Vol.9 伝統に彩られた暮らしの源 ―和歌山県―

古事記や日本書紀に描かれた時代から様々な歴史の舞台となり、また熊野三山に代表される祈りの聖地である和歌山県。県域の7割以上が中山間地域という不利な農業環境ながら、こうした伝統と文化を背景に、現代の食文化を支える様々な特産物を生み出しています。豊かな食と農の文化を守り伝える人々が織りなす日々の暮らしと営みを紹介します。

Part 1 プロローグ~伝統に彩られた暮らしの源~ 和歌山県編(3分33秒)
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0:00~1:45 プロローグ、タイトル
1:45~2:30 和歌山の春 春光 大斎原、熊野本宮大社
2:30~3:06 熊野本宮大社例大祭
3:06~3:33 有田郡有田川町 ぶどう山椒
プロローグ~伝統に彩られた暮らしの源~ 和歌山県編

紀伊半島の西部と南部をしめる和歌山県。
山間部が7割以上を占めるために、昔から米作りや畑作だけでは生活が厳しい地域でした。そこで、斜面や荒れ地などを利用できる、紀州みかんや紀州南高梅、ぶどう山椒などの栽培が行われるようになりました。それと同時に、醤油、金山時味噌、紀州備長炭といった農山村の産業も発展、独自の農文化が形成されました。

また、和歌山県は高野山や熊野三山など、まさに日本の聖地が集まる場所ともいえます。 とくに熊野三山は日本古来からの「自然崇拝に源を持つ神道」と「天照大神などをまつる神道」、さらに密教の影響をうけた「修験道」、そして本地垂迹で仏教の「浄土信仰」にも縁が深いという、まさに日本の神様や仏様が大集合している祈りの地。
こうしたパワースポットとしての魅力が、平安の時代から今に至るまで、日本人の心をとらえ続けています。

プロローグ~伝統に彩られた暮らしの源~ 和歌山県編

田辺市本宮町にある熊野本宮大社で、毎年4月13日から15日にかけて行われるのが、熊野本宮大社例大祭。1年の豊穣を願うお祭りです。
この3日間はそれぞれ「湯登神事」、「船玉大祭」、「渡御祭」と名前が分かれており、とくに13日の湯登神事は、和歌山県の無形民俗文化財に指定されています。

プロローグ~伝統に彩られた暮らしの源~ 和歌山県編

また、この季節は、和歌山県の特産品の1つであるぶどう山椒が、収穫の時期を迎えます。山間部でも育てられる作物として、かつて山の中で自生していたものを見つけたことから栽培が始まった作物。有田川町は、ぶどう山椒栽培の発祥の地なのです。うなぎの蒲焼きなどにかかせない山椒。その原料となるぶどう山椒の70%が、有田川産です。

Part2 森の中に浮かぶ棚田の島 あらぎ島(蘭島)(1分27秒)
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3:33~4:00 あらぎ島 棚田 五月雨
森の中に浮かぶ棚田の島 あらぎ島(蘭島)

農林水産省の『日本の棚田百選』、地球環境関西フォーラムの『関西自然に親しむ風景100選』、和歌山県観光連盟の『和歌山県朝日夕陽百選』等々に選定され、さらに2013年には「蘭島及び三田・清水の農山村景観」の名称で国の重要文化的景観にも選定された棚田「あらぎ島」(蘭島)。正式名称を「嶋新田」といい、今や日本を代表する棚田景観の一つです。

森の中に浮かぶ棚田の島 あらぎ島(蘭島)

あらぎ島の形状は、真珠の原材料となる「アコヤガイ」を思わせるとも言われますが、もちろんここは海の中ではありません。国道480号線を有田川に沿って、森の中を縫うように走ると、上流にさかのぼった有田川が周囲の山にぶつかってUの字のように湾曲した部分があります。その内側に作られた山間部の棚田なのです。
面積は約 24,182 平方メートル(7,315坪)。ここに54枚の田んぼが、地形に寄り添うように作られています。

森の中に浮かぶ棚田の島 あらぎ島(蘭島)

この棚田は、江戸時代初期の1655年に、この土地の庄屋だった笠松太夫によって作られたという来歴が古文書に記されています。以来今日まで、この棚田では1枚も欠けることなく米作りが続けられています。

Part3 城山西小学校の「寿式三番叟」 春 (1分00秒)
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4:00~5:00 城山西小学校 歌舞伎芝居の練習風景 校長 下坊さんインタビュー
城山西小学校の「寿式三番叟」 春

和歌山県有田郡有田川町にある城山西小学校では、秋の発表会として、子どもたちによる二川歌舞伎芝居、和歌山県指定無形民俗文化財の「寿式三番叟」が行われています。

三番叟とは元々、能の「翁」を歌舞伎化したもの。姫の舞・鶴の舞・鈴の舞の三部からなっており、翁の代わりに神の化身である姫が登場するのが特徴です。
とくにこの寿式三番叟はもっとも儀式的な色合いが残っている厳粛なものとされ、力強さとともに品位に満ちた踊りが特徴です。

城山西小学校の「寿式三番叟」 春

二川歌舞伎芝居は全国各地に残る農村歌舞伎の一つ。農村歌舞伎は、農家の人々の娯楽として、また祭礼などで行われる奉納芸能として、江戸時代には全国各地で行われていました。
この地域でも関西圏に立地が近いことから、京都や大阪から歌舞伎の振付師を呼び、さらに衣装、そして回り舞台などを設置した本格的な舞台まで作って興行を行ってきました。
しかし歌舞伎芝居全編を通してを行うことは、いくら演じることが楽しみだとしても、なかなか大変です。そこで現在、多くの農村歌舞伎は、その演目のなかで神への祈祷・儀礼的な要素が強い三番叟だけを残して、演目を簡略化する傾向があるようです。

城山西小学校の「寿式三番叟」 春

このパートでは、春、子どもたちが秋の発表会に向けて練習を始めていく様子などがご覧いただけます。

Part4 備長炭(2分47秒)
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5:00~5:37 田辺市秋津川 紀州備長炭 紀州備長炭記念公園
5:37~7:00 紀州備長炭を作る北山増男さんの仕事
7:00~7:47 翌日、窯出し
備長炭

炭は今日、燃料としてだけでなく、消臭や有害物質の吸着、湿度調節などの効用でも注目されています。その中でもいまや高級な炭の代名詞とも言える「備長炭」。
もちろん、和歌山県・紀州の地で生まれた特産品です。

備長炭

中山間地で森林が大半を占める紀州地方では、かつて弘法大師が中国から持ち帰った製法を高野山で広めたといわれるほど、古くから炭の生産が行われていました。 しかしその紀州の炭が、これほどまでに普及し有名になったのは、江戸時代の徳川紀州藩の産業振興政策にありました。
平地の少ない紀州では、こうした山間部に住む人々の暮らしを改善することも、重要な施政です。そこで、山や森林も積極的に活用する様々な産業振興策が行われました。「御仕入方」という役所をつくり、収入の少ない山間部の人々に資金を提供、炭焼きや木材生産など、山間地でも行える様々な産業を支援しました。産品の買い取りや、運送費の負担、冬の食料不足対策としての援助米融資など、現代の自治体が行う地域振興策にも通じる施策を実施したのです。

備長炭

こうして作られた紀州の炭を紀州藩の専売とすることで、品質と価格をコントロール。
品質の高い紀州の炭は、上方や江戸で人気となり、同じく振興政策を行っていたミカンとともに、紀州の特産品として広く知られるようになったのです。

Part5 紀州田辺の梅干し(1分5秒)
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7:47~8:52 和歌山の春 田辺下三栖の梅 紀州南高梅を作る小芝鉄也さんの仕事
紀州田辺の梅干し

和歌山県というと、南高梅の梅干しを思い浮かべる人も多いかもしれません。 その紀州の梅産地として盛んなのが、この田辺市とみなべ町。 春になると、この地域広がる梅林は、ほのかな梅の香りで満たされます。
このパートでは、紀州南高梅の受粉の様子を紹介しています。

紀州田辺の梅干し

ところで、なぜ田辺市周辺ではこんなに多くの梅が植えられたのでしょうか 梅は奈良時代には菓子として、平安時代には薬効を持つ食べ物として(梅干し)、日本でも早くから貴族や僧侶の間で食されていたようです。また、鎌倉時代や戦国時代は武士が好んで梅干しを食しており、江戸時代になると一般的な食品として庶民の間でも大量に消費されるようになります。 実はこうした江戸での梅干し人気に目をつけたのが、現在の田辺市やみなべ町近辺を所領する徳川家康の重臣で、その後、紀州徳川家の家老となった安藤帯刀が藩主を務めた紀伊田辺藩でした。 ここ田辺市周辺も、比較的平地が少ない中山間地。水田などの場所は限られており、そのために何かしらの土地利用策が必要でした。
そこで、藩が栽培を奨励したものの一つが、梅。 もともとこの地には荒れ地や山の斜面で自生していた「やぶ梅」があり、これを山の斜面などに植えて梅畑にし、梅干し作りを奨励したのです。
そして、できあがったものを「梅干し御仕入れ方掛」という役人が買い取り、上方や江戸に売るというシステムを作って、梅をビジネス化していったのです。

紀州田辺の梅干し

この紀伊田辺藩の梅干しは、その後江戸で大ヒット商品となります。 品質のよい梅干しだけを厳選して出荷していたため、他に比べておいしかったということもあるでしょうが、一番の要因はブランド化に成功した点にあるようです。
今ではプラスティックの桶が主流ですが、当時梅干しは木の樽に詰めて出荷されていました。紀伊田辺藩では、この樽一つ一つに「紀伊田辺産」の焼き印を押して出荷。箱にブランド名をつけて、明確に他産地の競合商品と差別化を図ったのです。当時、こうした農産物に産地名などをつけて販売する例は多くはありませんでした。しかも、当時の江戸は出版なども盛んで、かなり進んだ情報社会でしたから、「梅干しなら紀州田辺産」というイメージが急速に定着したのかもしれません。 こうした古人の知恵は、現在の農産物販売戦略の上でも、ヒントや参考になることが多そうですね。

Part6 日本三大火祭り、那智の火祭(44秒)
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8:52~9:05 和歌山の夏 夏模様
9:05~9:36 野那智大社 那智の火祭の様子
日本三大火祭り、那智の火祭

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、熊野那智大社。熊野速玉大社、熊野本宮大社とともに熊野三山の1つに数えられ、「一の滝」と呼ばれる那智の滝を神とする自然崇拝からおこった社と考えられています。

日本三大火祭り、那智の火祭

ここでは毎年7月14日に、和歌山県の無形民俗文化財に指定されている日本三大火祭りの一つ「那智の火祭り」が行われます。
これは、「熊野権現」と呼ばれる十二体の扇神輿を松明の火で清め、熊野那智大社から御滝へと渡御(とぎょ)させる神事。正式には「扇祭」、「扇会式」という名称がついています。

日本三大火祭り、那智の火祭

重さ約50kgの燃え盛る松明を運ぶのは、白装束に烏帽子姿の氏子たち。急な石段を練り歩く様は迫力に満ちて、毎年多くの観光客で賑わいます。

Part7 金山寺味噌と醤油の起源(2分47秒)
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9:36~10:00 有田群湯浅町 湯浅町伝統建造物群保存地区の街並
10:00~10:18 金山寺醤醸造元 太田久助吟製の金山寺味噌
10:18~11:33 金山寺味噌を作る太田庄輔さん
11:33~12:23 金山寺味噌を作る太田庄輔さん
金山寺味噌と醤油の起源

味噌は現在では味噌汁を筆頭に、さまざな料理に使われますが、元々は大豆や麦などの穀物、あるいは野菜などを麹で発酵させて塩漬けにすることで、腐りにくくする保存食でした。
ここで紹介している「金山寺味噌」も、こうした保存食としての「食べる味噌」の一つです。

この金山寺味噌、起源についてはいくつか説があります。一つは湯浅町から車で20分ほど南下した由良町にある「興国寺」を建立した鎌倉時代の僧・覚心(法燈国師)が中国(宋)での修行時代、径山寺味噌の製法を習得し、それを湯浅などの興国寺周辺の人々に教えたという説。もう一つは、弘法大師・空海が中国で修行した金山寺で習ったこの味噌の製法を、高野山で広めたという説。 時代は違いますが、どちらにせよ日本では和歌山県から普及していったことに間違いなさそうです。

金山寺味噌と醤油の起源

さて、この金山寺味噌、詳しい製法はぜひ映像を見ていただきたいのですが、基本は普通の味噌のように大豆、米、麦をあらかじめ蒸し、麹菌を加えますが、金山寺味噌は、ここにさらに塩、砂糖などと瓜・なす・生姜・シソなどの野菜を細かく切って一緒に入れます。 野菜のみじん切りの味噌漬けといったところでしょうか。
その味はというと、甘みの強い関西系の味噌をマイルドにしたような風味に、麹の発酵した匂いがしてきますが、そこにもう一つ、私たちには非常になじみ深い味がミックスされていることに気づきます。
醤油の味です。

実は、私達が日常的に使っている醤油の起源は、この湯浅の金山寺味噌の製造過程で偶然つくられたもの、という説があります。 つまり、醤油のルーツはこの金山寺味噌だというのです。

金山寺味噌と醤油の起源

現在の金山寺味噌は、ほとんど水分が感じられない、ねっとりとしたまさしく味噌状態の食べ物ですが、当初はもっと水分があり、製造過程でも樽に仕込んだ金山寺味噌の上にたくさんの水分が「溜まっていた」そうです。ためしにこの汁を料理に使ってみると・・・おいしい!
そこで、これを単独で作ってできたのが、現在の醤油=「溜まり醤油」というわけです。

この説に関しては、まだはっきりとした学術的な検証がなされたわけではありませんが、この後、江戸から明治にかけて湯浅は醤油の町として発展していくことになり、また、この湯浅醤油の技術が千葉県の銚子などの関東地方にも伝えられるに至り、醤油は日本のもっともオーソドックスな調味料として普及、発展していくのです。

Part8 あらぎ島を作った男 笠松左太夫(19秒)
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12:23~12:42 あらぎ島の稲
あらぎ島を作った男 笠松左太夫

この棚田がつくられたのは、江戸時代の初期・1655年、和歌山に徳川家康の10男である徳川頼宣が、いわゆる徳川御三家の一つとして紀州藩をおいてから数十年たった頃のことです。
当時はまだ紀州藩初代徳川頼宣が藩主の時代。しかし藩の財政はこの時点でかなり切迫していました。
もともと紀州は、その後広島に移封され安芸広島藩主となる浅野家が居城にしていたところ。新たにその藩主となった徳川頼宣は、数年前の一揆で情勢が不安定なこの地で、早急に自分の支配体制を確立しなければならず、城の増強や、家臣の増員、様々な地域振興策の実施など、無理な支出を強いられていたのです。
しかし藩としては石高55万5千石と、石高だけを見れば、江戸時代の藩の中で加賀や薩摩、伊達、そしてもう一つの御三家尾張徳川家と、これらにつづく第5位の大藩でした。けれども領地のほとんどが中山間地で、生産能力が圧倒的に他の藩に比べて劣っていために、藩の財政は当初から厳しいものだったのです。
(その後も紀州藩の財政難は続きますが、これを改革した紀州第五代藩主・吉宗が、その実績を買われて徳川第八代将軍に抜擢されるという歴史につながっていきます)

あらぎ島を作った男 笠松左太夫

この祭りが開催されるのが、神楽門前湯治村の神楽ドーム。東京ドームと同じ幕を張っていること紀州藩で早急に求められていたのが、新田開拓と産業の開発。そしてそのための、積極的な人材登用でした。
その中の一人が、あらぎ島を作った笠松左太夫という大庄屋です。もともとあらぎ島のある現有田町清水付近は、山の中とはいえ、高野七口といわれる高野山へ続く街道筋の一つ。人口もそれなりに多く、庄屋も5人いたようですが、その評判は芳しくなく、地域振興の妨げになっていたようです。そこで、この地域で評判の良い笠松左太夫を、その5人の代わりに大抜擢。これに応えた笠松左太夫は自分の子ともども、この地の開拓に邁進。自費を投じて13ヶ所もの用水路や池を整備し、この山間の地にあらぎ島を含めて8町8反、およそ9万m2の新田を切り拓いたのです。

あらぎ島を作った男 笠松左太夫

笠松左太夫はこうした新田開発以外にも藩内になかった和紙製造産業の立ち上げなどを藩から指示されます。しかし、藩内にはこうした技能者は皆無でした。また、紙漉きの技術がある他藩も、そうそう技術を教えてはくれません。そこで笠松左太夫は、ちょっと変わった戦略を思いつきます。紙漉き技術のある地域に、女性ウケしそうなイケメン達を派遣。彼らが紙漉きの技術を持った女性を嫁として連れ帰るという、大胆な戦略に出たそうです。実際の真偽は定かではありませんが、様々な苦難の末、笠松左太夫は和紙づくりに成功。紀州特産の「保田紙」が完成し、その製造は昭和まで続いていくのです。

Part9 城山西小学校の「寿式三番叟」 夏(52秒)
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12:42~13:10 城山西小学校の子ども歌舞伎夜間練習
13:10~13:34 二川歌舞伎保存会会長 浦西幸良さんインタビュー
城山西小学校の「寿式三番叟」 夏

和歌山県の指定無形民俗文化財、二川歌舞伎芝居「寿式三番叟」。 この二川歌舞伎芝居は約200年前、豊作を祈る祭礼行事として城山神社に奉納されたものです。

城山西小学校の「寿式三番叟」 夏

有田郡有田川町にある城山西小学校では、子どもたちが秋にこの演目を発表するため、地域の人たちとともに春から練習を始め、夏の間も個別練習や夜間練習を熱心に続けています。

城山西小学校の「寿式三番叟」 夏

長年にわたって子どもたちを指導しているのは、地域の有志で集まった歌舞伎保存会の人たち。10月の発表会が近づいてくると、仕事の合間を縫っては学校に足を運んで教えています。
このパートでは、発表に向けて練習をする子どもたちや、二川歌舞伎保存会の様子などをご覧いただけます。

Part10 実が大きくて柔らかな南高梅の誕生(2分36秒)
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13:34~14:24 田辺市下三栖の紀州南高梅に生った実 手摘みの様子
14:24~14:41 熟して落ちた梅拾いの時期
14:41~15:08 梅の加工の様子
15:08~16:10 梅を寝かせてから1ヵ月後、天日干し
実が大きくて柔らかな南高梅の誕生

江戸時代から人気を博した、紀州田辺藩の梅干し。しかし当時の梅は、果肉のうすい小梅でした。
その後、梅の改良も試みられましたが、明治の初期には絹産業が爆発的に発展し、農村では養蚕が大流行。梅の大生産地であった南部の梅林の多くが、蚕のえさとなる桑畑に代わり、梅の生産そのものがすっかり縮小される時代がしばらく続きました。

実が大きくて柔らかな南高梅の誕生

もう一度この南部に梅が戻ってくるのは、明治20年代から40年頃にかけて。実はこのころの日本は、日清戦争から日露戦争へと軍備拡張の真っ最中。その軍隊の常備食として、梅干しの大量需要が発生したのです。
こうした需要に応えるために、南部の人々は桑畑を再び梅林へと戻していきました。

そんななか、地元に高田貞楠という人物がいました。彼は自分の桑畑を梅畑にするために、近所から梅の苗を60本購入します。それを植えてみると、その中に1本だけ、実がたくさんなり、しかも大きく、緑色とあかね色のグラデーション(これを‘虹が出る’といいます)が鮮やかな実のなる梅の木が、1本だけあったのです。これが、現在の南高梅の元となる高田梅の原木です。 彼はこの1本の原木を大切に育て、増やしていきます。

実が大きくて柔らかな南高梅の誕生

けれどもこの高田梅が広く普及していくのは、さらにずっと後のこと。 昭和25年に、南部周辺の梅栽培をさらに発展させるために優良母樹を見つけようと、「梅優良母樹選定委員会」が発足。近隣で栽培されている梅の品種を、5年間かけて調査していきました。そこで最優良品種として選ばれたのが、この「高田梅」だったのです。昭和40年には、その名を調査に貢献した南部高校の名前をとって、「南高梅」とし、栽培を広く普及させていきました。 このように、たった1本の木から生まれた南高梅は、現在ではこの南部で生産される梅の7割を占めるまでに至っています。

Part11 熊野速玉大社例大祭(1分4秒)
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16:10~16:22 和歌山の秋 秋冷
16:22~17:14 熊野速玉大社の熊野速玉大社例大祭
熊野速玉大社例大祭

熊野本宮大社、熊野那智大社とともに熊野三山の1つとされる、熊野速玉大社。熊野速玉大神と熊野夫須美大神を主祭神としている神社です。

熊野速玉大社例大祭

ここで毎年秋に開催されるのが、熊野速玉大社例大祭。和歌山県指定無形民俗文化財で、神代の時代絵巻を今に伝える伝統行事です。
この祭りでは、神職や氏子たちが神輿をかついで町内を練り歩く「神馬渡御」や、神幸船を先導し、御船島の周りを9隻の早舟が周って速さを競う「御船祭」などが行われます。

熊野速玉大社例大祭

とくに御船祭は、約1000年以上の歴史をもつとされ、祭り当日の熊野川では、早船を漕ぐ男性たちの「やっさ、やっさ」という威勢のよい声が響き渡ります。

Part12 あらぎ島を作った紀州の治水工事技術(29秒)
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17:14~17:43 あらぎ島の稲穂
あらぎ島を作った紀州の治水工事技術

9月、あらぎ島はいよいよ収穫の時を迎えます。
あらぎ島で育てられる米は、すべてが同じ品種ではありません。 そのため収穫の時期もそれぞれの田で異なり、棚田はまだ緑色の深い場所から収穫前の黄金色、そして刈り取られた後の茶色の部分と、この時期パッチワークのような彩りになっていきます。

さて、あらぎ島のように数多くの新田開発が行われた紀州藩では、治水工事のために優れた測量技術や土木工法をもつ人材が多く輩出されました。ついには「紀州流」と呼ばれ、当時の世界水準をもしのぐような「治水工法」が確立されるようになりました。

新田開発や産業振興のために、紀州徳川藩では農民、町民など身分を問わない、革命的な人材登用が行われます。
その一人が、1600年代の後半に取り立てられた、大畑才蔵です。 彼は元々農家の生まれで、18歳の時に庄屋の補佐になり、その後庄屋に昇格。 治水工事や新田開発などを通して、村の振興に貢献していきます。
こうした実績を買われて、55歳の時に藩の下級役人に取り立てられ、新田開発やそのための用水計画のための調査、そして実際の土木工事に従事していきます。

あらぎ島を作った紀州の治水工事技術

大畑が優秀であり、かつ非常にユニークな人材であることを示す一例として、彼が作り出した計測機械があります。「水盛台」という、土地の高さを測る機械です。 高さを精密に測る―実はこれは用水を完成させるためには非常に重要なポイントです。
その後「紀州流」と呼ばれるようになる彼らの治水工事は、現在の治水工事の水準から見ても、きわめて高度で優秀な工法として高く評価されていますが、その「紀州流」が従来までの治水工事と異なる大きな特徴の一つは、水路の傾斜の角度だといわれています。
それまでの工法に比べて、「紀州流」の角度は、格段に浅くなだらかなのです。 これは、直角三角形の斜辺を考えるとわかります。斜辺が急な角度では底辺は短くなり、斜辺の角度が浅ければ、三角形の底辺は長くなります。
つまり、より浅い角度で水を通せれば、より遠くの水源からでも水を引くことができ、新田開発をする場所の選択肢が増えるというわけです。また、より長く水路を延ばせれば、より多くの場所に給水でき、新田を作る面積も広げられるのです。
もちろんこのためには、実際にその角度で水路を作る技術も重要ですが、まずその地点の高さや角度を測り、どのように水路を作るのかということをしっかり設計できるかどうかが鍵なのです。 「水盛台」は、まさにこうした計測と設計の重要性を理解していた彼だからこそ、作り得た計測器だったのです。

彼の優秀さは、それだけではありません。彼は事前の設計図から、その工事エリアで掘り出す土の量を計算。その量により必要な作業人数と作業日数を割り出して、精緻な作業計画書を作ります。 こうした計画書を作るのは、今では当たり前のことですが、彼がこれを作ったのは17世紀。江戸時代もまだ中期のこと。
イギリスでようやく産業革命が始まった時代なのだから驚きです。

あらぎ島を作った紀州の治水工事技術

こうしたことを可能にしたのは、この時代の農文化の力ともいえるでしょう。 農文化というと、もちろん伝統行事や民俗芸能が挙げられますが、じつはそれだけではありません。
この時代、日本の農民は、それまでの荘園や武士団といった集団農場の中で働く小作人から、自分たちの耕作地を家族で守り、自分たちで経営する形態へ変わっていきました。
つまり、自分たちのがんばりがそのまま生活の向上につながる代わりに、年間の収穫高に占める年貢や地方税の割合の計算など、経営的なセンスや能力も必要になった時代でもあるのです。 そのために農村部でも、本を読む力や計算能力が必要になり、ついには農村で和算の本がベストセラーになったり、和算ブームが起こるような時代になっていました。

大畑才蔵も幼ない頃から数学が得意で、それが認められて庄屋の補佐につき、そこで土木測量を担当していました。
農民たちのこうした計算力や構想力を生かしたあらぎ島をはじめ、紀州の様々な新田開発や治水工事プロジェクトは、紀州の農の先人たちが残した、すばらしい農文化なのです。

Part13 城山西小学校の「寿式三番叟」 秋(2分50秒)
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17:43~18:23 有田郡有田川町 城山西小学校の子ども歌舞伎本番当日
18:23~20:33 子ども歌舞伎寿式三番叟
城山西小学校の「寿式三番叟」 秋

和歌山県の指定無形民俗文化財、二川歌舞伎芝居「寿式三番叟」。この作品を発表するため、城山西小学校では子どもたちが、春から地域の人たちとともに一所懸命練習を続けてきました。

城山西小学校の「寿式三番叟」 秋

そして10月。長い練習期間を経て、ついに子ども歌舞伎の芸能発表会が行われます。
会場は、学校の体育館。子どもたちはメイクに衣装と本格的な準備をして、舞いや歌、三味線など、それぞれのパートを演じていきます。

城山西小学校の「寿式三番叟」 秋

このパートでは、子ども歌舞伎本番当日の準備から本番までの様子をご覧いただけます。

Part14 紀州梅を使った料理と紀南の特産品を学べるところ(1分51秒)
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20:33~22:24 秋の田辺市下三栖 梅を使った料理、さんまと梅干しの煮付け、梅じゃこご飯、きゅうりとささ身の梅和え、鳥の梅酢唐揚げ
紀州梅を使った料理と紀南の特産品を学べるところ

梅干しは、もちろんそのまま食してもおいしいのですが、和え物として、また味付けの調味料として、さまざまなかたちで楽しむことができます。

紀州梅を使った料理と紀南の特産品を学べるところ

このパートでは、梅を使った郷土の家庭料理を紹介しています。

・ さんまと梅干しの煮付け
・ 梅じゃこご飯
・ キュウリとささみの梅和え
・ 鳥の梅酢唐揚げ

紀州梅を使った料理と紀南の特産品を学べるところ

Part15 神倉神社のゴトビキ岩(1分22秒)
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22:24~22:34 和歌山の冬 寒暁
22:34~23:00 お燈祭
23:00~23:46 神倉神社 ゴトビキ岩
神倉神社のゴトビキ岩

熊野三山の一つ、熊野速玉大社。ここから少し離れたところに位置し、「飛地境内摂社」とされるのが、神倉神社です。

神倉神社のゴトビキ岩

この神社のご神体として祀られているのは、山上にある巨大なゴトビキ岩。この地域の言葉でゴトビキとはガマガエルを意味しており、岩そのものの形が似ていることから名づけられたといわれています。

神倉神社のゴトビキ岩

このゴトビキ岩までは、538段の急で険しい石の階段が続いています。源頼朝が寄進したとされ、全てが自然石による組み立て。冬の時期に行われる行事「お燈祭」では、白装束に身を包んだ男たちが片手に松明を持ち、この階段を一気に駆け下りる神事が行われています。

Part16 湯浅醤油と湯浅の町(2分25秒)
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23:46~26:11 有田郡湯先浅町の湯浅醤油、角長 湯浅醤油をつくる加納誠さんの仕事
湯浅醤油と湯浅の町

紀州・湯浅で、金山寺味噌の樽にたまった汁をルーツに始まったといわれる、日本の醤油。実際にこの汁が、いつ頃から現在のような醤油という商品になったのかについては、湯浅にも記録がないようです。
ただ、室町時代の後半の1500年代には、湯浅から醤油を大阪方面に出荷した記録があり、他の地域でこれより前の時代に醤油生産・販売の記録がないことを見ると、少なくとも湯浅が日本の醤油発祥の地にもっとも近い存在であることは、間違いなさそうです。また、今や醤油の一大生産地である千葉県の銚子や野田の醤油生産も、湯浅や湯浅周辺の人々が移住して生産が始まったとされていることから、こうした意味でも、湯浅が日本の醤油普及に果たした役割は非常に大きいといえるでしょう。

湯浅醤油と湯浅の町

その後、醤油作りは一時期大阪が主要生産地になりますが、江戸時代になると湯浅の醤油は、再び隆盛を極めます。 そこにはやはり、紀州徳川家の産業支援がありました。
紀州徳川家は湯浅の醤油生産に関しても、無利息融資による経営のバックアップや、醤油を輸送する船に幕府の御用船なみの待遇を与え便宜を図るなどして、湯浅醤油を積極的に保護育成しました。こうした支援もあって江戸時代、文化文政時期の全盛期には、湯浅の町に90軒以上、江戸後期でも32軒の醤油醸造所があり、当時の紀州藩領では城下町である和歌山に次ぐ紀州第二の町となったのです。
そんな湯浅の醤油産業も、明治以降には紀州藩の保護もなくなり、さらに工場での大量生産が各地で始まると、次第に衰退していきます。
しかし、映像にある天保12年(1841年)創業の「角長」では、今もその創業当時からある醸造倉で、昔ながらの湯浅醤油の味を守っています。

湯浅醤油と湯浅の町

ところで、ここで紹介した「角長」や金山寺味噌の「太田久助吟製」は、湯浅の旧市街である北町通りに面しています。
この北町通りを中心とした湯浅の旧市街は、今でも醸造倉や「厨子二階」と呼ばれる低い2階建て、あるいは江戸期の町屋建築など、醤油醸造が盛んだった頃の町並みをよく残しており、平成18年(2006)12月19日には、全国初の醤油の醸造町として、国の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されました。
実はこうした町並みが残った背景には、興味深い理由があります。それは、湯浅の町が、交通機関発展の歴史によって、その繁華街を移してきた前の時代の町並みが、そのまま更新されずに残っているのです。
湯浅はまず、熊野詣でなどで使われた熊野街道を中心に栄えます。「道町」と言うエリアはその時代からの町。今も街道の道標(立石道標)が残っています。
次は醤油醸造とこれらを積み出した海運の時代。この時代の中心地は「道町」から西に伸びたエリア、醤油の醸造所が並び、醤油積み出し埠頭である大山堀がある「北町」に移ります。 そして時代が鉄道の時代になると、旧市街からは南に離れた今のJR湯浅駅周辺が栄えます。そして現在は車社会、今度は駅からも離れた国道42号沿いにスーパーや大型店が進出し、現在の町の賑わいはそちらへ移っています。
近世の美しい商業街区である旧市街の保存地区は、もちろんぜひ訪れたい場所ですが、このように多層に発展した街の様相も含めて、湯浅という街を歩くのも楽しいかもしれません。

Part17 さんま寿司と冬の梅林選定作業(1分5秒)
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26:11~27:40 正月 珠簾神社での初詣 さんま寿司
27:40~28:22 梅の畑 剪定作業
28:22~30:27 エンディング
さんま寿司と冬の梅林選定作業

このパートでは田辺市周辺の正月の風景と、紀南地方の冬の郷土料理である「さんま寿司」(さえらずし)を紹介。
さらに、梅栽培ではもっとも重要ともいわれる冬の剪定作業の様子をご覧いただけます。

この地方で「さえら」とも呼ぶサンマは、田辺周辺を含む紀南地方では、正月などに食べる冬の味覚の代表でした。
通常、サンマは初秋から秋にかけて、北の海から太平洋沿岸を南下してくる魚。それを北海道沖や東北沖などの漁で捕えます。
しかしこのサンマがさらに南下し、紀州沖にサンマがやってくるのは、すでに冬に近い晩秋。だから、紀州ではサンマは冬の魚なのです。

さんま寿司と冬の梅林選定作業

さてこのサンマ、一般的な塩焼きではなく、この映像で紹介しているように、「さんま寿司」(押し寿司)にして食べるのが伝統的な食べ方。
実はこの時期に紀州沖まで来るサンマは産卵期も過ぎ、脂が落ちて型も小さく、塩焼きなどにしてもあまりおいしくないといいます。しかしそれが逆に寿司ネタとしては好都合。不要な油が抜けていているほうが、くせのないさっぱりとした味になり、おいしい寿司ネタになるのです。
同じく、この油の抜けたサンマを使うのが、熊野地方の「なれずし」。 「なれずし」は酢を使わずサンマを塩漬けにしてから飯にのせ、「うらじろ」と呼ばれるシダの葉などにくるんで自然発酵させた寿司で、寿司の原型ともいわれています。

さんま寿司と冬の梅林選定作業

紀州にはこうした押し寿司やなれずし、葉っぱでくるんだめはりずしのような寿司が数多くあります。実はこれも、この地方の農文化の産物。山間部の多い紀州では、海に囲まれているとはいえ、新鮮な魚を食べることがむずかしいため、こうした保存食としての寿司が数多く作られ、現在まで伝えられているのです。

マップ

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