Vol.10 イグサが織り成す畳の文化 ―熊本県―

熊本県は、認定農業者数全国第3位(平成22年度)、農業産出額全国第5位(平成23年 度)を誇る日本有数の農業県。その南部、八代海(不知火海)に面した八代市周辺 では、昭和30年代から、畳などに使用する「イグサ」の栽培が始まり、現在では国 内の90%以上の生産量を誇るまでになりました。しかし昨今、畳そのものの需要が 減るなかにあって、イグサの栽培も転機を迎えつつあります。課題に立ち向かい、 新たな需要開拓と高品質なイグサづくりを目指す、産地の人々の姿をご紹介しま す。

Part 1 プロローグ 干拓で作られた八代平野とイグサ 熊本県編(5分21秒)
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0:00~1:56 プロローグ ~イグサが織り成す畳の文化~ ―熊本県編―
1:56~2:57 熊本市 熊本城の本丸御殿大広間
2:57~3:26 畳職人(清水正さん)畳表の縫いつけ
3:26~3:43 球磨川下り
3:43~5:21 八代市 八代海の干潟 大法寺過去帳の記録
プロローグ 干拓で作られた八代平野とイグサ 熊本県編

九州の中央部に位置し、有明海や八代海に面した熊本県は農業産出額3113億円で全国第5位(平成23年度)の生産量を誇る日本有数の農業県。 とくに熊本県南部、八代海(通称不知火海)に面した八代市は、干拓によって作られた広い平地で「コメ」をはじめとして「トマト」「メロン」「イチゴ」などの野菜果物、そして今回テーマとなる「イグサ」などの工芸作物と多彩な農業が展開される一大農業地帯です。

八代周辺で干拓が始まったのは江戸初期。もともとこの地は、球磨川などの河口部分を中心に、干潟が広がり、また干満の差も大きいことから、干拓に適した土地でした。 そこで、江戸時代、肥後(熊本)の最初の藩主であり、築城などの土木建築が得意であった加藤清正がまず開拓事業を開始。 さらにその後を受け継いだ細川藩も江戸時代を通じて積極的に干拓を推進します。
開拓事業はその後も明治から昭和にかけて途切れることなく行われ、主な事業だけでも8000ヘクタール(東京ドーム約1700個分)以上。現在の八代平野のおよそ3分の2はその干拓によってよって作られているのです。

プロローグ 干拓で作られた八代平野とイグサ 熊本県編

ところでイグサは和風建築には欠かせない「畳」の重要な素材。人が触れる表面部分「畳表」を作る素材です。 現在では日本で作られる9割以上が熊本県産。しかもそのほとんどはこの八代市周辺で栽培されているのです。
しかし、八代市がイグサの生産を本格化させたのはさほど古いことではありません。 映像でも紹介されていますが、この地域では昔からイグサの栽培が行われてはいましたが、江戸時代になると細川藩はイグサを「お止草」として勝手な栽培を許さず、一部の村のみに限定。このために明治維新まで、この地域全体にイグサの生産が広がることはなかったのです。
この地域でイグサの栽培が本格化するのは昭和40年代になってからのこと。 それまでは岡山・広島・福岡などがイグサの主要生産県でした。 その時代の日本はまさに高度成長期。世の中は建築ラッシュとなり「畳」の需要が一気に増大したことによりイグサの需要が爆発的に増大。 もともと南方系の植物であり、水田を利用して稲との二毛作が可能であったイグサはこの地域で急速に栽培を拡大することになります。 昭和30年代に1000ヘクタールもなかった八代市周辺のイグサ栽培は平成元年には6000ヘクタール以上に拡大。それとともに全国シェアもアップし、昭和40年代後半にはそれまで産地を抑えて全国トップの生産量を誇る産地に成長するのです。

プロローグ 干拓で作られた八代平野とイグサ 熊本県編

さて順調にシェアを拡大してきた八代のイグサですが、その後二つの大きな壁に突き当たることになります。 その一つはライフスタイルの西洋化にともなう畳需要の減少です。 特に平成に入り、住居は一挙に西洋化、都市部を中心にフローリングが増えるなか、畳の部屋が急激に減少してきました。 このため最盛期に年間4000万畳の需要があった「畳」市場は現在ではその三分の一以下になっているといわれています。
もう一つは安価な中国産イグサの台頭です。 元来中国には部屋に畳を敷くという文化はありません。したがってイグサの栽培も日本の商社や企業が新たに持ち込んだもの。 中国でも水田での二毛作用の作物として、瞬く間に生産量が拡大。このために安価なイグサが大量に日本に輸入されることになりました。 (ただし、あくまでも稲作の裏作として本業のコメの生産に支障が無いよう栽培しているため、成長しきらないうちに早めに刈り取られるなど、イグサの品質は日本産には及ばないと言われています) この二つの壁は日本のイグサ生産にとっては非常に大きな打撃となりました。 日本においては、それまでの主要産地であった、広島県や岡山県ではほぼイグサ生産をやめてしまったばかりか、平成23年度には熊本県でさえも、その栽培面積が1000ヘクタールを切る状況にまでになってしまっているのです。
このままでは、日本の伝統文化である「畳」やそれをささえる優秀な天然素材である「イグサ」が日本から消えてしまう。 八代市周辺のイグサ農家はこうした危機に立ち向かうために、さらに品質のよいイグサを生産するだけでなく、新たなイグサを使用した商品開発など含めて活動し始めているのです。

Part2 イグサのが栽培過程 その1 苗から刈り取りまで(7分20秒)
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5:22~7:54 4月のいぐさの栽培農家、いぐさの先刈り、下永辰也さんインタビュー、いぐさの肥料散布、いぐさの綱張り
7:54~9:09 八代海の干潟、八代海名物 シャク(アナジャコ)
9:09~12:42 7月上旬 いぐさの刈り取り、染土(淡路島産)によるいぐさの泥染め、いぐさの乾燥いぐさの保存
イグサのが栽培過程 その1 苗から刈り取りまで

イグサは湿地に生える多年草。葉はなく、しなやかで細い茎が真っ直ぐ長く伸びるために耕作しやすく、様々な用途で利用されてきました。 特にこの茎の部分を編み込んで床に敷く「筵」(むしろ)は古くから使われていたようで、国立博物館には奈良時代に作られたイグサの筵である「藺筵」(いむしろ)が重要文化財として何点も収蔵されています。 実は藺草の正式名称は「イ」、これはこうした「筵」など住居につかわれることが多いために「居」=「イ」となったとも言われています。
さてこのイグサですが、もともとが湿地に生える多年草ですから、水田で育てることが可能です。あるいはこうして栽培する前から水田の雑草として、自然に生えていたものを利用したのが、イグサ栽培の始まりなのかもしれません。現在でもイグサは稲の収穫が終わった後の水田や減反政策などで休耕中の水田で栽培されています。
多年草の「イグサ」の栽培手順は、種から育てる稲とは違い、「苗」を大きくしながら、そこから株分けして「苗」を増やし、またそれを育て、約一年半かけて収穫へつなげていきます。 以下その手順をご説明しましょう。

イグサのが栽培過程 その1 苗から刈り取りまで

1. 苗を苗畑で育てる 12月ごろ
まずは苗を苗畑で育てるところからイグサの栽培は始まります。 植えるのは寒い12月。多年草のイグサは冬場は枯れたような茶色ですが、それでも枯れることはありません。 畑に植えられたイグサの苗は翌年の8月までこの苗畑で育てられます。

2.苗床田への植え替え 翌年8月ごろ
翌年の8月頃。畑の苗はいったん「苗床田」と呼ばれる水田に植え換えられます。 前に記載したようにイグサは種で増やすのではなく、育成中のイグサの株を分けて増やしていきます。これはそのための手順。 最初に植えた苗からイグサはいままで植えられていた苗畑でで新芽をだし、自分の株を増やします。 この苗をまず畑から引き抜き泥を落とし(これを苗こぎと言います)その株にできた新芽を小分けにして(これを苗わりといいます)して、栽培用のイグサを増やしているのです。 ここで分けられた株はさらに、苗床田と言われる、中間育成用の水田に植えその年の冬12月まで育成。 最終的に収穫するための数を確保できる株になるまで育成します。

イグサのが栽培過程 その1 苗から刈り取りまで

3.苗床田から本田へ 翌年12月ごろ
苗が植えられてから1年目の12月。さらに大きな株になったイグサをまず苗床田から引き抜き再び小分けして、いよいよ収穫のための育成を行う本田へ田植えを行います。

4.先刈りと網張り 翌々年4月から6月ごろ
さてここからは株を増やすためではなく、収穫の際に品質の高いイグサにするための管理がメインになります。 それが映像にもある「先刈り」と「網張り」。「先刈り」は先を刈ってイグサの成長をさらに促進させる手法。 いったん成長した新芽を刈り取ることで、その後にでる新しい芽の成長を促進させると言われています。 また「網張り」はイグサが横に倒れないための倒伏防止のための作業。より細くより長いものが高品質されるイグサでは、こうした品質の高いイグサほど倒伏しやすくなります。これを防ぐためにもこうした作業が欠かせないのです。

5.刈り取り 翌々年7月ごろ
最初の苗畑への植え付けから1年半後。ようやくイグサは刈り取られ収穫されます。 しかし、八代のイグサ農家の仕事はこれで終わりません。実はイグサは工芸農産品と言われるように、このイグサに下処理をして「畳表」を織機で作るまでが仕事(イグサの状態で他県へ出荷することもあります)。 その工程は次の解説でご紹介します。

Part3 刈り取ったイグサを畳表にするまで (7分13秒)
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12:43~14:36 畳屋さんの研修、中村豊嗣さんインタビュー、畳道場(株)鏡芳昭さんインタビュー
14:36~15:47 寛ぎのひと時、熊本名物の馬刺し 辛子レンコン
15:47~17:06 研修最終日、中村豊嗣さんインタビュー、下永辰也さんインタビュー
17:06~18:31 製織のためのいぐさの選別、畳表の製織
18:31~19:00 畳表の出荷
19:00~19:57 街の畳屋さん、木村雅彦さんインタビュー
刈り取ったイグサを畳表にするまで

イグサづくりは単に作物としてイグサを収穫することでは終わりません。高品質な畳の決め手はイグサ農家が自ら収穫したイグサを使い、いかに高品質な「畳表」が作れるかに掛かっているのです。 ここからは収穫から畳表になるまでの工程をご紹介します。

1.泥染め
刈り取られたイグサはまず天然の染土を溶かした泥水につけられる「泥染め」と言う作業が行われます。 これは畳表の薄い緑色をなるべく変色しないように保つだけでなく、あの畳の香りを引き出し、さらに畳の弾力を保ち、クッション性をよくするなど、畳の耐久性や美観を保つために非常に重要な工程になります。 当然使用する染土によっても、またそのつける時間の微妙な采配などで色や耐久性が違ってきますので、こうした部分を見極めるのも、イグサ農家の重要な技の一つとなっています。 しかし中国産などのイグサ栽培ではこうした緻密な作業を各農家で行うことができません。そのために様々な品質のイグサを混ぜたり、化学染料で一気に染めてしまうことが行われています。 もちろん化学染料が一概に悪いとは言えませんが、そもそも天然素材であるところに畳の良さがあるはず。安心して畳の良さを味わうためにも、こうした違いが畳の産地や作り方にあることを知っておく必要性があるようです。

刈り取ったイグサを畳表にするまで

2.乾燥
いったん「泥染め」されたイグサを乾燥させます。従来は天日で乾燥させていましたが、現在は天候の状況に左右されず、なるべく均一に良い状態で乾燥させるために乾燥機で実施します。 しかしこのときの温度や乾燥時間も重要なポイント。 一定の水分量で乾燥させないと、イグサはその組織を壊し、弾力性も耐久性も失うとされています。 このため八代市周辺のイグサ農家では厳密にこの温度や乾燥時間を決め、乾燥を実施。イグサの品質を保っています。 乾燥が終わったイグサはその後の変色を防ぐため、黒いビニールに一把ごとに倉庫に保管されます。

3.根切り
ここから織機で畳表を作るための準備作業に入っていきます。 最初に行われるのが「根切り」という作業。 土に埋まっていた根の部分を5ミリ程度切り落とします。

4.選別
イグサの品質は一般的に1本1本の長さが長く、細く、均一の太さで、しなやかで弾力のあるものが良いとされています。 特に長さは重要なポイント。 刈り取られたイグサで畳表として使用される部分は中央部の緑色の部分。穂先と根の両端の部分は茶色のために使用することができません。そのために畳表として使用できる真ん中の部分が長い背の高いイグサが良いとされているのです。 このためにイグサはまず選別機で長さによって仕分け作業が行われ、またイグサ農家の目で茎の太さや状態が見極められて、「1番草」「2番草」「3番草」「4番草」と品質による仕分けが行われます。

刈り取ったイグサを畳表にするまで

5.加湿
仕分けられたイグサは加湿器で4時間程度加湿されます。これも良い畳表を作る重要なポイントと言われており、そのときのイグサの状態やその日の気温や湿度によって微妙な調整が必要になってきます。

6.最終のイグサ検品
イグサは織機にかけるまえに人の目で、傷みや折れがないか、変色部分はないかなど、最後のチェックを行います。

7.製織
イグサは織機で織られて畳表になります。 使われるイグサは畳一畳に対して4000本から7000本程度。多くのイグサを使用するものはそれだけ編み込まれるイグサの密度が高いので、編み目が詰まって、見た目が美しいだけでなく、耐久性もあり、高級品とされています。 さらにイグサを編み込むための縦糸となる「糸」にも「絹」「麻」「木綿」など様々な素材があり、こうした素材をどう組み合わせて作るかはまさしくイグサ農家のセンスと技量なのです。

Part4 イグサと畳の関係 (49秒)
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19:57~20:16 その他のいぐさ製品、いぐさの入浴剤
20:16~20:47 北九州私立大学 森田洋准教授インタビュー
イグサと畳の関係

畳を使用する住居が減少したとはいえ、やはり畳は日本固有の文化でもあり私たちにとってとても身近な存在です。
ここでは畳ついて解説します。

畳の基本構造
畳の基本構造は3つのパーツで出来ています。 「畳表」は畳が人の体に触れる部分。 今回映像でご紹介しているイグサを編んで作られるいわば「ゴザ」状の部分です。 この部分は当然足で踏まれ、汚れたり痛んだりする部分。 そこで畳は定期的に、畳表を裏返したり、畳表の部分だけ交換する「畳の張り替え」をおこなうことで、常に畳を新品に近い状態に保つことが出来、畳を長く快適に使用できるようにしているのです。

イグサと畳の関係

これを支える「畳床」は5センチ程度の厚みをもった、畳の芯になる部分。ベットでいえばスプリングの部分になります。 従来は稲わらを束にして、圧縮しそれを縫い合わせて作られた「わら床」が主流でした。「わら床」はクッション性もあり、湿気が多いときにはそれを吸収し、乾燥したときにはそれを放出するというメリットをもった天然素材ですが、大量のわらが使用されているために重量が重くなるというデメリットもあり、今では稲わらの量を減らし、建材ボードを挟み込んだタイプや、稲わらを使用せず完全に建材ボードだけで造られたものがあります。

イグサと畳の関係

この二つが畳の基本ですが、もう一つ畳のデザイン的なアクセントとなっているのが、畳の「へり」をカバーする細長い切れである「畳縁」です。 「畳の縁」というと濃紺やえんじなど、地味な色を思い浮かべますが、この「畳縁」にも種類があり、絹などの高級な素材で、家紋などを織り込んで作られる「高麗縁」(神社やいわゆる御殿とよばれるような、重要な施設に使用された。)、2色以上の糸を使い、美しい柄を織り込んだ「大和錦」などさまざまなバリーションがあります。

Part5 素足が知っているイグサの歴史(3分20秒)
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20:47~22:24 球磨川・遥拝堰、8月 いぐさの苗とり いぐさの株わけ いぐさの苗床田 植えつけ、下永辰也さんインタビュー
22:24~24:04 いぐさの苗とり いぐさの株わけ いぐさの本田 植え付け、下永辰也さんインタビュー
素足が知っているイグサの歴史

古代の人々をしなやかに受け止めるイグサ
イグサがいつ頃から日本で使われるようになったかは定かではありません。しかし、日本で米づくりが行われるとともに、そこに雑草として生える、適度にしなやかで、細く真っ直ぐ伸びる棒状の植物は、人々にとって入手しやすく、加工しやすい絶好の素材だったに違いありません。 古墳時代の遺跡からはイグサと思われる素材で出来た遺物が出土しています。 また飛鳥時代に定められた律令制では、下級役人の履き物として「鞋」というものが定められていますが、これはまさしくイグサで編まれた草鞋(わらじ)のような履き物。 実際に当時からの宮廷文化を、今でも色濃く残す雅楽の舞踊では「糸鞋」という履き物を今でも使用しますが、これも靴底にイグサを編んで使用しています。
このようにイグサは麻などの細い繊維とは違って、それよりも強く、しなやかに体を包んでくれる素材として、今で言えばクッション的な素材としてとらえられていたのかもしれません。 そこで、イグサは現在の座布団やマットにあたる筵(むしろ)の芯材や表装として使われるようになります。 こうしたものは今でも正倉院や国立博物館の収蔵物として残されていますが、最初は座布団程度の大きさのモノが次第に大きくなり、ついには寝具としての使用が貴族で本格化し、それが最終的には現在の畳へと進化していくのです。
しかし、奈良・平安時代には、畳のような大きなイグサ製品を持てるのはごく一部の身分の高い宮廷貴族だけ。それも現在のように、部屋中に畳を敷くという方式ではなく、部屋の一部に布団を引くように寝る部分だけに畳を敷くという形でした。

素足が知っているイグサの歴史

イグサは客へのおもてなし
こうしたイグサでできた畳が本格的に広まっていくのは鎌倉時代から室町時代です。 この時代、武家を中心として、畳が部屋全体に敷き詰められる「書院造り」という建築様式が広まっていったからです。
書院造りの特徴は、武士が客人を迎える「おもてなし」の空間であったこと。この時代は「茶の湯」など人々を家に招き時間や空間を楽しむ文化が一気に花開いた時代でもありました。 特に「茶の湯」の中心となる「茶室」はまさしく「座って」客をもてなす場。 その座る場所に心地よさをもたらすために、それまでの板張りの床でなく「畳」を茶室全体に敷くということが行われるようになるのです。

素足が知っているイグサの歴史

「畳」はこうしたことをきっかけに、時の権力者などにそのよさを認められ、広く普及していきます。 例えば織田信長は安土城の天守閣に何千畳もの畳を敷き詰めさせたという記録も残っています。 この畳を納めたのは当時の備後国、現在の広島県福山市。ここではもともとイグサの筵(むしろ)を作っていましたが、この時期から「備後表」という名称で知られる「畳表」の一大名生産地として認知されるようになっていきます。
こうして武士の間に広まった「畳」は、その後江戸時代に町人の間にも広まり、日本人の部屋の暮らしになくてはならないものになっていくのです。

Part6 八代神社と妙見信仰(4分38秒)
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24:04~25:09 八代神社(妙見宮)で行われる九州三大祭りの一つ 八代妙見祭 亀蛇、地域の交流
25:09~26:25 1月 いぐさの畑苗植え付け、下永辰也さんの話
26:25 ~28:42 エンディング
八代神社と妙見信仰

八代神社は明治以前は「妙見宮」といい、もともとメソポタミア等の中東や中国古来の北極星(北斗星)と北斗七星をまつる「星辰(せいしん)信仰」と仏教「菩薩信仰」がミックスした「妙見菩薩」を信仰する、お寺と神社の性格を併せ持った「妙見信仰」の「宮寺」でした。
この信仰が日本の入ってきたのは、古墳時代から飛鳥時代の頃といわれ、そのころ頻繁に中国や朝鮮半島から日本へ移住してきた渡来人が日本に持ち込み、特に渡来人の多い関西地区で大いに広まったといわれています。
この八代神社もその縁起によると、飛鳥時代中国の寧波市(上海や杭州の南側の都市。その後鎌倉時代、元寇の際にモンゴル・高麗連合の日本攻略艦隊が出発した港)から人の形を借りて3人の妙見様が亀にのって八代市の竹原津(現・竹原町)という港に上陸し、ここにお社を作ったのが始まりという説。あるいは百済の皇太子が同じくこの港に上陸して作ったという説があります。 どちらにせよ、八代の竹原津はその時代から大陸貿易の重要な港として栄えていましたので、この地にも渡来人がこの信仰を持ち込んだということは十分に考えられることです。

八代神社と妙見信仰

さてこの「妙見信仰」は日本に渡ってくる前に、本来のメソポタミアなどの信仰と中国古来からの道教、さらに密教思想などが混合された形になっていましたが、日本に来てからも、空海の持ち込んだ真言密教のなかにも重要な教えとして取り入れられており、国家を守護する仏として宮中でも深く信仰されました。 また関東ではその土地で信仰されていた八幡信仰と融合、戦の神として武士達の信仰を獲得、さらに日蓮宗でも宗徒をまもる仏として位置付けられために、広く一般の民衆にも信仰されることとなります。 ということで、その御利益も多種多様。

八代神社と妙見信仰

このほかにも渡来系と言うことで「海上安全」の神、澄んだ目という意味をもつ妙見という名前から「眼病」の神でもあり、また「妙」という文字が「美しい」という意味を持つことから「芸能」や「美」の神としても信仰され、さらにもともと星の神ですから、星占いなどの機能もあって、いろんな意味で誰からも愛される、融通の利く神であり仏であったのです。 そんなことから江戸時代には広く民衆の間でも大ブレイク。明治になり「神仏分離」の影響を受けて神社系の妙見様と真言宗や日蓮宗のお寺としての妙見様に分かれていきますが、全国に「妙見」という地名が数多く残っているように、数々の妙見様が今でも信仰されているのです。

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