに豊かな漁場となる海があり、小魚など動物性のタンパク源には不足しませんでしたが、耕地が少なく、かつ水資源にも恵まれないため主食となる穀類がいつも不足。 このために江戸時代、何度か襲った飢饉ではいつも多くの被害を受けてきた土地柄でもあるのです。
そこに救世主として現れたのが「サツマイモ」でした。 1700年代になって、この地に九州からもたらされたサツマイモは、やせた土地でも、また水がなくとも良く育つため、栽培が容易。 また飢饉などの異常気象にも強いと言うことで、あっという間のこの周辺の主要作物となり、そして主食となります。
こうして安定的な栄養源が確保されたことでこの地域の人口は増加することになるのですが、人口が増えれば当然さらに作物が必要ということで、今まで利用されていない土地、すなわち多くの斜面までが畑になり、サツマイモを中心にした段々畑が作られるようになったのです。

こうしてこの地域の主要な作物となったサツマイモは、昭和40年代まで、主食の一つとしてこの地域の人々の生活を支えるとともに、段々畑の存続も支えていたのです。

段畑 段畑の歴史

■段々畑の終焉は、半農半漁の生活の終焉

しかし段々畑によるサツマイモの栽培は、戦後の全国的な圧倒的な食料不足であった時代などを除くと収入という面ではあまり大きな富をもたらすものではなく、人々の生活はあくまでも「半農半漁」の生活が中心。男性が海に出て、女性や年寄りなど海に出ないものが畑を見るという生活が基本でした。
しかしこうした生活は明治の時代になり、経済や社会の構造が変化することで大きく様変わり。段々畑も大きく変わっていきます。
その最初が明治の近代化を支えた絹産業。近隣に大きな紡績工場が出来たため、この地域でも養蚕が盛んになり、段々畑はその餌となる桑畑に変化しました。 この養蚕によって人々は一時期、非常に豊かになったといいますが、しかし絹産業が世界恐慌とともに一挙に衰退することで、人々は段々畑を再びサツマイモやそのほかの作物に変えざるを得なくなります。

こうした中で次第に数を増やしていったのはミカン栽培でした。
段差のある斜面は、日光が差し込みやすいだけなく、石積みの輻射熱を発するとともに、周囲の温度を保つので温暖な気候を好むミカンの栽培には絶好の条件。
宇和島周辺には明治初期から導入され昭和初期に一端一大発展をとげたあと、戦中戦後の食糧難のために、一時期サツマイモなどの栽培にもどったものの、昭和30年代から再び隆盛を取り戻し、日本の一大生産地となっていくのです。
今回映像で取り上げられる「九島」の段々畑も多くはミカンを中心としたものです。 人々は今までの半農半漁の生活から、農業専業の形態へ、また段々畑はサツマイモなどの畑から、果樹園へと変化したのです。

段畑 段畑の歴史

■漁業の変化も段々畑を少なくしていく

段々畑は農業の変化だけで無くなっていった訳ではありません。
ミカン等の栽培が盛んになっても、実はサツマイモを中心とした段々畑は、昭和40年代に最大の収穫量を記録するなど、かなり残っていました。 しかしこの時期宇和島周辺では漁業にも大きな変革が始まります。
それが「養殖事業」リアス式で湾の入り組んだ地形を利用して、ハマチや鯛などの養殖が昭和37年頃から始まり、次第に規模を拡大します。

おなじ漁業でも、それまでの漁師が魚を捕る漁業と近くの海のいけすなどで魚を養殖するのでは、仕事の内容は全く違います。 育てる養殖はむしろ農業的。この時期にいままで半農を支えていた女性達など漁師以外の人々も養殖の仕事へとかり出されて、半農半漁の生活は大きく変わっていくのです。
また少し前に起こった鼠大量発生による被害が、人々に段々畑を継続する意欲を失わせていました。
もちろん時代は高度成長期。時代そのものが半農半漁という生活を許さなかったのかもしれません。
段々畑はこうした時代の中で、その多くが消えていったのです。

Part8 農協の船(3分11秒)
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26:59~30:10  エンディング
農協の船

農協所有の船

農協が船を持ち運航するというのは非常に珍しいことですが、日本全国にはわずかですがこのほかにも色々な形で「農協」が運航している船があります。

農協の船

■北海道の農畜産物を本州へ毎日運ぶ高速大型RO-RO船「ほくれん丸」

農協が独自に保有し、運行している船で、最も大きい船が「ホクレン農業協同組合連合会」の「ほくれん丸」と「第二ほくれん丸」全長は約173m、高さ約39m。総トン数13,950トン 
ちょうど北海道と茨城県大洗を往復する三井商船の大型フェリーの「さんふらわあ さっぽろ」に匹敵する大きさです。
実はこの2隻は2代目(初代は1993年就航)。2006年に就航した最新鋭国内でもトップクラスの性能を誇る貨物船です。 RO-RO船は、いままでの貨物船が貨物を一端トラックから降ろし、クレーンなどで荷物釣り上げて出し入れしていたのに対し、カーフェリーのように積み荷を積んだトラックやトレーラーがそのまま船の中に自走して積載できるため、短時間で効率的な海上輸送ができるというメリットがあります。
この船のおかげで、北海道各地で作られたミルクや乳製品を中心に青果物・砂糖・でん粉・家畜は、産地から積み替えること無く、海陸一環輸送され、新鮮でおいしい食料が工場や消費者のもとに届けることとなりました。
現在では二隻で毎日「釧路港ー日立港」を往復。ピーク時には1日に1リットルの牛乳で約100万本分を本州に運んでいます。

農協の船

■沖縄、石垣・八重山の牛を運ぶ船「JAやえやま」

「ほくれん丸」が北海道と本州を結び、主要産品の乳製品を運び出す船なら、沖縄にも、石垣や八重山といった八重山諸島と沖縄本島を結び、この地域の重要な産業である「肉用牛」を島から運ぶための船があるのです。
それがJAおきなわが所有する「農協やえやま」農協の名称のようですが、れっきとした船名。(実はJAおきなわにはもう一艘「農協丸」という牛運搬船が有るそうなのですが、現在運用されているかどうかは未確認です)
さて「農協やえやま」は一見小型のカーフェリーのような船です。
全長20.47m 幅7.00m 総トン数54トン 
トン数で言えば「ほくれん丸」の240分の一といった本当に小さい船ですが、この船もれっきとしたRO-RO船? 船首に車をそのまま自走して乗せられるような扉(ランプ)があり、「生きた牛」がそのまま自分の脚で歩いて岸から乗船。そのまま甲板に牛をつないで運搬した後は、到着した港でも、牛をそのまま自分の脚で歩かせて船から降ろすことができます。まさに「カーフェリー」ならぬ「Cowフェリー」
さすがに「ほくれん丸」のように定期航路があるわけではありませんが、牛の競り市などが行われるときなどに「石垣島ー八重山島間」などの離島間や「石垣島ー那覇間」などで牛を満載し航行。それ以外の時にも「飼料」や建築資材をのせたトラックなどをそのまま搭載して離島間で重要な運搬手段になっているようです。

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