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Vol.26 雄大な自然と多彩な農産物に恵まれた豊かなふるさと ー鳥取県ー

日本を代表する海岸砂丘である「鳥取砂丘」や、中国・山陰地方の最高峰であり、古来より山岳信仰の地として、人びとから崇拝されてきた「大山」など、特色ある自然環境が広がる鳥取県は、こうした自然環境を生かして「スイカ」「二十世紀梨」「ラッキョウ」「白ネギ」など、多くの特産物を生み出してきました。

Part 1 鳥取県の概要(1分17秒)
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0:00〜1:17 プロローグ
鳥取県の概要

●鳥取県の地勢

鳥取県は山陰地方の東部に位置し、日本海に沿って東西に126km南北に62kmと、東西に細長い形をしています。
その総面積は3,507km²、47都道府県中41位。こうした小さい県ですので人口も約56万(鳥取県推計人口 平成31年3月1日現在)と、全国でも最も人口の少ない県です。

地形は中国山地が日本海側にせり出しているために山地が多く、県の面積の約62%が中山間地に分類されています。
一方、鳥取を代表する3つの河川「千代川」「天神川」「日野川」の下流を中心に、平野も広がっていますがその規模は小さめ。
また、これら3つの河川の河口付近、日本海沿岸部には、中国山地の急傾斜地や日本海の海流・風波の影響によって砂が運ばれ、鳥取砂丘に代表される砂丘地が広がっています。

鳥取県の耕地面積は約345km²(調査年平成29年/全国37位)、耕地面積率も10%程度と全国平均を下回りますが、その一方で中山間地域が多いため林野率は約74%という高い数字で、これは全国平均の66%を大きく上回っています。
※面積や人口の参考資料→鳥取県公開公式サイト『とりネット』

鳥取県の農業

●鳥取県の農業

中山間地域が多く平野が少ないうえに、沿岸部が砂丘という地形の鳥取県は、農業を行う環境としては決して恵まれていないのですが、各地域で特色のある農業が行われています。

例えば、砂丘地帯では「土地基盤畑地かんがい施設」が整備されており、砂地などでもよく育つ「スイカ」「ラッキョウ」「梨」「白ネギ」などの作物が栽培されています。それらは全国に出荷され、大きなシェアを獲得しています。
また、これらの作物はJAや地元の生産者が統一された生産者団体をつくり、それぞれの作物のブランド化を促進しています。ブランド化を図ることで、生産者の意識や栽培技術を向上させ高い品質を維持。そのブランド力で販売促進を展開することで知名度を上げるなど、他の地域の作物との差別化を実現しているのです。

中山間地帯の傾斜地では、県の東中部を中心に果樹栽培が行われています。
日本の国土はその約7割が中山間地域といわれ、斜面が多く農業生産条件としては不利な地形といえます。
そのためこの地域では、こうした地形での農業をどう活性化させるかに苦慮しています。
この課題に鳥取県は、梨を中心とした果樹栽培で対応してきました。
一般的に果樹栽培には、日当たりがよく水はけのよい環境が求められます。
山の斜面は傾斜地であるため水が溜まりにくく、さらに日光も真上からしか当たらない平地よりも効率的に当たります。
鳥取県では大正期や昭和初期から、こうした傾斜地での果樹栽培に注目していました。
なかでも二十世紀梨の栽培に力を注いでおり、現在でもその生産のトップシェアを誇っています。

Part 2 鳥取県の林業(8分02秒)
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1:18〜9:19 「山に生きる」
鳥取県、林業の歴史

●鳥取県の林業の歴史

鳥取県は農業とともに林業の盛んな県です。
映像でご紹介している「智頭町(鳥取県八頭郡智頭町)」には、町のシンボルにもなっている「慶長杉」があります。
日本に残る最古の植林杉(自然木ではなく植林で植えられた木)ともいわれ、樹齢は350年~400年。この地での林業が長い歴史を持つ証にもなっています。

鳥取県の林業はこの慶長杉が植えられた江戸時代初期、鳥取藩の立藩とともに始まった植林振興策に端を発します。
もともと山間部の多い鳥取藩領内では藩有林も多く、また山に暮らす人々も多かったために、山を管理する「御山奉行(おやまぶぎょう)」が立藩当時から置かれていました。
この御山奉行が山の管理だけでなく植林の奨励・指導にもあたったことから、鳥取の林業は栄えはじめます。
智頭町周辺でも当時から植林が始まり、現在に至る智頭林業へと受け継がれたのでした。

鳥取県、林業の歴史

しかし、当時の林業はさほど規模の大きなものではありませんでした。
切り出された木材は住宅資材としても使われていましたが、メイン需要はお酒や醬油を入れる「木樽」の原材料。
現在では杉の最高級材として知られる「吉野杉」でさえも、当時はこうした樽作りのために植林をされていたのです。

その状況が変わったのは、明治時代以降。
文明開化で急激に西洋化した日本では、電信や鉄道といった新たなインフラ整備が始まり、それに伴って電柱材などの木材需要が爆発的に拡大しました。
しかし、急激な需要は経済にとってはプラスに働いても、山林にとっては大ダメージ。
木は利用可能な大きさに育つまでにとても長い時間が必要で、それを無計画に伐採した結果、山は荒廃してしまいます。
実際に明治20年(1887年)頃、智頭町周辺の山々もこうした急激な需要により「はげ山」になってしまったといわれています。
これでは智頭の林業は失われてしまう。こう危惧した智頭の人々は、新たな植林方法などを積極的に開拓。
“赤挿し苗(天然杉の下枝から採取した苗木)”“青挿し苗(人工林の優良木から採取する苗木)”といった独自の植林方法を作り出し、山を再生しました。以来、智頭町は西日本有数の林業地として、その地位を確立したのです。

鳥取県の林業、自立伐採型林業とは

●自立伐採型林業とは

日本の林業はここ数十年、大きな曲がり角にきているといわれています。
多くの山林が「間伐」などの手入れがされぬまま放置され、山は荒廃。
さらに「皆伐(山の木をすべて切ってしまう)」を行った後、植林をせずにはげ山のまま放置された山も増え、「災害につながる危険を高めている」といったニュースが多く聞かれるようになりました。

この状況の原因として挙げられてきたのが、国内産木材の価格問題です。
日本は昭和39年(1964年)に、木材の輸入全面自由化を行いました。これによって安い輸入材が大量に流入。高価な国内材は売れなくなり、日本の林業が衰退したと説明されています。

たしかに輸入全面自由化がされた当時は、価格問題が日本の国内材や林業を追いつめ、多大な影響をあたえていたことは事実でしょう。
しかしあまり知られてはいませんが、今こうした輸入材と国内材の価格差はほぼ解消されたともいわれています。
例えば、輸入材の大半を占めていたロシアからの木材は、ロシアの関税引き上げにより価格が上昇。さらに、中国などの新興経済国における木材需要の高まりにより、世界的に木材が不足。その価格が上昇しています。そのため、国内材と輸入材の価格差も、ほとんどないという現状になっているのです。

鳥取県の林業、自立伐採型林業とは

それでもなお、日本の林業の荒廃が続いているのはなぜでしょうか?
その原因の一つが、日本の林業が抱えるビジネスモデルにあるといわれています。
現在の日本の林業は、「山林の所有者」が伐採時期となった山林の皆伐を、山の伐採を専門的に請け負っている「森林組合」などに依頼することが基本となっています。一見何の問題もないシステムに思えますが、ここには一つの大切な要素が抜けています。

山林の維持にいちばん重要なことは、日常的な山林の管理。
基本的に森林組合は伐採をする山を常に管理しているわけではなく、伐採の時にだけ派遣されてきます。
また通常、山林所有者は地元にいることが少なく、さらに林業のスペシャリストではないために、山を管理できていないことが多いのです。
行き届いた管理をするためには誰かに依頼しなければならず、それには当然経費がかかります。
しかし毎年収穫のある野菜などの農作物と違い、木を伐採してお金にするためには50年程度の時間が必要です。
つまり50年分の経費を、1回の伐採から捻出しなければならないのです。 このためには相当広い(一説には1000ha以上の)山林を所有しなければ採算が取れません。小規模な山林所有者は山を管理したくてもできない状況にあり、結果的に放置される山林が増えているのです。

鳥取県の林業、自立伐採型林業とは

このような状況の打開策として昨今クローズアップされてきたのが、「自伐型林業」という新たなビジネスモデルです。
今回の映像でもご登場をいただいた赤堀さんも、このモデルを取り入れている1人です。
このビジネスモデルでは、50年間山林が育つのを待ち皆伐して利益を得るのではなく、山林から毎年継続的に収入を得ながら林業を行います。
手法は様々ですが、基本的には山林所有者らが定期的に山に入って間伐を行い、その間伐材を販売しその山から継続的に収益をあげていく方法です。
一概にはいえませんが、輸入材の値上がりの一方で、バイオマス発電など間伐材の使い道の多角化を受けて、ある程度の利益が見込めるビジネス構造といえます。
また地域によっては観光などもふくめ、山林から収益を上げる工夫を行っています。
つまり「効率を求める山林経営」から「山林に密着して利益を得る山林経営」に転換しようというのが、この自伐型林業というビジネスモデルなのです。

ただし自伐型林業にも、大きな問題があります。それは担い手の不足です。
森林組合に委託して伐採をする方法が主流になっていることで、自伐型林業のように地元密着型で林業を営む人々は圧倒的に数を減らしました。
また、早くから斜陽産業のようなイメージがついてしまった林業には、これまで若い世代の就業意欲を喚起できていなかったのも事実です。

しかしながら、現在、日本では第二次世界大戦の後に植林された山林がちょうど伐採時期にあり、世界的な木材不足のなかで、大量の優良な木材が眠っているといわれています。
つまり売れる市場があり商品もあるのに、担い手不足などの問題が積み重なって身動きができなくなっているのが、現在の日本の林業なのです。

日本の林業が再び動き出すためには、自伐型林業のような新たな取り組みに、若い世代が数多く参加することが必要になっています。

Part3 鳥取を代表する農産物 その1(9分25秒)
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9:20〜18:44 「西瓜の交配」「ラッキョウ収穫」「西瓜の収穫」
鳥取を代表する農産物 スイカ

●スイカ

もともとスイカは日本固有の植物ではなく、15世紀から16世紀にかけて、中国船あるいは南蛮船によって、ヨーロッパから日本に持ち込まれたといわれています。
その後、徐々に日本各地に広まり、江戸時代の中期から後期にかけて全国的に普及。
江戸時代後期には、庶民の夏の代表的な果物として、スイカを食べる様子が浮世絵などにも数多く描かれるなど、歴史古き作物です。

鳥取県はそんなスイカの名産地。熊本県、千葉県、山形県に続く全国5位(平成27年度/農林水産省調べ)の生産量を誇ります。
なかでも今回映像でご紹介をしている鳥取県の中央部・北栄町(旧大栄町)地区は、全国的にも知名度の高い「大栄西瓜」を生み出すなど、鳥取県のスイカ生産をリードしてきました。
県内で最初にスイカを栽培したのもこの地域。明治40年(1907年)頃、阪本長蔵という人物が西瓜を四反歩で栽培し始めたことが始まりといわれています。

もともとこの地域は、大山山麓に広がる火山灰と腐植でできた「黒ボク土」という土壌で覆われています。
この土壌は保水性と保肥性に優れ、土には多くの有機物を含んでいることが特長。
また昼夜の寒暖差も大きく、スイカ栽培には絶好の環境でした。
こうした自然の恵みを生かしながら、この地域のスイカ栽培は着実に規模を拡大。
やがて栽培は県内全体に広がっていき、昭和元年(1926年)には、鳥取産のスイカは「大山すいか」という名称で関西圏を中心に評価を高めていきます。
特に戦後は高度成長期とともにスイカの需要が増加したため、それに伴い昭和37年(1962年)には、スイカ生産者を集めたスイカ団地などを造成し、鳥取県の基幹作物としてその増産に力を入れていきました。
そして昭和48年(1973年)、鳥取中央農業協同組合の下部組織として、22存在しスイカ生産組合を統合して「大栄町農協西瓜組合長協議会」が誕生。
ここに統一銘柄として「大栄西瓜」が生まれることになるのです。

鳥取を代表する農産物 スイカ

現在、大栄西瓜は関西圏だけでなく全国的に評価の高いブランドに成長しています。
その理由は何といっても品質の高さです。
平成6年(1994年)、1日に5万玉のスイカを選果できる「大栄西瓜統合選果場」が誕生。スイカは糖度12度から13度以上が甘くておいしいとされていますが、大栄西瓜はこの選果場を通して厳密な糖度管理と品質管理を行っているため、すべてのスイカに空洞がなく、12度以上の糖度を確実にクリアしているのです。
さらに一般的にスイカは、中心がいちばん甘く皮に近くなるにつれて糖度が落ちていきますが、大栄西瓜は中心から果皮近くまで糖度が高く、どこを食べても甘いことも人気の理由です。
また、清涼感を生み出すスイカならではのシャリシャリとした食感もよく、“つる引き”と呼ばれる手間のかかる作業を何度も繰り返して栽培されることから、3Lといった規格の大玉スイカが中心であることも特長です。

核家族化が進んだ現在、少人数の世帯が増加したことによりスイカは1玉まるごとの販売方法ではなく、あらかじめ食べやすい大きさにカットされた「カット売り」が主流になりつつあります。
この場合にも、大玉で選果基準が厳しい大栄西瓜は空洞がなく甘さが均一で、糖度もしっかりと保証されているために、カット用としてもその評価を高めているのです。

鳥取を代表する農産物 ラッキョウ

●ラッキョウ

鳥取県鳥取市の日本海海岸に広がる鳥取砂丘。南北2.4 km、東西16 kmに広がる日本有数の砂丘です。
この鳥取砂丘のある福部町は、鳥取県を代表する「ラッキョウ」の産地。
鳥取県のラッキョウの生産量は、「平成26年産地域特産野菜生産状況調査」によると全国第一位。まさに日本を代表するラッキョウの産地といっても過言ではありません。
現在福部町には砂丘に隣接した全体で約120haのラッキョウ畑があり、約70戸以上のラッキョウ生産農家が生産を行っています。

この地域でラッキョウの生産が始まったのは、大正時代初期のこと。
もともとこの土地は砂丘ですから、当然砂地の環境。これが地中深く70mもの砂の層となって続いています。砂の層は当然、保水力も保肥力も乏しくまさに不毛の地。作物の生産にはあまり向いていません。
ラッキョウが栽培される前は桃や桑を植えていましたが、やはり保水力のないこの土地ではうまく育ちませんでした。

しかしラッキョウは、砂丘地や荒廃地などの痩せた土地でも育つという特性を持っています。
そのため鹿児島県のシラス台地(火山灰の台地)のような、作物が育ちにくい場所でも栽培されてきました。
さらにラッキョウには、肥沃な土地で作ると玉ねぎのような飴色になる性質があるため、色白のラッキョウを育てるには、逆に栄養不足の砂質での栽培が向いているという側面もあります。
こうしたことから、大正時代以降、この地でラッキョウ栽培が次第に盛んになり、現在に至っているのです。

鳥取を代表する農産物 ラッキョウ

それでは、どうして鳥取県鳥取市福部町は、日本有数のラッキョウ産地にまで発展したのでしょうか?
その理由は、この地のラッキョウ生産は「鳥取いなば農業協同組合」により生産指導から市場販売まで一貫した生産販売体制が整っており、さらに生産者と協議しながら統一規格の品質向上に取り組んでいる点にあります。
例えばラッキョウの品質を維持するために、畑1㎡の植え付け数や苗の取り扱い方なども規定し、さらに特に農薬散布などの管理では各畑のトレーサビリティの提出、出荷前の残留農薬の自主検査や鳥取県による検査(サンプリング検査)を実施するなど、様々なチェック体制を確立しています。
販売での取り組みでは、平成17年(2005年)に鳥取いなば農業協同組合が『砂丘らっきょう』の商標登録を取得。
平成23年(2011年)には、財団法人食品産業センターの平成22年度地域食品ブランド表示制度『本場の本物』に、味付漬物としての「砂丘らっきょう」が『鳥取砂丘らっきょう』として認定されます。
さらに平成28年(2016年)には、農林水産省が定める「地理的表示(GI)保護制度※1」にも『鳥取砂丘らっきょう』『ふくべ砂丘らっきょう』として登録されるなど、積極的にブランド化を推進しています。

1:特定の産地と品質等の面で結び付きのある農林水産物・食品等の産品の名称(地理的表示)を知的財産として保護し、もって、生産業者の利益の増進と需要者の信頼の保護を図ることを目的に設置された法律と制度

Part4 鳥取県を代表する農産物 その2(13分09秒)
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18:45〜31:53 「二十世紀梨」「板井原ごうこ」「人形浄瑠璃」「冬景色」「西瓜と白ネギ」
二十世紀梨

●二十世紀梨

梨は日本原産の果物ともいわれ、日本書紀にも栽培の記録があるように、古くから秋の味覚として日本人に親しまれてきました。
このため、古来より様々な梨の品種が作られています。例えば江戸時代、享保20年(1735年)に徳川幕府が行った諸国の名産調査「諸国産物帳」には、すでに100種類もの品種があったことが記載されています。
さらに明治時代にも品種改良は続き、今回映像でご紹介している鳥取県の代表的な品種「二十世紀梨」も、明治21年(1888年)に誕生しています。


二十世紀梨が誕生した場所は、千葉県松戸市。
当時この地域に住んでいた高等小学校2年、13歳の松戸覚之助が、親類である石井佐平宅のゴミ捨て場に生えていた小さな梨の木を偶然発見したことに始まります。彼はこれを自宅に持ち帰り大事に育てたところ、10年を経過した明治31年(1897年)9月上旬、初めて成熟した実がつきます。
これが後に二十世紀梨と命名されます。
そして明治43年(1910年)には、英国ロンドン市にて開かれた日英大博覧会に日本の果実の代表として出品され、東洋種の梨として最高名誉賞を獲得するまでになるのです。

一方、二十世紀梨を発見した松戸は、この梨の普及にも尽力。多くの農家に二十世紀梨の苗を分け与えました。それを受け継いだ一人に、現在の鳥取市桂見にあたる場所で農業を営んでいた北脇永治がいます。
明治37年(1904年)の春、北脇は松戸から10本の苗木を分けてもらい、それを自分の果樹園に植えます。これが鳥取名産・二十世紀梨の歴史の始まりとされています。
その後、県の試験場が苗木を育てて農家に配り始めたことや、斜面の多い中山間地でも栽培ができる作物として注目されたことから、急速に広まっていったといわれています。

二十世紀梨

しかしこの二十世紀梨、味や食感は素晴らしかったのですが、一つだけ欠点がありました。
それはナシ黒斑病という病気に弱いということ。
黒斑病は、菌が葉につくと葉を落葉させ木を弱らせ、果実につくと腐って落ちてしまうといった、とてもやっかいな病気です。全ての梨につくというわけではなく、二十世紀梨や南水といった特定の梨だけにつきます。
大正期には、全国の二十世紀梨が次々にこの病気を発症。多くの地域で二十世紀梨の栽培を諦めるという事態になってしまいました。
大正12年(1923年)、鳥取県でも干ばつなどの気象条件の悪化が重なり、この病気が猛威を振るい壊滅的な状況に追い込まれました。
ついには二十世紀梨誕生の地、千葉県にもこの病気が広がります。
千葉県はもともと降水量も多く病気の広がりやすい環境だったため、千葉県の多くの梨農家はナシ黒斑病にかからない他品種の梨に転栽してしまいました。

しかし、鳥取県の二十世紀梨生産者たちは諦めませんでした。
生産者たちはそれまで地域ごとに設立していた組合をまとめ「鳥取県二十世紀梨黒斑病防除組合連合会」をつくり、一致団結して県内一斉の薬剤散布を実施するなど、この病気に立ち向かいます。
その後も栽培方法の改良などを重ねたゆみない努力を続けた結果、鳥取県の二十世紀梨は全国生産量の約80%を占めるほどになったのです。

渥美半島 田原市 電照菊の歴史

●白ネギ

ネギの生産量は全国的に見れば関東圏や北海道などが多く、鳥取県は全国11位。
しかし市町村単位では、今回の映像でもご紹介をしている鳥取県西部弓浜砂丘地のある米子市は、全国第7位の生産量を誇り、西日本では最大級のネギ産地となっています。

鳥取県西部がこのようにネギの生産量を増やすことのできた理由は何でしょうか?
それは鳥取県の日本海海岸付近が、鳥取砂丘に代表されるような砂地であることと関連があります。

一般的にこうした砂丘などを構成する土壌を「砂丘未熟土」といいます。
この土壌の特徴は、大きな砂の粒子で構成されているために水や肥料もちが悪く、さらには風の強い土地が多いため土壌が維持しにくく、機械を入れると土が圧縮されやすいことです。

こうしたことは、一見すると農業にはまったく不向きな土地に思えます。
特に水もちが悪いことは、水分が重要な植物にとっては圧倒的に不利な条件。しかし、逆にこうした土壌を好む植物も数多く存在します。

その一つがここでご紹介しているネギです。
ネギには湿性を嫌うという性質があり、水分を多く保持してしまう普通の土地での生産には不向きな作物。
さらに根の酸素要求量が多いのもネギの特徴。そのため、少し大きな粒の集まりで酸素を地中に通しやすい砂は、ネギにとって格好の生育環境です。
また、ネギは生長とともに周りに土を寄せていかなければなりませんが、やわらかい砂はこうした土寄せが楽な点も有利です。
ネギは様々な地域で作られていますが、千葉の九十九里海岸や新潟の砂丘地帯、青森県の砂丘地帯など、全国の砂丘未熟土地域では主要な作物として栽培されています。

渥美半島 田原市 電照菊の歴史

さて西日本でも有数のネギ産地となった鳥取県ですが、昨今は輸入ものの安いネギの影響を受けて、生産量、販売量ともに減少傾向にあります。
こうしたことから、白ネギも他の農作物と同様に自治体やJA、そして生産者が一体となり、品種、栽培方法、機能性などを活かした生産や販売を行い、ブランド化をめざしています。

その一つが「伯州美人」。
もとは県西部地区で古くから栽培されていたネギでしたが、風雪に弱いため栽培が難しく、生産する農家が非常に少なくなっていました。
しかし、軟白部分が太くてやわらかく甘みのあるおいしいネギ。十分な需要が見込めることから、栽培を復活させ、高級ネギとして現在その生産数を増やしながら、高級スーパーなどで販売を展開しています。

Part5 ペコロス産地 知多市日長地区(10分30秒)
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20:34~31:03 ペコロス産地 知多市日長地区
ペコロス産地 知多市日長地区

「ペコロス」は直径5㎝以下の一口玉ねぎです。
甘味が強く、一般的なタマネギの糖度が9度程であるのに対して、その糖度は11度。高級食材として料理の付け合わせに使われるほか、カレーやシチューなどに入れ丸ごと煮込むのによく利用されます。
かつてはこの映像でご紹介をしている愛知県知多市日長地区が、全国生産量の7~8割のペコロスを生産し、市場をほぼ独占していました。しかし現在では、北海道北見市などでの生産も増えており、この二つの産地で市場を二分するようになってきています。

現在ペコロスは、専用品種として販売されている品種もありますが、基本的には一般的なタマネギと同じものです。
普通のタマネギをより少ない肥料で、10倍程度過密状態で育成し、食用になる球根の部分の成長を抑えることで作り出されています。
しかしペコロスの栽培は、このように通常の10倍程度過密状態で育てるが故に、細かい作業が多く機械化ができません。
そのため、栽培には普通のタマネギの何倍もの労力や手間暇がかかるといわれています。
また高密度での育成は、ベト病や腐敗病などが発生しやすいという欠点もあり、なかなか難しい作物なのです。

ペコロス産地 知多市日長地区

さて、このペコロスの栽培ですが、なぜ知多半島で始まったのでしょうか。
一説には大正時代、外国船の船員からもたらされたという話もありますが、実際には1919年頃、この地域に住む佐野爲左ヱ門(さのためざえもん)が、新しく栽培する作物を探していたとき、名古屋の伏見の西洋料理に使う高級野菜を扱う八百屋から、レタスやパセリなどと一緒に将来有望な高収益作物として、ペコロスを紹介されたのが始まりといわれています。
もともと知多半島は、明治から一般的なタマネギが栽培されていたこともあって、佐野爲左ヱ門はすぐペコロスの栽培を行おうとしましたが、はじめはなかなか商品になるような小さなタマネギができなかったようです。
数年間の試行錯誤の末、ようやく販売できるペコロスができるようになり、やがてその技術が日長地区に広まりました。

ペコロス産地 知多市日長地区

こうして大正時代から昭和初期に始まった、日長地区のペコロス栽培。
地元の中京圏ではほとんど売れませんでしたが、洋食のレストランが多い東京や関西では高値で売れたため、次第にこの地域で栽培する人が増えていきます。
特に知多半島も渥美半島のように水不足に悩まされていましたが、1961年に愛知用水が通水されることで解消します。
こうしたことで、さらに生産者が増え、1980年代には100戸以上の農家で700t以上生産されるようになりました。

こうして順調に生産量を増やしてきたペコロスですが、その後急激に生産量を減らしていくことになります。
その要因はやはりペコロス栽培の難しさです。
前述のようにペコロスは密生させて栽培します。このためにどうしても病気に弱いという問題を抱えていました。さらにこの地域では、栽培用の種子を自家受精させて作っていたために、こうした病気などに対する免疫力が、世代の更新により弱まってしまう問題を深刻化させます。そのため、次第に生産量は減少。さらに、他の作物に比べて何倍も手間暇がかかることもあって、知多市の多くの生産者がペコロス栽培から撤退。後継者も育たなかったため、2010年代には生産者も20戸を切り、生産量も30~60t程度にまで減少してしまいました。

しかし、ペコロスの商品価値がなくなったわけではなく、知多市のペコロス生産量の減少をうめるように、北海道産が増えてきています。

ペコロス産地 知多市日長地区

こうした状況を受けて、地元の日長ペコロス生産組合を中心に、知多市日長地区が育て上げてきた特産品・ペコロスを再興しようという機運が高まっています。
この映像でご紹介している近藤さんもその一人。
知多市日長地区では、この近藤さんたちを中心に、自家受精を繰り返し、遺伝的に弱くなった品種の改良を行うなど、日長地区のペコロスを再興させるさまざまな試みが始まっています。

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